聖書箇所 ヤコブの手紙5:19,20

 

5:19 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、

5:20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

 

「救いをあきらめない」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

冒頭のみことばは、神さまを知らないこの世の人のことだけではなく、クリスチャンのことも言われています。「真理から迷い出た者」の箇所は、KJV訳では、「思い誤る」「勘違いをする」「過ち()を犯す」「真理からそれる」とあります。クリスチャンであっても、考え違いや勘違いをしたり過ちを犯したりして、真理から外れてしまう場合があります。どんなに敬虔なクリスチャンと言われる人であっても、一度や二度、いえ、結構そういうことを体験しているクリスチャンは案外多いのでは?と思います。私も例外ではありません。自信を持って公言しますが、その一人です。で、あるがゆえに、もし、誰かが19節のようなことになっていたら、決して他人事とは思えませんし、そのまま放置しておくわけにはいかない、正しく対応せねばという示しや導きや語りかけをその都度神さまから与えられています。

 

証になるか分かりませんが、少し話をさせてください。自分が真理とは違う方向に向かっているときに、誰が一番心配しているか?悲しんでいるか?嘆いているか?と言うと、言うまでもなく聖霊さまです。そして聖霊さまは誰かを通して、自分のことをとりなしてくださって、再び正しい方向に歩みができるように導いてくださいました。今までに何度となく、そのことで神さまから助けを受けましたし、これからもきっとそうしてくださることを信じています。同じように、私も誰かが道を外していたり、真理とは違うのでは?という示しを受けたときには、すかさずとりなすようにしています。たかがあなた一人のお祈りが一体何になるの?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、20節のことばを信じて祈るようにしています。「今は気付いていないかも知れません。でも、神さまの時に聖霊さまの憐れみによって気付くことができますように。罪を許していただくことができますように。悔い改めていくことができますように。真理の道をまっすぐに歩んでいくことができますように」と。

 

20「罪人を迷いの道から引き戻す者~」のみことばで、どなたかを思い出しませんか?罪人を迷いの道から引き戻したり、救い出したり、多くの罪をおおうことができるのは、他でもない主ご自身ではないでしょうか?唯一、このお方だけが真理から迷い出たり、罪に陥っている人を救い出し、助けることができるのです。少し思い出してみてください。イエスさまが降臨したのは当時の誤った教えを是正して正しい真理を伝えるためでした。同時に、私たちの罪を赦すためにも来られたのです。みことばには神さまが一人子を与えるほどに世を愛されたこと、そして御子を信じる者がひとりも滅びることなく永遠の命を持つこと、また、御子が遣わされたのは世を裁くためではなく救われるためであることについてはっきりと書かれています。たしかにクリスチャンになったら、真理からそれたり罪を犯さないに越したことはありませんが・・・でも、私たちに色々と弱い部分があったり、罪や誤りに陥りやすかったり、真理から外れやすかったりすることを神さまはよくよく御存知のお方で・・・そしてそれに対して深い同情と憐れみを持っておられて何とか救おうと、助けの手を差し延べようと、真理の方向へ歩ませようと、いつもいつも必死であるということは、よくよく理解されておいてください。なので、「あの人、ダメだよね。クリスチャンのくせに罪ばかり犯していて」とか「いつまでも罪を悔い改めないよね」と、そんな風に後ろ指を指したり、言ったりすることのないように気をつけていきたいと思います。ご自分に置き換えてみたらわかると思いますが、もし、人からそんな風にされたら嫌ですよね。対人(たいひと)に関しては、「お互いさま」だということはよくよく理解しておきましょう。こと、私たちは、みな不完全なのですから。しかも罪がまったく無かったイエスさまですら、人を軽蔑の眼でみたり、言ったりするというような対応は一切取られませんでしたので。たしかに当時のパリサイ人や律法学者の誤りや間違いに対して「蛇よ、まむしのすえよ。」と厳しくはっきりと指摘はしましたが(もちろんそれは神の愛のゆえです)、しかしもう一面の、罪人を招くために、悔い改めへと導くために来られたという面に関しても、正しく見ていかなければいけません。「罪をおおう」とあるように、神さまの御心は私たちの罪を覆い(KJV:隠す)たいのです。そうなんです、神さまの御心は罪を赦して、何とか悔い改めへと導いてあげたいと思われているのです。ゆえに私たちにも、同じようなことをして欲しいと、みことばを通して神さまは語っているのです。

 

申し上げたいことは、「救い」や「悔い改め」に関してあきらめてはいけないのです。未信者であっても、クリスチャンであっても、救われていなかったり、真理とは別方向を歩んでいたりしたとしても、きちんと方向を糾していくことができるように、根気や忍耐をもってとりなしていくことが大事なのです。たとえすぐに悔い改めていく気配が感じられなかったとしても、です。ゆえに日々の祈りの中で、忍耐や自制や寛容な思いを求めていくこともおすすめします。そうでないと、簡単に投げ出したり、あきらめてしまったりしまいますので。

 

罪を赦したり、救ったり、悔い改めに導くのは神さまがすることではありますし、裏返せばこれは神さまにしかできないことなのでそこまでのことは私たちに要求はしていませんが・・・しかし神さまに働いていただくために、お祈りやとりなしをしていくのは私たちクリスチャンの仕事だということは理解しておいてください。もちろん導きがあれば、福音や証を語るのも良いと思います。そういった働きを通して悔い改めていくケースもありますので。その際、これもやはりベースは「祈り」にあることを忘れることがないようにしましょう。どんなに良い教えを持っていても、祈り無しではうまくはいきません。福音や証を語るのなら、きちんと祈ってから実行に移しましょう。その際は、みことばに書かれているように、寛容な心で優しく柔和に語っていきたいと思います。そう、お祈りやとりなし、場合によっては伝道において神さまの栄光や御わざはあらわされていきますので、信じて実践していきたいと思います。民数記には、「彼らがわたしの名でイスラエル人(クリスチャン)のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」ということも書かれていますので、神さまと同じ思いや憐れみや愛を持って祈り、とりなしをし、語っていくときに本日のみことばは成就します。また、救霊の働きと見なしていただけますので後の世において重い栄光をもたらします。それこそダニエル書に、「多くの人を義とした者は、世々限りなく星のようになる」と書かれていることばそのまま成就していきます。そして箴言のみことばに、「人を潤す者は自分も潤される」と書かれているように、地上においてはご自身をも助けるものとなりますので、ぜひおすすめいたします。