聖書箇所 ヨハネ18:1-3

 

18:1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。

18:2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。

18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。

 

この章ではイエス様が祭司長やパリサイ人たちの役人たちに捕らえられ、尋問されている様子について書かれています。

また、2節に書かれているように、このことには12弟子であるユダが、大きくかかわっていたのです。

このことに語りかけがあります。

たった今申し上げたように、ユダはイエス様の弟子の一人でした。

他の11弟子と同じくイエス様と寝食を共にしていたのです。

ユダがイエス様を裏切ることは聖書で前もって預言されていたことでした。

参照 使徒1:20

実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』

このことはユダ個人のことについても言われていますが、ユダとは旧約で言う南の王国のことも指します。

旧約時代、キリスト教の王国は北のイスラエルと南のユダとに分かれていました。

北のイスラエルは新約で言うカソリック、南のユダはプロテスタントのことです。

つまり、ユダがイエス様を裏切ったことに関しては、単にイエス様がいた旧約時代の終わりだけにとどまるのではなく、新約時代の終わりを生きる今の私たちへの語りかけであることについて正しく理解する必要があります。

参考までにそのことについて書かれている御言葉を見てみたいと思います。

参照 詩篇69:19-25

19あなたは私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです。私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。

20そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。

21彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。

22彼らの前の食卓はわなとなれ。彼らが栄えるときには、それが落とし穴となれ。

23彼らの目は暗くなって、見えなくなれ。彼らの腰をいつもよろけさせてください。

24あなたの憤りを彼らの上に注いでください。あなたの燃える怒りが、彼らに追いつくようにしてください。

25彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。

上記御言葉はユダ(プロテスタント)がイエス様を裏切る予表について書かれています。

陣営、宿営とは教会のことを指します。

25節に書かれているように、世の終わり、残念ながら真の意味合いのクリスチャンがいなくなることについて、預言されています。

21節にある、食物とは御言葉のことを指します。

ここに書かれている「酢を飲ませました」という言葉が使われていますが、このことに似た言葉を思い出しませんでしょうか。

マタイの福音書にこのような御言葉があります。

「彼らはイエスに、苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。」

「苦味を混ぜたぶどう酒」とは聖霊ではない別の霊の働き、すなわち悪霊の働きのことを言われています。

「私が渇いたときには酢を飲ませました」とありますが、聖霊の働きの代わりに悪霊の働きを捧げたことについて言われているのです。

22節には「食卓はわなとなれ」とあります。

食卓とは食べること、御言葉に関連することと考えると礼拝のことを言われているのではないかと思います。

「わなとなれ」とは、神様の前にまともなパン(メッセージ)が無くなる、いわば、教会が廃虚となることを言われているのです。

永遠の命に導くはずのメッセージが、そうではないものになっている、また、「落とし穴」とあり、礼拝に行ってメッセージを聞けば聞くほど、ゲヘナに落ち込んでいくと言われているのです。

Ex:艱難前携挙説、エキメニュカル、セカンドチャンス、悪霊のリバイバル集会、裁きや地獄のことについてはほとんど言わない等

このことはいわば、神様への冒涜とも言えるのではないでしょうか。

すでにカソリックの信者さんたちは、神様の言葉よりも法王の言うことが正しいという教えを受けています。

もし、法王が地獄は無いと言ったら、地獄は無くなるわけなのです。

しかし、この教えは、御言葉とは全く逆ですし、神の言葉よりも人の教えを優先させるという器崇拝にそのまま直結することにもなります。

器崇拝について、ここでは特に詳しくは触れませんが、このことは、神様の怒りを買ってしまうので、死後の行き先は滅びだと思います。

そして、残念ながら終末は、カソリックだけでなく、プロテスタントも背信の道を歩むことが聖書に書かれています。

旧約の南のユダ(プロテスタント)は神様から最も愛された神の民でした。

しかし、不信に不信を重ねた結果、最後はバビロン捕囚され、ほとんどの神の民は裁かれてしまいました。

そのことから、新約のプロテスタントの民にも同じことが世の終わりに再現すると考えることは正しいのではないでしょうか。

信じがたいかもしれませんが、世の終わり、ユダ(プロテスタント)が、イエス様を裏切るときが来るのです。

そして、もう、すでにそのような兆しは少しずつあらわれています。

レフトビハインドをはじめとする聖霊の第三の波とかクリスチャンと名が付けば裁かれない等という教えはどれもこれもが御言葉から大きく外れたものばかりだからです。

口先では「イエス様を愛している」と言いながらも、実質は、多くのクリスチャンは御言葉を投げ捨てています。

参照

アモス 5:7

彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。

たとえば、神はどこまでも愛のお方、だから人を地獄へは行かせないという教えは、耳には良いものです。

しかし、どんなに素晴らしい教えであっても、御言葉に書かれていないことなら、単なる気休め、それどころか、多くの人を恵みから落とすいわば、永遠の命に至らないものであるということをどうか正しくご理解いただきたいと思います。

