聖書箇所 ヨハネ1:32

 

1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。

                           

上記御言葉は、イエス様に御霊が下ったことについて書かれています。

このことは、私たちクリスチャンへの語りかけでもあります。

 

御霊とは聖霊のことです。

ちなみに聖書の中では、聖霊について様々な描写があります。

水、ぶどう酒、油、真理、宝、風等にたとえられています。

また、三位一体という言葉がありますが、聖霊=イエス・キリスト=天の父なる神様です。

ゆえに聖霊は神様の霊であることが理解できると思います。

もちろん聖霊は霊ですので、目には見えませんが、私たちクリスチャンの歩みを助けてくださるお方です。

もう一人の助けぬしとも言われています。

 

参照 ヨハネ14:16,14:26,15:26,16:7

 

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

 

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 

助けぬしという視点から聖霊についてみてみたいと思います。

私たちクリスチャンは日々、信仰生活を送ります。

毎週礼拝に行ったり、教会の奉仕をしたり、祈ったり、御言葉を読んだりします。

これらのことは、一見自分の力で行っているように見えますが、実は、いずれも聖霊の助けによってなされるものです。

つまり、聖霊の存在はクリスチャンの歩みに欠かせないものなのです。

また、聖霊の助けは天から与えられるものです。

クリスチャンは聖霊の力によって神様に仕えていきます。

そのために、祈り求めていくことが大切です。

祈りも求めていくことによって、上から与えられていきます。

しかも、無限に与えられます。

信じて行っていく人には、必ずこのことは実現します。

 

また、聖霊の力によって仕えていくことは、律法を確立することに通じていきます。

今、レムナントキリスト教会の午前の礼拝ではローマ人への手紙について学んでいます。

先日学んだ箇所から律法から解放されることの大切さについて教えられました。

律法から解放されるからと言って自ら罪を犯すことを奨励しているわけでは決してありません。

それでは、聖書に書かれている律法とは何のためにあるのでしょうか。

それは、私たちの真の姿、すなわち罪深い存在であることを知るためのものです。

そして、すべての律法を守ろうとしても守れないこと、逆に罪に支配されてしまうことを学ばせていただきました。

ゆえに私たちが律法に死んで解放されていることを信じて歩んでいくことはとても大切なことです。

先ほど申し上げたように、新しい文字(聖霊)によって仕えていくことによって律法が心の板に書き記されていき、古い文字(律法)ではなく、御霊によって生かされていくようになっていきます。

私たちを命に導くのは、御霊であるということを御理解いただきたいと思います。

 

参照 ガラテヤ人5:18,25 ヘブル人7:19

 

ガラ 5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 

ガラ 5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 

ヘブル 7:19 律法は何事も全うしなかったのです。他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

 

ぜひ、御霊によって歩んでいきたいと思います。

クリスチャンお一人一人がいつも内側に聖霊を宿した真の神の宮になることをおすすめします。

なぜなら私たちの信仰の歩みには、聖霊の助けが必要ですし、主のまっすぐな道を歩み天の御国を目指す上で不可欠だからです。

 

また、終末には、聖霊が追い出されてしまうことが聖書に記されています。

下記、御言葉がそのことを言われています。

 

Ⅱテサ 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

黙 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 

聖書には、主にだけ仕えなさいということが書かれています。

逆に聖霊を拒んでしまうと、別の霊(悪霊)の支配の中に入ってしまうので気をつけていきたいと思います。

かつての私もその一人だったのですが、今、多くのクリスチャンが聖霊の語っている声を聞こうとも従おうともしないため、知らないうちに悪しき霊に仕えてしまっています。

残念ながら、このことは神様の怒りをかってしまいますし、神様はこのことについてとても悲しんでおられます。

もし、心を頑なにしていつまでも悔い改めを拒んでしまうと、結果として御顔から退けられてしまいます。

しかし、憐れみ深く愛と慈しみに富んでおられる神様は、背信に向かっているクリスチャンが、一人でも多く、神様に立ち返るのを忍耐を持って待っておられます。

ぜひ、主の前にへりくだって聖霊の力を祈り求め、聖霊の導きによって歩み、御国を相続するにふさわしい者になっていきたいと思います。

 

以前は、今に比べると歩みや働きのために祈るという習慣がほとんど身についていませんでした。

特に働きに関しての祈りこみがなされていませんでした。

もちろん、多少なりとも祈るのですが、働きをする直前とか一言だけという祈り方しかしていませんでした。

証やメッセージの中で何度か申し上げているのですが、弟子の歩みをするようになってから、祈りが強められるようになりました。

教会の働きをわずかでも担わせていただくようになり、そのために神様の助けを祈り求めていくようになりました。

前にも申し上げたかもしれませんが、今では実際の働きの時間よりも祈りに費やしている時間の多くなりました。

そして、歩みや働きにおいて、すべてのことを徹底して祈っていくことによって神様の力によって助けられているということに実感を持てるようになりました。

祈りについて、自分で意識してそうしていることもありますが、しかし、このことも聖霊の助けによってなされているんだなぁと思いました。

これからも更に聖霊の力を祈り求め、御心にかなった歩みや働きしていかれたらと思います。