聖書箇所 ヤコブの手紙2:1

 

2:1 私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

 

「人をえこひいきしない」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

世の中もそうですが、教会やクリスチャンの間においても「えこひいき」はあります。「えこひいき」のところはKJV訳だと「差別する」「分け隔てをする」とあります。もちろんこの世においてこのことはまかり通っている、と、言うよりも、良い悪いは別として常識とされています。自分の好き嫌いや感情で大体のことを判断します。ゆえに「公正」なんてことばは、この世においてはほぼ皆無です。だとしても、これってこの世の人だけがそうか?と言うと、そうではなく教会やクリスチャンでも、そういった傾向にあるのでは?と思います。

 

具体的に言うと、今のキリスト教会やクリスチャンは「悪」を「善」と呼び、「善」を「悪」と言っている、そんな流れにあるのでは?と思います。ある意味、この世の人は神様やイエス様のことを信じていないので仕方が無いと思うのですが、教会やクリスチャンにあっては、それはNGなのです。本日の箇所にはっきりと、「えこひいきしてはいけません」と書かれているからです。そう、そして「悪」を「善」、「善」を「悪」とすることが、そのまま「人をえこひいき」することにつながっていくのです。そしてこのこと、人をえこひいきすることは聖書では固く禁じられています。それに関していくつかみことばを紹介します。

 

参照 箴言24:23,24、箴言18:5、ヤコブ2:9

24:23 これらもまた、知恵ある者による。さばくときに、人をかたより見るのはよくない。

24:24 悪者に向かって、「あなたは正しい。」と言う者を、人々はののしり、民はのろう。

18:5 悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない。

2:9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。

 

参照箇所に書かれているように、人をえこひいきしたり、かたより見ることは主が忌み嫌うことだということが分かります。24節にはそうする人に対して「呪う」とまで言われています。ちなみに「ののしり」のところは、英語だと「嫌う」と訳されています。もちろん私たちは人を呪ってはいけません。たしかに「民はのろう」とありますが、「民」とは、私の勘違いでなければですが、恐らく神の「聖徒」のことを言われているのではないかと思います。「聖徒」とは英語で、“Godly”、つまり「神のような人々」ということです。ですから神のような人々が直接呪わないにしても、神ご自身がそういう人に対して(もちろん悔い改めれば別ですが)呪いや災いをもたらすと、そんな風に理解できるのではないかと思います。そして人をえこひいきしていくときに神にどんな風に見られてしまうのか?と言うと、いくら信仰を持っている、クリスチャンとして歩んでいると称していても、「罪を犯している」という風に見なさせてしまうのです。これって大変なことですよね。人の前には、「まぁ、仕方がないか」なんて思われる程度に済むかもしれませんが、しかし神様の前には罪となり、律法による違反者となってしまうのです。ですから「えこひいき」ということに関して決して軽視してはいけないのです。自分の好き嫌いで、良いものを悪いと言ったり、悪いものを良いと言ったり、はたまたそんな風に人に接してしまってはダメなのです。世の中はそうかも知れません。あるいはキリスト教会やクリスチャンもだんだんとそうなっていくかもしれません。でも、そういうことに引っ張られてはいけません。引っ張られていくときに、正しいこととそうでないこととの識別が次第にできなくなり、教理的にも霊的におかしな方向へと引っ張られていきます。そしてどこまでもそうしていくときに、成れの果ては、神様からの裁きを招いてしまうので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

 

そう、たかが「えこひいき」なんて軽く考えがちかもしれませんが、このことは「裁き」と直結することになりますので、重々肝に銘じておきたいと思います。他の箇所では「正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。」とも書いています。これは「正義と公正」を行うことにそのままつながっていきます。たしかに人と人の間では、かたよりみたり、えこひいきをしたりすることはあるかもしれませんが、しかし、神様は決して人をかたより見たり、えこひいきをしたりすることなく、すべてにおいて公正に裁きをされる方なので、私たちもそのことに準じていきたいと思います。特にこれからは、不法がまかり通り、そのようなことをこの世の人だけでなくクリスチャンも受け入れていく時代なので、そういった惑わしや罪やだましごとに入って、それによって人をえこひいきして、神の裁きを招くことのないように気をつけていきたいと思います。また、みことばに「聖徒が世界をさばくようになる」ということが書かれていますので、この世においてきちんとしたさばきができなければ、後の世においてそういう立場に置いていただくのは難しいと思いますので、この世においてもきちんとしたさばきをするように心がけていきたいと思います。そして良いものは良いと、悪いものは悪いという風に、常にハッキリとした態度を神の前にも人の前にも示していきたいと思います。

 

聖書に「否は否、しかりはしかりとしなさい、それ以上は罪です」ということばがありますが、これって本当に大事だなぁと思います。世の中をはじめ、キリスト教会やクリスチャンが益々悪くなる中で、しかもこれから艱難時代に入っていく中で、益々そういうことに徹していかなければなんていう風な示しを最近主からあらゆることを通して受けたばかりですが、本日のみことばを通して重ねてそういったことを神様が語っているのでは?という風に思いました。

 

特に人に対して・・・それこそ自分の思いや感情や好みとかは別として、人を見るときにみことばに基づいて公正に見て判断して対応していくことは大事なのでは?と思います。そんな中でここ数年前から主から示されていることがあります。それはどんな示しかと言うと、心から神様だけを頼っている人、聖書で言う寄留者、やもめ、みなしごの歩みに徹している人や、みことばのために困難や迫害や試練に会っている人のために特にとりなしをしていきなさいというものです。とりあえず言われたとおりに実践することにしました。そして今でもこのことは継続していますし、これからもずっと続けていくつもりですが、最近へブル人への手紙を通して、そのことについて合点がいきました。このように書かれています。「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい」というみことばです。

 

以前、あるクリスチャンがこのような証をされていました。「神様は一番弱い人と共にいる」と。そのことばは、今でも私の心に深く焼き付いていますし、その証を聞いたときに、「本当にその通りだ」と思いました。この世においてもそうですが、クリスチャンの間でも、色々な意味合いで強い人、具体的に言うと能力があったり賜物があったりと、そういう人がもてはやされているような傾向が全体に見受けられるように思います。それをすべて否定するわけではありません。しかし、今、申し上げたように、神様は真に神様だけを頼り、助けを求めている人に常に目を注いでおられるお方なので、私自身も、もちろん自分はただの人ではありますが、そういったことに倣っていきたいと、いつしかそんな志が与えられるようになりました。また、自分自身も弱い者だということを常に自覚しつつ、ほんのわずかでもとりなしていけたらなぁという風に思っています。たしかに周囲を見渡せば、救われていない人(未信者)が多いのでそういう人たちのためのとりなしも大事だとは思いますが、聖書のみことばに準じて、一つ一つのことを主にあって成していけたらと思います。メッセージと符号する証かどうかは分かりませんが、何かの助けになったりわずかでもお役に立てたらと思います。本日も大切なことを語ってくださった神様に栄光と誉れがありますように。