聖書箇所 ルカ14:21

 

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」

 

ここでイエス様は神様の戒めを守る人がイエス様に愛されるということについて言われています。

クリスチャンであれば、誰しもが戒めを守っているかのように思われます。

このメッセージを読まれているあなたが、そのことを実践されていらっしゃるのでしたら、それは素晴らしいことです。

ぜひ、それは、続けていかれることをおすすめします。

しかし、12弟子のうちの一人(イスカリオテのユダ)がイエス様を裏切ったように、すべてのクリスチャンが戒めを守っているのかというと、そうではないように思います。

イエス様が「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」と、あえて言われているということは、そうではない人がいる、もっと言うなら、守る人のほうが断然少ないと理解するのが正しいのではないかと思います。

昨今、人は神様から愛されている、愛されて当然というような風潮がキリスト教界には見受けられます。

神様は無条件に、一方的にいつも私たちを愛してくださるお方、罪を犯し続けても神様は愛だからどこまでも赦すお方であると・・・

神様が愛の方であることは正しいことです。

しかし、無条件に愛されるのかというと、上記御言葉を読むと、それは違うように思います。

「戒めを保ち、それを守る人はわたしを愛する人です」という言葉に引き続いて「わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し・・・」と言われています。

この言葉を皆さんはどのようにとらえるでしょうか。

少なくとも、私の場合、人がどんな状態であっても、たとえば神様を愛さない人や戒めを守らない人が、神様に愛されているというふうにはどうしても読めません。

確かに、救いは無条件に与えられています。

イエス様は、すべての人の罪のために十字架にかかり、死んでくださり、三日目によみがえられました。

このことを信じて心に受け入れて口でイエス様が主であることを告白するならば救われます。

聖書にもそのように書かれています。

今更あえて申し上げるまでもありませんが、なぜ、救いが無条件なのかというと、まずは救われなければ、クリスチャンとしての歩みはスタートできないからです。

しかし、スタートしたからと言って、神様に愛されるのかというと、それは、また、別だということを正しくご理解ください。

かつての私もその一人だったので、偉そうなことを申し上げられるような立場ではないのですが、そのことについて多くのクリスチャンが誤解をしているからです。

信じさえすれば、洗礼を受ければ、毎週礼拝に行って奉仕していれば、愛されていると勘違いしているクリスチャンが多いのではないでしょうか。

イエス様を信じて洗礼を受けること、礼拝に行くこと、奉仕をすること、いずれもそれ自体は神様の目の前にとても尊いことです。

でも、神様の戒めを守らないのなら、それらのものはすべて空しいものになってしまいます。

礼拝に行き、メッセージを聞き、「ああ、とてもいい話だったー」で、終わってしまうのでは、残念ながら神様を喜ばすことは出来ません。

せっかくの休みの日に早起きをして教会に行っても全く意味がなくなってしまいます。

重ねて申し上げるように、戒めを守る人、具体的には御言葉を実践する人、御心を行う人が神様に愛される人だということを、正しくご理解ください。

ことばは神であるといわれているように、御言葉を尊重していくことが神様を愛するということにつながるのです。

私たちが神様を愛するなら神様から愛されるわけですが、もし反対に戒めを守らないのなら、神様に愛されないのということを正しくご理解くださいますように。

神様から愛されないということは、神様に受け入れられないということですので、いくらクリスチャンと称していても、残念ながら永遠の命には至りません。

たとえ、キリスト教界や周囲のクリスチャンが「いや、クリスチャンと名が付けば、皆天国へ連れて行ってくれる!」と、いくら豪語していてもそのことを信じてはいけません。

上記御言葉はそのことを証していますし、このことは賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえ話にも通じることだからです。

クリスチャンはキリストの花嫁にたとえられていますが、必ずしもすべてのクリスチャンがキリストの花嫁になるわけではなく、キリストに愛されていないクリスチャンは5人の愚かな花嫁のように、再臨の日に花婿であるイエス様から「知らない」と退けられてしまいます。

 

