聖書箇所 ヨハネ12:24,25

 

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 

この世において、肉体の命、こと、健康に関して配慮する人は多いと思います。

そういう私も多少なりとも健康には気遣っています。

お酒、煙草をはじめ、体に良くないと思うものは控えたり、極度の睡眠不足にならないように、夜更かしを控えたりします。

もちろん、人それぞれですので、健康に気遣うことに関しては、このことに限ってことではないと思います。

しかも、この世の価値観において、健康に気遣うということは、良いとされています。

特に日本のような国では、長寿となるために、健康であることは必須というような風潮は昔も今も変わらないように思います。

もちろん、そのこと自体は悪いことではないと思います。

しかし、聖書では、長寿がいいとか短命がダメということについては一言も書かれていません。

寿命に関しては、このように書かれています。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」

 

さて、ここに書かれている「死」という言葉に目を留めていただきたいと思います。

人間的に「死」というと、絶望的であったり、もう、お終いとそのようにとらえがちです。

しかし、聖書においての「死」は、神様の目では決してマイナスではないということです。

このことは第一義的にはイエス様が十字架につけられたように、殉教、すなわち、肉体の死についても意味しますが、ここでは霊的な死のことについても言われています。

「霊的な死」って何なの?と、思われるかも知れません。

逆説的に言うと、霊的に生きること、つまり、肉の思いや考えに死ぬことです。

さらに分かりやすく言うと、自分の思いや考えや願い、そのことよりも、神様の言われることを最優先させて歩んでいくということです。

もし、そのような歩みを選択していくなら、24節に書かれているように豊かな実を確実に結ぶのです。

つまり、その歩みに準じて歩む人々を生み出すことができるのです。

 

ところで、昨今多くのクリスチャンが本来の召しから遠ざかっているように思います。

ここで少しクリスチャンのなすべき働きについて考えてみたいと思います。

一言で言うと、クリスチャンとは、キリストの奴隷であります。

もし、キリストの奴隷になっているのなら、キリストに続く歩み、分かりやすくいうと、キリストの足跡を踏むような歩みをしていくべきなのです。

さて、イエス・キリストはどのような歩みをされていたのでしょうか。

イエス様は、3年半の公生涯の中で滅び行くクリスチャン、背信のクリスチャンに対して、御言葉に立ち返るように、主の道をまっすぐに歩むように、呼びかけていました。

それと同時に、教会の土台となっていく弟子を育成されました。

Ex:ペテロ、ヨハネ、ヤコブ

ペテロ()を土台に教会をたてあげようとイエス様がそのように言われました。

そして、イエス様に訓練された弟子たちがイエス様昇天されてからも働きを担いました。

使徒の働きを読むと分かるのですが、イエス様のことを3度否定したペテロが、多くの会衆の前でメッセージをしました。

その当時、ユダヤ人、つまりクリスチャンの間において、ナザレのイエスを信じる者は異端者扱いをされていたさなかに、「イエス・キリストの御名だけに救いがある」ということを堂々と宣べ伝えたのです。

この働きはいつも円滑になされていたわけではなく、働きのためにはむしろ、多くの妨害がありました。

時として、とらえられたり、獄に入れられたりして、肉体の命はいつも危険にさらされていた状態でした。

しかし、それにもかかわらず、ペテロをはじめ、主に仕える弟子たちはイエス・キリストの救いについてきちんと伝えました。

時として暴動も起こりました、ゆえに、正しい教えに大半の人が反論していたということが理解できます。

しかし、反論を受けながらも、わずかでもこのことを信じて救われる人のために大胆にメッセージをしたのです。

彼らの働きは、常に死との背中合わせであったことが理解できると思います。

まさに、命がけの戦いであったと思います。

 

そして、このことは、今の新約の終わりを生きる私たちにも当てはまります。

残念ながら、今の時代、多くの人が嘘、偽りの教えを喜んで受け入れている時代です。

Ex:レフトビハインドをはじめとする艱難前携挙説、悪霊のリバイバル集会(トロントブレッシング)、エキメニュカル、地獄は無いとかセカンドチャンス等

下記御言葉がそのことを成就していると思います。

 

Ⅱテモテ4:3,4

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせずに、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話に入っていく時代になるからです。

 

