聖書箇所 ヨハネ4:21-24

 

4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

上記、イエス様が言われた言葉は旧約時代の終わりの時だけのことではありません。

新約時代の終わりを生きている私たちにも語られていることがらです。

この視点に基づいて主が言われていることについてみてみたいと思います。

 

順にみていきます。

 

21

4章を1節から順に読まれていくと分かることですが、彼女とはサマリヤの女のことです。

ソロモンが亡くなった後に、旧約の神の民は北のイスラエルと南のユダに分かれました。

詳細ついては触れませんが、北のイスラエルは今で言うカソリック、南のユダはプロテスタントを指します。

サマリヤは北イスラエルの町です。

イエス様はこの時カソリックの信者である女性と話されていたわけです。

 

22

この箇所はとても大切なところです。

皆さんはこの箇所を読んでどのように思われるでしょうか。

クリスチャンは週に一度当たり前のように礼拝に行きます。

天地万物を創造された神様に、賛美、お祈り、メッセージを捧げることをプロテスタントでは一般的に礼拝と呼んでいます。

カソリックでは、このことをミサと呼んでおられると思います。

「そんなこと今更あえて言われなくても分かっているよーっ!」とおっしゃるかも知れません。

しかし、ここでイエス様が「知らないで礼拝しています」と言われていることについて、今一度考えてみなければならないのではないでしょうか。

私たちクリスチャンが何に向かって礼拝しているのかどうかです。

ここに登場しているのはサマリヤの女です。

女は教会にたとえられていることから考えていくと、イエス様はカソリック教会の信徒の方々に、ここで語られているのです。

立派な会堂をはじめ、法王がいて、儀式が行われ、シスターと呼ばれる女性は白い衣をまとい、何かとても敬虔そうです。

人の目には何ら問題なく逆に良くも見えます。

しかし、その実態は・・・

法王を神様の位置と等しくしたり、マリヤをキリストの共同の贖い主として拝んでいたりします。

このことは人を神として崇めてしまう器崇拝に直結することです。

そして、「主にのみ仕える」という御言葉に反逆することであり、神様から怒りをかってしまいます。

ここで言おうとしていることは神様を礼拝すべきなのに、いつの間にか人を礼拝の対象としてしまっていることです。

もっと分かりやすく言うならサタンに捧げている礼拝だということです。

それは真の礼拝ではなく偽りの礼拝です。

残念ながら偽りの礼拝は神様には喜んでいただけません。

いくら口先で神様、イエス様と言っていても受け入れていただくことは出来ません。

そのような礼拝を捧げても何ら意味が無いということをぜひ御理解くださいますように。

このことはカソリックの教会だけに尽きることではないと思います。

プロテスタントの教会においても御言葉よりも人の思いや考えを優先して牧会や集会や働きをすすめている教会が多いからです。

聖書には書かれていないクリスマスにかかわるイベント等はその代表とも言えるのではないでしょうか。

また、クリスチャンは艱難を通らない、クリスチャンと名が付けば裁きにあわない、地獄は存在しないという教えも御言葉に反しています。

いずれにしても御言葉である神様をないがしろにしたところには、残念ながら神様は共におられません。

この節の「知らないで礼拝している」とは、あなたがたは真の意味合いで神様を理解していない、もっと言うなら聖書の御言葉を全然分かっていない、ゆえに神様ではない別のものを礼拝している、そのようなことを言われているのではないかと思います。

 

23,24

イエス様はいつまでも別のものを拝んでいることを決して良しとはされていないことについてここに書かれています。

建前ではなく、真に神様を礼拝する人たちが来ることについて言われています。

クリスチャンと名が付いていても、実は多くの人がキリストを敵対している、しかしそういった中にあっても真理に目覚めて主だけにお仕えする人たちもいるということを言っているのです。

イエス様の初降臨の時は旧約の終わりの時でした。

その時代に、「今がその時」と言われたように、今の新約の終わりも同じことが当てはまるのではないでしょうか。

今がまさに真の礼拝を捧げるべき時なのではないかと思います。

今、キリスト教界は聖書に書かれていないおかしな教理のオンパレードです。

しかし神様はおかしな教理をそのままにされるお方ではありません。

そのようなことを指摘して正しい道を示す人たちが神様によって興されます。

そのことを通して真の礼拝を捧げる人たちもわずかではあってもこれからあらわれることを言われているのではないかと思います。

また、カソリックの信徒の人たちに聖霊が下されることについても言われています。

聖霊が下されていないゆえに真理が見えない、しかし、イエス様が聖霊を下されるなら、すべてのことを理解します。

神様の目から見てカソリックの多くの信者の人たちは聖霊を受けていません。

しかし、サマリヤの女はイエス様から生ける水をもらったときに、イエス様が救い主であることを正しく理解しました。

それと同じように、聖霊を受けるとき、私たちも真理を正しく見ることが出来ます。

真理を正しく理解した時に、私たちは真の礼拝を神様に捧げることが出来ます。

24節には神様は霊であるとはっきり書かれています。

ですから私たちも霊とまことによって、すなわち心を尽くして神様に礼拝を捧げていかなければなりません。

そうしていくポイントは、日々、聖霊に触れていくことです。

御霊によって絶えず祈り、御言葉に触れた生活を送っていくことがそのことに通じていきます。

そして週に一度の礼拝の時だけではなく、毎日毎日、また、瞬時においても私たちが御霊によって歩むことこそが、真の礼拝者と言えるのではないかと思います。

ぜひ日々の歩みにおいて聖霊の力を絶えず祈り求め御心にかなった働きをしていきたいと思います。

 

数年前、ふと、自分は本当に真理を求めているのかどうか疑問を持つようになりました。

毎週休まずに礼拝に行き、週の半分以上はお祈り会や証会等集会と呼ばれるものには、ほとんど参加し、言われた奉仕は何とかこなしていました。

しかし、本当にそれでいいのだろうか?神様はどのように思っておられるのだろうか?と、自問自答を繰り返すようになりました。

そんな中で、天国と地獄について真剣に向き合うようになりました。

当時の私は艱難前携挙説のことを信じていました。

しかし反面、自分はこのままでは天の御国が危ないのではないかと御霊に感じました。

特に根拠は無かったのですが、真理を分かっていないのではないかと、ひしひしと感じるようになったからです。

毎週の礼拝で賛美、お祈り、御言葉の学びをし、ごくごく普通のクリスチャンとしての歩みはしていました。

でも、聖書の言われている真理について、正面から向き合っていないことを示され、その時から聖書を真剣に通読するようになりました。

そうしているうちにエレミヤの部屋のホームページに出会いました。

何度か証をしているように、このことをきっかけに聖書の読み方や信仰姿勢が一変しました。

そして自分はうわべだけの礼拝者であり、偽善的な歩みをしていたことを知ることが出来ました。

そのことをきっかけに少しずつ真っ向から御言葉と向き合うことが出来るようになりました。

主の憐れみによって弟子の歩みもさせていただくようになり、聖霊にある喜びに触れさせていただいています。

聖書の至る箇所を通して御霊によって歩むことの大切さについて学び、そのような歩みが出来るようにという祈りがはじまってから数年が経過していますが、ますますそのような思いが増し加えられていること、とても感謝しています。

このことについても、ただただ聖霊の力によるものだと思います。

今、すでにキリスト教界は闇の支配下にあり、背教は加速しつつあります。

しかし、そのような中にあっても、常に光であるイエス様を見上げて歩み、勝利を得られていかれたらと思います。