聖書箇所 ヨハネの黙示録9:14,15

 

 

 

9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」

 

9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。

 

 

 

「教会&クリスチャンの不信のゆえに、解き放たれた御使い」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

黙示録9章全体は、悪い御使いによる「災い」のことについて書かれています。「苦痛を与える」とか「人間に害を加える」といったことが記されています。冒頭のみことばにおいても、「殺すため」ということばが使われています。「殺す」ということばは、どう考えても良い御使いではありませんよね。8章でも、「御使い」についてチラッと触れましたが、御使いに関しては、良い御使いばかりでなく、悪い御使いもいます。そしてこの9章に登場するのは、「悪い御使い」です。さっきも言いましたように、何せ人を「殺すため」に解き放たれるのですから・・・そしてなぜ、そんなことが神さまによって許されるのか?についても見ながら話していきたいと思います。

 

 

 

では、順に見ていきましょう。

 

 

 

9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」

 

 

 

「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解放せ」と書かれています。ここで「ユーフラテス川」ということばに目を留めてください。「日本に住んでいる私たちとユーフラテスと何の関係があるのか?なんのこと?」と思われるかもしれません。たしかにユーフラテス川は、世界中のあちこちに存在するものではありません。世界にたったひとつしかありません。なので、ほとんどの国の人にあまり関係がないように思えます。そう、目に見えるユーフラテス川はたしかにそうです。でも、これはクリスチャンに大いに関係のあることでして、しかも霊的な事柄に関して言われていることでもあります。前にも話したかどうか覚えていませんが、聖書で言われている「ユーフラテス川」とは、旧約の神の民の境界線であり、それは新約の神の民の境界線、クリスチャンと未信者を隔てているもの、すなわち「聖霊の川」のことを指すのです。他の箇所にも「ユーフラテス川」について書かれています。同じ黙示録の16章にもあります。

 

 

 

参照 ヨハネの黙示録16:12

 

16:12 第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。

 

 

 

ここでは御使いが大ユーフラテス川に鉢をぶちまけたことが書かれています。そしてその結果、川が枯れてしまったとあります。「かれた」とあるので、この御使いも悪い御使いだということが分かります。ユーフラテス川にかぎらず、実際に川が枯れたら大変なことになりますよね。少なくとも、そこに生息している魚をはじめとするありとあらゆる生き物は死んでしまいますよね。それと同じく、私たちの霊の源である「聖霊の川」が枯れたらどうなるでしょうか?「聖霊の川が枯れる」とは、「聖霊の力」あるいは「聖霊の働き」が無くなるということを言われています。それこそ、クリスチャンは「魚」にもたとえられているのですが、「ユーフラテス川」すなわち「聖霊の川」が枯渇してしまったら、聖霊の力を受けることができなくなってしまうので、たとえ肉体は生きていても、霊的には死んだ者となってしまうのです。「霊的に死ぬ」とは、霊的に正しく見たり聞いたりすることができなくなり、結果として神さまの御心を行うことができなくなるということを言われているのです。

 

 

 

それではなぜ、このようなことが許されるのでしょうか?それは他でもありません、教会やクリスチャンの背信のゆえのことです。教会やクリスチャンが神さまのことばを後ろに投げ捨てているために、神さまの許可の下に、悪い御使いが解放されて、それらによってクリスチャンから聖霊の働きを奪うことが許されるようになってしまうのです。本来、教会やクリスチャンには、聖霊が臨在したり内住したりしているはずなのですが、あまりにも神さまの言うことを聞かないときに、聖霊が追い出され、代わりに悪霊が在住するようになると、そんなことを言われているのです。「そんなはずはない!ちゃんと礼拝にも行っているし、奉仕もしている。」と言われるかもしれません。たしかにそれは立派なことです。ですが、少し質問させていただいてもよろしいでしょうか?神さまの言われることに従っていますか?たとえば聖書では「器崇拝」や「聖人崇拝」を禁じているのですが、マリヤや法皇を崇拝したりはしていないでしょうか?あるいは聖書では同性愛を禁じているのですが、それを容認していないでしょうか?以上は教理的な側面のごく一部のことではありますが、他にも神さまがありとあらゆる良き教えを語っていると思うのですが、きちんと従っているでしょうか?あるいは従おうという姿勢を示しているでしょうか?たとえば私たちの歩みや働きの方向性がズレている時に、神さまが何らかの方法を通して語っているのですが、それに対して素直に耳を傾けているでしょうか?頑なにならずに従っているでしょうか?それがきちんとできていると、自認されていらっしゃるのなら、それは立派なことです。今後もそのことを続けていかれることをぜひおすすめいたします。ただし、そうではないのなら・・・ただちに方向を変えていきたいと思います。そうでないときに・・・神さまが示す方向に逆らっていくときに、いわば神さまの声を無視し続けていくときに、いつの時か聖霊がいなくなってしまい、代わりに悪霊が解き放たれてしまうのです。そしてこれらのことは霊的なことなので、目には見えないので・・・ゆえに非常に気付きづらいことなので、よくよく気をつけていきたいと思います。もし、万一、途中で気付いたときには、すぐに神さまにお祈りして、悔い改めて聖霊を呼び戻していきたいと思います。そうでないと、ずっと悪霊が住み着いてしまうことになりますので・・・そしてそのまま放置していく時に、とんでもないことになってしまいますので、正しく対応していきたいと思います。