ゆえに、今の時代も正しい教えは、人々から嫌がられます。

神様を知らない未信者にもそうかも知れませんが、神様を信じるクリスチャンであっても大半の人が御言葉に沿って語る教えを嫌がります。

ある意味、真理を伝えることは命がけの戦いだということです。

でも、御言葉からズレたメッセージは、神様の前に全くポイントがありません。

たとえばクリスチャンになってしまえば、決して裁かれることはないなどの教えは、人受けは良いかもしれませんが、それは人からの誉れを受けるため、つまり25節に書かれているように自分のいのちを愛するだけのことに過ぎないからです。

それでは、人を命に導くことは出来ません。

そして、そのようなことを悔い改めならなら、後の世において、神様の御怒りを招くことになってしまいます。

この地上においては、多少の困難があっても、最悪、福音のために肉体の命を失うことになったとしても、神の愛だけでなく、裁きや悔い改めのこと等、御言葉に準じてきちんとメッセージを語っていくのなら、後の世において、大いなる報いを受けることにつながります。

そして、そのようなメッセージこそが人を命の道へと導くのです。

「主の御言葉は私を生かし、私を導き、私を照らす、主の御言葉は力がある、私を励まし・・・」という歌があります。

御言葉だけが、人を生かし、命を与えるのです。

すべての御言葉は純粋です。

しかし、どのように語るかによって、あるいはどのようなものを受けるかによって、死後の行き先が全く異なることを、どうか正しくご理解いただきたいと思います。

地上の命も大切かもしれませんし、人から良く思われたいと誰しもが思うかもしれません。

しかし、御言葉はどのように語っているのかについて、神様にたずね、聖書の御言葉から正しい教えを受け、ありのままを語っていく人に御心があります。

人がたとえ全世界を得ても永遠の命を失ったら、何の得がありましょうとイエス様が言われた言葉を真剣にとらえていきたいと思います。

肉体の命に執着するあまり、迫害や試練や困難や殉教を恐れて、最も大切な永遠の命を失うことがないようにしたいと思います。

この地上の価値観はともかく、聖書では明らかに後の世(死後)においての行き先が大切であることについて何度も何度も繰り返し語られているからです。

狭い門、細い道と言われているように永遠の命を得ることは決してたやすいことではありませんし、それなりに労苦はつきものです。

でも、この地上のことはずっと続くわけではありませんし、永遠という視点からこの地上のことを見るなら、ほんのわずかにもならないような期間だということを認識されることをおすすめします。

ゆえに、目に見える一時的な人からの誉れとかにとらわれず、いつも神様の御顔を仰ぎ見て、永遠の悔いを残すことのないように、御言葉が語っていることをそのまま語り続けていきたいと思います。

そのことは、後の世において誉れを受けるだけでなく、地上においても勝利者となっていかれます。

ひたすらそのような歩みにとどまり、その延長線上において永遠の命をぜひ得たいと思います。

 

何度か申し上げているかもしれませんが、レムナントキリスト教会の召しは「警告」です。

警告とは、注意を与えるものですので、人の耳には決してよいことはありません。

当然のことながら、カルト扱いされたり、人から後ろ指をさされたりするような働きです。

今は、天地創造のときから数えると7つめのミレニアムのときです。

詳細については今は書きませんが、7年目の時というのは、教理が曲げられるので、救いが非常に危なくなります。

救いに関して、緊急事態が起きているので、そのことについて、角笛(ラッパ)を吹き鳴らしています。

耳を傾けるか否かは個々の人の問題として、言われていることを行いなさいという神様の語りかけを受けているので、今の時代、神様が語られていることについて宣べつたえています。

かつての私もそのひとりでしたが、残念ながら、多くの人が嘘・偽りの教理を喜んでいるので、神様の裁きのことについて語ってもなかなか耳を貸してくださる人はほとんどいません。

でも、すべての人がそうなのではなく、少数であっても、きちんと聞いてくださる方もおられます。

先日、教会では修養会を兼ねたセミナーを行いましたが、感謝なことにほとんどの方が喜んでくださいました。

そのように真理を求めておられる方や、受け入れてくださる方のために、今後も主に期待して喜びと感謝の中で、このような尊い働きにわずかでも携わっていかれたらと思います。

背教がすすむにつれて、人から迫害を受けたり、最悪とらえられたりして人間的には不利であったり困難な状況に置かれることもあるかもしれませんが、そういったことにも耐えられるように、日々、弟子の訓練をして備えをしていかれたらなぁと思います。