御言葉が言うことが、どこまでも正しいのです。

私たちは自分勝手に御言葉を曲げてはいけません。

今の時代、聖書に書かれていない教理が講壇で堂々と語られています。

Ex:艱難前携挙、セカンドチャンス、クリスチャンは裁かれない、地獄は無い等

聖書がどのように語っているのか、聞く事柄について、一つ一つ御言葉と照らし合わせて正しく吟味しなければいけません。

もし、間違えたことを受け入れ続けていくなら、御心からズレた歩みに入ってしまいます。

御言葉はどのようにいわれているのか、きちんと理解しないと、いつになっても神様の御心を行うことが出来ないからです。

 

本日のポイントをまとめます。

戒めを守る人、どこまでも御言葉にとどまる人が神様から愛され、天の御国を受け継ぎます。

すぐに実践できなくても、聖霊の助けと導きを祈り求めていくことに御心があります。

御言葉を知っているだけでは、命への道には至らないことについても正しくご理解ください。

御言葉を守る人に神様の栄光があらわされると書かれているように、実践していく人に恵みや祝福があります。

しかし、今の時代、世の終わりというのは多くのクリスチャンがキリストの十字架を敵としているため、クリスチャンがますます御言葉を守らない方向に進んでいます。

ゆえに、御言葉を守っていくということは困難であったり、狭い道であったりするので、自覚と覚悟を要するということについてもご理解ください。

場合によっては人からは変な目で見られたり迫害を受けたりもします。

しかし、そうではあっても、きちんと御言葉を守っていく人にポイントがあり、そのような人は試練や困難の中にあっても、神様から助けや守りが与えられます。

また、守られるだけではなく、多くの義の実を結ばせていきます。

御言葉を単に知識として知っているだけで終わるのではなく、ぜひ行っていきたいと思います。

戒めを守ること、御言葉にとどまるということは、世の考えとは間逆のことばかりですので、ある意味、とても力のいることです。

人の力や考えで実行できるものではありません。

そのために、日頃の歩みにおいて、聖書に書かれている戒めやおきてをきちんと学び、実践できるように祈り求めていきたいと思います。

そのことを繰り返していく中で、人間的には特別な努力をしなくても、自ずと戒めを守るように変えられていきますので信じて実践していきたいと思います。

そしてこの世において神様から愛される人となり、後の世においては主からの誉れを受けたいと思います。

 

何度も証をしているように、私は弟子の歩みをしている一人です。

弟子として歩みはじめた頃は、そんな風に思わなかったのですが、クリスチャンは明らかに弟子として歩んでいくことにポイントがあるということを2年以上経てしみじみ痛感しています。

上記メッセージで、どこまでも御言葉にとどまる歩みが大切であることについて書いていく中で、私自身も改めて教えられましたが、御言葉にとどまる=主の弟子として歩んでいくことなのではないかというふうに、ますます確信を抱くようになりました。

一日の祈りの時間は○時間、聖書は○章、訓練は○○・・・と、弟子の歩みとして日々こなしていく課題はありますが、それはあくまでもひとつの目安にしか過ぎません。

もちろん、最低限しなければならない訓練は行っていかなければいけません。

でも大切なのは、これらの訓練を行っているからあの人は忠実であるという人からの評価ではなく、たとえ誰からも認められなくても、究極、イエス様だけに認められる弟子となっていくことに価値があるのだと思います。

常に祈りと御言葉に触れている人、いつもイエス様の喜ばれることだけに配慮し、人間関係を含めて世のことにはほとんどとらわれず、時間も心もすべて捧げていく人が神様から弟子と見なされ、そのように歩んでいくならおのずと御言葉にとどまることにつながっていくのではないかと思います。

上記メッセージにもあるように御言葉にとどまるということは、世の方向とは反対のことなので、時として人からは後ろ指をさされたり、悪口雑言を言われたりもしますが、そのようなことを意に介さず、むしろそのことに甘んじてイエス様にとどまり続けていかれるようにこれからも祈りもとめていきたいと思います。

本日のメッセージを通して、そのような大切なことを改めて決意させていただき、感謝でした。