聖書箇所 ヤコブの手紙4:6

 

4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

「高ぶりに気をつける」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

世の中においても高ぶる人は嫌われます。また、世の中の人は神様を知らないし、イエス様のことを知らないのでクリスチャンに比べると特にそんな風になりやすいと思います。もちろん異邦人がみな、そうではありません。腰の低い人、謙遜な人はいます。ただ、昨今、自分も含めてクリスチャンの間においても、高ぶってしまうということは往々にして起きやすいのでは?と思います。しかし聖書では、はっきりと「神は高ぶる者」を退けると言われています。このところはKJVだと「神は高慢な人に反抗する」とあります。また、こんなみことばを思い出します。箴言に「主はすべて心おごる者を忌み嫌われる。確かに、この者は罰を免れない」とあります。

 

私たちが思う以上に、「高ぶり」「高慢」「驕り」は神様から嫌がられることが分かります。「高ぶり」に関して、今回私は二点のことを示されました。1つは、ごく一般的な「人前」での「高ぶり」です。これは信者、未信者、共通のことです。もう1つは、主の声に聞き従わないということです。主の声を聞くということに関しては、聖書を知らない未信者は該当しません。これはクリスチャンのみに該当します。イザヤ書には以下のことばが書かれています。

 

参照 イザヤ書66:2

66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

 

「わたしのことばにおののく者」のところに語りかけを感じます。これはどういう人のことを言っているのかと言うと、主の声に聞き従人のことです。その前には「へりくだって心砕かれ」とあり、へりくだる人、つまり高ぶったり高慢になったり驕ったりしない人は、神様のみことばにおののく人、まさに主の声に順次応答していく人のことを言っているのです。そして、「わたしが目を留める者~」と書かれているように、神様のことばにおののく人に神様は目を留めてくださるのです。たとえ失敗したり、あるいは高ぶったり驕ったりすることがあったとしても、神様から示されたときに、素直に応じていく人に御心があります。いくらクリスチャンであっても、あるいは聖徒のように歩んでいたとしても、罪がすべて消えてしまったわけではなく、原罪を持っているし信仰の途上なので、どうしてもそういった類いのことをはじめ、色々とミスをすることがあります。でも、神様はとても親切で憐れみ深いお方なので、私たちがそのままにすることを良いとされず、愛の鞭や叱責を通して分かるように教えてくださいます。そして私たちが悔い改めていくなら、神様は憐れんでくださって、赦してくださって、悔い改めへと導いてくださいます。私たちが主から示しを受けた時に、どういう風に対応するか?はとても大事なことです。それによって、後においての結果がガラッと変わっていくからです。

 

証になるか分かりませんが・・・私は自分が失敗したこと、それが人に対して驕った態度を取った後ですら、「あの人が悪いんだから、自分に気に入らないことを言ったりしたりしたのだから」と色々と言い訳をしたりして「本当に悪いことをした」となかなか素直に認められないことがあります。もちろんそれで良いわけではないので、神様はちゃんと見ておられて、「そのままではダメだよ。自分の取った悪い態度はすぐに悔い改めなさい」という風に示されます。それも一度や二度ではなく、今まで数々の失敗をした時、その度に神様は示してくださいましたし、今後もきっとそうしてくださると思います。特に人に対して高ぶった態度を取ったり、言ったあとは、必ずといってよいほど教えてくださいます。また、たとえ行動には出なくても、心の内側にそういった思いを持っていた時にも、です。もちろん私もうなじを怖くするのは良くないことだと重々分かっているのですぐに悔い改めのお祈りに導いていただくのですが、「高ぶり」「驕り」「高慢」の罪は、とても重いということをその度に痛切に感じます。今後、そういう失敗をしないという自信は全くありませんが、気をつけていきたいですし、万が一失敗したとしても、すぐに悔い改めていくようにしたいです。もし、いつまでも頑なになって悔い改めないなら、とんでもない方向に行ってしまうので、恐れを持っていきたいと思います。

 

そう、分かっていてもそうなりやすいのですが・・・しかし、私たちが高ぶったり、驕ったり、高慢になっていくときに、どうなってしまうのか?と言うと、以前お話したかも知れませんが、本日のみことばに「退ける」と書かれているように、神様が共におられなくなるのです。もっと分かりやすく言うと、高慢な思いに支配されていくときに、いくら信仰を持っている、賜物を持っている、神の働きをしていると言っても、イエス様を失ってしまうのです。こんなみことばを思い出します。「あなたの名によって預言をしたり、奇蹟を行ったではありませんか?」と言う人に対して、「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。皆出て行きなさい。」と、後の世において退けられてしまった人たちがいます。「不正」とは、「罪」のことを言われていると思いますが、「驕り」「高ぶり」「傲慢」も神の前には同じく「不正」と見なされてしまって、最悪御国を継ぐのをミスしてしまう可能性がありますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。「極端な!」と言う方もいるかも知れませんが、この地上での歩みにおいて神様が共にいないということは・・・私たちを天の御国に連れて行ってくださるのは唯一「神様」だけですので、神様がいなかったら天の御国に入るのは不可能だという理論が成り立つのではないか?と、私個人は思います。ですから繰り返しますが、高ぶることがないように気をつけていきたいと思います。そして万が一高ぶってしまったら、すぐに悔い改めていきたいと思います。また、「へりくだる者に恵みをお授けになる」とありますように、私たちがどんな状況であっても神様の前にいつもへりくだって歩んでいくなら、主の憐れみによって御国の相続者としてふさわしい者にしてくださいますし、神様は共にいてくださいますので、ぜひ、主と主のことばとにへりくだって歩んでいきたいと思います。どんなみことばであれ、従っていく人、守っていく人に恵みや祝福がありますので・・・また、驕りや高ぶりのことにかぎらず、お祈りや預言や人からのことばや状況等を通して、主から何らかの示しを受けた時には逐一応答していくように心がけていきたいと思います。