 

 

 

重ねて申し上げるようですが・・・もし、罪があってそのことを示されたときには、決して心を頑なにしないように気を付けたいと思います。頑なだと、いくら聖霊が働きたくても、働くことができなくなってしまいますので、その代わりと言ってはなんですが、「悪い霊」が送られていくようになってしまいますので、そのあたりのことはよくよく注意していきたいと思います。次を見ます。

 

 

 

9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。

 

 

 

ここでも、悪い御使いが解き放たれることについて繰り返し言われています。「日、月、年のため」と書かれているように、神さまの定めの時に成されることが分かります。定めの時までは、悪い御使いをとどめておくよと、そのように取ることができます。でも、背信の窮みの時には、実行されるという風に取れます。たとえばヨブ記には、このように書かれています。

 

 

 

参照 ヨブ記38:22,23

 

38:22 あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。

 

38:23 これらは苦難の時のために、いくさと戦いの日のために、わたしが押えているのだ。

 

 

 

せっかくなので、こちらの箇所も少し見てみましょう。

 

 

 

「雪」「雹」ということばが出てきます。これらのことばは、霊的な事柄を指します。「苦難の時」とか「いくさと戦いの日」とあるように、「雪」「雹」とは、悪い霊のことを言われています。「わたしが押さえている」と書かれているように、ここでもやはり神さまが定めているときまでは、解き放たれないということが理解できます。しかし、神さまの定めの時、つまり教会やクリスチャンがあまりにも神さまの言うことに従わなくなったときには、残念ながら、これらの霊が自由に教会やクリスチャンの中に出入りができるようになる、ということを言われているのです。なので、神さまは闇雲に悪い霊を送るのではなく、また、罪があるからといってすぐに送られるわけでもなく、ある期間は悔い改めるのを、忍耐を持って待っていてくださるのです。でも、それが永遠に続くのではありません。神さまにも限界があるのです。そしてこのようなことはあまり申し上げたくはないのですが、まさに今がその時なのではないかと思います。それこそ聖書のテサロニケ書に「真理への愛を受け入れないために、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」と書かれているように、今の時代は多くの教会やクリスチャンが真理よりも、偽りを好むようになっているので聖霊が取り去られ、その代わりに惑わす力、すなわち悪霊が送り込まれるということを言われているのです。

 

 

 

本日の要点をまとめます。テーマにも掲げましたように、教会やクリスチャンが背信の道に入っていくときに、悪い霊によって霊的に死んでしまうということは重ねて申し上げておきますね。そして霊的に死んだ状態のままでこの世の生涯を終えるなら、天の御国は非常に危ないものとなりますので、気を付けていきたいと思います。でも、そのことを回避する方法があることもひと言申し上げておきますね。それは先にも述べたように、とにかく神さまの言われることに聞き従うことです。その都度、その都度、神さまが語っていることにただ、素直に応じていく、そのことを繰り返していくのなら、決して悪い霊に支配し続けられるということはありませんので、大丈夫です。もし一時的にそんなことになったとしても、神さまの言われている方向に是正していくときに、そこからすぐに解放していただくことができます。反対に神さまの声を聞いていながらも、いつまでも心を頑なにして言うことを聞かない人に「残忍な死者」が送られてしまいますので、ぜひ、神さまの言われることに関して、恐れを持ってフレキシブルに対応していきたいと思います。最後にそのことについて書いているみことばがありますように、それを読んでメッセージを終わりにしたいと思います。

 

 

 

箴言17:11

 

17:11 ただ逆らうことだけを求める悪人には、残忍な使者が送られる。

 

 

 

 

本日のみことばやメッセージは、決して他人事ではないなぁと思います。私もクリスチャンの一員として歩んでいますが、一にも二にも心が頑なにならないように、日々努めるように心がけています。罪を犯したり、捉え違いや勘違いは過去多々ありましたし、今後もあると思うのですが、神さまから何らか指摘を受けた時にはすぐに悔い改めることができるように、いつも祈り求めていきたいと思います。そうでないと、「悪い霊」が送られてしまいますので・・・本日のみことばを通して、益々神さまを恐れて、へりくだって歩んでいきたいと思いました。今日も大事なポイントを語ってくださった神さまに栄光と誉れがありますように。