聖書箇所 ヨハネ15:1,2

 

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

 

今までも何度か、申し上げているように聖書の御言葉の大半はたとえで書かれています。

聖霊が水とか炎とか風に描写されているように、イエス様もぶどうの木や農夫や裁判官や花婿・・・と、いう風にたとえられています。

上記御言葉に関してもたとえが使われています。

そのようなことを心に留めて本日の箇所をみていきたいと思います。

 

1節に、イエス様はぶどうの木で、御父は農夫だということが書かれています。

 

ところで、皆さんもご存知のように、ぶどうの木には、ぶどうの実がなります。

毎年夏から秋にかけて、おいしいぶどうが収穫され、果物屋さんやスーパーの青果売り場にはおいしそうなぶどうが数多く並んでいます。

しかし収穫されたすべてのぶどうの実が店頭に並べられるかというと、そうではありません。

当然のことですが、出来栄えの良いものだけが選ばれます。

そうでないと消費者から苦情が相次いでしまいますし、販売する側も信用を落としてしまいます。

ですから、実を選別することは、ぶどう園を管理者にとって責任重大なことでもあります。

 

御言葉に戻ります。

天の父がぶどう畑の農夫であり、イエス様がぶどうの木ということは、教会はぶどう園であることが理解できます。

ゆえに、2節の「枝」とは、個々のクリスチャンを指します。

さきほど、私たちが食べるぶどうについて、収穫されたすべてのものが販売されるわけではないということを申し上げましたが、このことはクリスチャンにも当てはまります。

クリスチャンであれば、皆が皆、神様から同様に扱われるように思われます。

神様は分け隔てなさらない方なのだから、すべての人を愛されているのだから、皆が神様の子どもとして見なされていると・・・

しかし2節をよく読んでみるとそうではないことが、少なくとも私にはそのように感じます。

「実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」という言葉を注意深くみていただきたいのです。

クリスチャンであっても実を結ばないのなら、取り除かれると言われているのです。

「実を結ばない」とは具体的にはどのようなことを言われているのでしょうか。

クリスチャンであれば、大半の人が奉仕をしています。

また、奉仕されている人が自分は神様の働きを担っていると、あえて口には出さなくともそのように思われている人が多いと思います。

確かに、クリスチャンが奉仕をすること、神様の働きを担うこと、このことは神様の目から見て尊いことですし正しいことであります。

しかし、闇雲に何でも行えばよいかというと、それはまた別です。

正しく奉仕を行うなら祝福を受けます。

しかし、もし、的外れな奉仕を行うなら、呪いを招いてしまいます。

ですから、行っている奉仕や働きについて、神様が本当に語られている働きなのかどうかを私たちは吟味する必要があります。

その奉仕が神様からのものなのかどうかについての、分かりやすい判断のしかたは、人を真理に立ち返らせ、命(永遠の命)に導く働きに結びついているか否かがひとつの基準になります。

なぜかというと、人を滅びに至らせる働きがあるからです。

クリスチャンになれば神様から愛されているから何もしなくても大丈夫とか一度信じてしまえば絶対に天国へ行けるとかクリスチャンは艱難時代を通らないから何も備える必要はない、自動的に天国へ連れて行ってもらえる等、人間的にはとても嬉しい言葉ではありますが、残念ながら永遠の命には至りません。

反対に、人を滅びへと追い込んでしまいます。

また、そのような働きしている当の本人も裁かれてしまいます。

回りくどい言い回しになりましたが、「実を結ばない」とは、人を滅びに至らせたり、あるいは単に人間的な判断により頼んで行われている働きのことを言います。

このことはとても厳粛なことです。

なぜなら、当時のパリサイ人や律法学者は最後まで自分たちの間違えや誤りに気づかずに人間的な考えや思いに基づいて人を導き、多くの人をゲヘナ(火の池)へと道連れにしてしまったからです。

今のキリスト教会も同様です。

さきほど申し上げたクリスチャンが裁かれないとか艱難前に挙げられる等のヨタ話を浸透させることは当時のパリサイ人や律法学者の轍を踏むようなものだからです。

そして、「父がそれを取り除き」とあるように、最後は、御顔から退けられてしまいます。

このようなことは絶対に、回避していきたいと思います。

 

一方、キリスト教界に浸透している嘘・偽りについて指摘をしたり、真理を語っていく働きに御心があります。
もし、このことを実践していくなら、確実に実を結んでいきます。

 