イエス様を裏切ったユダは預かっていた金入れに収められたものをいつも盗んでいたと書かれています。

「金」は信仰にたとえられていますが、「金入れに収められたもの」とは、「御言葉」のことを言われているのではないかと思います。

「御言葉を盗む」とは、聖書を改ざんしたり、教理を自分たちの都合のいいように曲げることなのではないでしょうか。

何を言いたいのかというと、世の終わりもユダがしたこと、つまり、御言葉を盗むことがプロテスタントで起きてくるということなのです。

その結果、多くのクリスチャンが信仰を捨て、旧約の時代、イエス様を十字架につけたように、正しく御言葉を理解し、御心を行うクリスチャンを訴えたり、迫害をしたり、最悪、死に至らせるような時代に入るのです。

正しいクリスチャンを訴えるのは、神様を知らない異邦人なのではなく、私たちの同胞、クリスチャンであることも、どうかご理解いただきたいと思います。

そうでないと、実際にそのようなことに遭遇した場合に、わけが分からなくなってしまうからです。

迫害が起きること、かつてもないような艱難時代に入ることについても前もって聖書では預言されています。

聖書を正しく理解し、御言葉にどこまでも堅くつき、その時になっても決して驚き怪しむことがないように、今からきちんとキリストに土台を据える歩みをぜひ、おすすめします。

ユダのように裏切って滅びることは何が何でも避けたいと思います。

どのような場合でも、たとえ、捕らえられたり迫害されたりして人間的に不利になっても、最悪肉体の命が危なくても、正しく御言葉を証言して、永遠の命を得ていきたいと思います。

 

私は小学生のときに、キリストの伝記を通して、神様に出会いました。

伝記なので、聖書の側面のことしか書かれていませんでしたが、ユダが裏切ったこと、そして自ら命を絶ったことについて、子どもながらに、とても衝撃を受けました。

なぜ、正しい人(キリスト)をお金で売って、殺してしまったの?そんなことをしなければ、他の弟子と同じように天国へ行けたのに・・・と。

このことをずっと残念に思っていました。

でも、クリスチャンになって、礼拝のメッセージ等を通して聖書の学びをしていく中で、このことは他人事ではないということに気づかせていただきました。

しかも、本日のメッセージにもあるように、ユダがプロテスタントの予表であるなら、なおさらのことです。

私自身、洗礼を受けてから今に至るまでプロテスタントの信仰者です。

と、言うことは、一歩誤るなら、いつでもキリスト(御言葉)を十字架につける可能性はあり得るわけです。

いいえ、それどころか、以前は艱難前携挙説やクリスチャンは皆天国行きだということを盲信していたので、クリスチャンと称しながらもキリストを十字架につけていました。

このことは自慢できるわけではありませんが、数年前に、神様の憐れみによって、大変な勘違いをしていたことに気づかせていただくことが出来ました。

クリスチャンであれば、誰しもが聖書を読みます。

そして、聖書に書かれているように、すべての御言葉は純粋です。

でも、私たちが勝手な解釈をしたり聖書に書かれていない教理を鵜呑みにしたりするならば、命(永遠の命)を失うものでもあります。

ちなみにレムナントキリスト教会では、終末の解き明かしやたとえの解き明かしに力を入れています。

聖書はすべて神様の霊感によって書かれているものであり、その中には多くのたとえや謎が用いられています。

それらのものを正しく理解することが大切であり、真に神様を知ることにつながることについて教えられ、自分自身も弟子の歩みをしていく中で、そういったことを少しでも理解出来るように、祈り求めていくようになりました。

たとえの意味合いを「霊的解釈だからよくない」と、多くの教会の指導者は言うかもしれません。

しかし、ペテロの手紙では「私的解釈を施してはならない」と、はっきり言っています。

また、御言葉の奥義を知らないと、旧約時代の神の民がイエス様を救い主と最後まで認められずに挙句の果てには十字架につけてしまったように、私たち新約の民も御言葉に正しくつくクリスチャンをそのように扱ってしまうのではないかと思います。

過去の失敗例を決して人事とは思わずに、そして自分自身が同じ失敗をしないために、更に聖書を学んでいくことは大切だというふうに、本日の御言葉の箇所を通して改めてそのような思いが起こされました。

これからキリスト教界において剣(教理)の戦いが更に激化されることについても聖書は語っているので、ますます御言葉に恐れを持って主にお仕えしていかれたらと思います。