それでは、「実を結ぶ働き」についてみていきたいと思います。

「もっと多くの実を結ぶため」という言葉に着目していただきたいと思います。

神様は、より多くの実を結ぶよう、ご自身が選ばれたクリスチャンにこのことを託されています。

少しだけでも実を結べばそれでいい、多くの実を結ぶなんてそんな大それたことは私にはふさわしくない、そのように思うかも知れません。

しかし、それではいけません。

なぜなら「御子を信じる者がひとりとして滅びることがなく永遠の命をもつためである」と聖書に書かれているからです。

御子を信じる者とは、クリスチャンのことを指します。

単刀直入に言うとクリスチャンであっても滅びる人がいる、あるいは滅びる人が大半だから、このようなことをイエス様はあえて言われているのです。

「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」と、言われています。

ですので、私たちは、一人でも多くの人を真理に、そして永遠の命へと導く働きをしていく必要があるのです。

 

最後に、「刈り込みをなさいます」ということについてみていきたいと思います。

多くの実を結ぶためには、刈り込みが必要です。

刈り込みとは辞書を調べると「草木の枝葉を切り整える」とか「頭髪を短く切る」とあります。

いずれにしても、余分なものを取り除く、そのような意味合いに取れるのではないでしょうか。

さて、クリスチャンになったからと言って、すべて肉の思いや考えが無くなるわけではありません。

逆に、聖書の言葉に心の内側を照らしていくならば、あらゆる欲望に満ちていていることに気づくはずです。

普通に聖書を読んでいくなら罪深い存在であること、自己中心な存在であることをますます理解するようになります。

しかし、欲望や罪、このようなものは、すべて肉に属するものです。

そして、これらのものは神様を喜ばせることはできませんし、まして実を結ばせることなどありません。

ゆえに、神様の力によって、そぎ落とされていかなければならないのです。

クリスチャンといっても、欲望や罪や誘惑があり、常にこれらのものと戦っていく必要があります。

人間的な思いや考えが、すべて聖霊の力によって焼き尽くされていかれるように、祈り求めていく必要があります。

祈っていくことによって、肉の思いから少しずつ解放されていくようになります。

そして、解放されるだけでなく、御霊の思いにだんだんと変えられていき、御霊の実(愛、寛容、柔和、自制、忍耐等)を結ばせるようになっていきます。

このことは「心の割礼」とも言われています。

心の割礼を受けていくために、主から訓練されます。

時として、叱責を受けることもあります。

しかし、このことを日々の歩みの中で繰り返していくうちに、神様に近い品性に練られていきます。

そして、より多くの実を結ばせていくようになっていくのです。

クリスチャンになったからといって、何もしないで自動的に実を結ばせることは決してありえないことをどうかご理解ください。

常に、神様の介入は必要です。

具体的には神様から懲らしめを受けたり叱られたりするということです。

ヤコブ書に、このように書かれています。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」

神様は打ち物作りとも言われていて、試練、困難を経て、私たちを打ち叩き、訓練し、そして、約束の永遠の命を得させてくださるのだということをぜひ、ご理解ください。

常日頃の歩みにおいて、神様からの訓練や叱責を受け、より多くの御霊の実を結んで、クリスチャンが入るべき天の御国を受け継ぐにふさわしい者になっていきたいと思います。

 

個人的なことですが、最近、レビ人(弟子)の歩みについて学んでいます。

レビ記、民数記に、そのことについての詳細が書かれています。

最近、目に留まった御言葉があります。

民数記43節に「会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる・・・」の箇所です。

務めとは、原語で「戦い」という意味があると教えられたのですが、レビ人の奉仕は常に戦いの一貫であるんだなぁというふうに改めて理解しました。

特に、ここ最近、あることを疑問に思うようになり、思索感情に苦しんでいました。

数ヶ月、頭から離れないことがあり、ひたすら祈っていました。

なぜ、神様はすぐにそのことから解放してくださらないのだろうと、問いかけたこともありましたが、ここ、数日、不思議なことに徐々にそのような気持ちが心から消えていくようになりました。

このことは、私にとって、とてもよい経験になりました。

疑問に思っていることについては、何一つ解決されたわけではないのですが、そのことを通して少しだけ「忍耐」が身に付いたのでは?と、思いました。

これから正しく御言葉につくクリスチャンが迫害される時代に入っていきますが、そのときに必要なのは忍耐なのではないかと思います。

聖書にも「忍耐を働かせなさい」とか「忍耐によって永遠の命を勝ち取る」と書かれています。

一つ一つの戦いにおいて、勝利を得るために、さらに聖霊の力によって忍耐力が培われるように祈り求めていきたいと思います。