聖書箇所 ヨハネの黙示録16:15

 

 

 

16:15 見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。

 

 

 

「義の衣を身に付けて、裸の恥を覆う」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

冒頭の聖句は、イエスさまが言われたことばです。黙示録の全体もそうですが、16章全体も、地に住む人々(この世に着いたクリスチャン)への、警告について、書かれています。そして15節のみことばは、それ以前の節の注意書きとして、言われていることです。そう、まさにこの世に着いているクリスチャン、すなわち裸で歩いている人たちが御使いから受ける災いについて、その前までの節は語っています。そしてその災いから逃れるためにはどうすれば良いのか?の答えが、15節のみことばです。また、同じようなことが黙示録の3章にも書かれているので、その箇所も見たいと思います。

 

 

 

参照 ヨハネの黙示録3:17,18

 

3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない

 

3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

 

 

 

上記のことばも、イエスさまが言われたことですが・・・まず、17節で、「裸の者であることを知らない」とあります。「裸」とは、衣服を着けていない状態のことを言われていますよね?しかもそのことを「知らない」ということばに何か語りかけを受けます。こんな例がピッタリかどうか分かりませんが・・・アンデルセンの代表作のひとつに「はだかの王さま」という童話がありますが、御存知でしょうか?おおまかなあらすじを説明すると・・・

 

 

 

昔ある国の、あるお城に王さまが住んでいました。この王さまは新しい服が大好きでした。ある時、王さまのところに、2人の詐欺師が「布織職」と称してやって来ました。そしてなんと彼らは、「自分にふさわしくない仕事をしている人と、馬鹿な人には見ることのできない透明な服を作ることができます」と嘘を言います。しかし2人の詐欺師の言うことを真に受けた王さまは、大喜びで注文しました。途中で出来栄えを見るために、彼らの仕事場に足を運んだ王さまですが、目の前にあるはずの布地が王さまの目には見えません。そこで王さまはうろたえるのですが、家来たちの手前、本当のことを言えず、見えもしない布地を褒めるしかありませんでした。家来は家来で、自分には見えないものの、そうとは言い出せず、王さまと同じように衣装を褒めます。そしてついに衣装が完成し、王さまは見えもしない衣装を身にまとってパレードに臨むことになりました。見物人も、自分が馬鹿だと思われてはいけないので、王さまや家来たちのように衣装を褒めるのですが、その中の小さな子どもの一人が、「王さまは裸だよ!」と叫びました。そしてついに皆が「王さまは裸だ」と叫ぶ中、王さま一行は延々とパレードを続けるのでした。

 

 

 

内容はざっとこんな感じなのですが・・・このストーリーを通して申し上げたいことは、「自分は衣服を着用している」と思い込んでいるのですが、しかし、「裸の者であることを知らない」と言われているように、じつは神さまの前に、「裸」だと判断されている類いのクリスチャンがいるのです。もし、私たちが何の衣服も着けずに「裸」だったら、先ほどの王さまのように、人の前で恥ずかしい思いをしますよね?ただ、普通は、何らか衣服を身に付けて人前に出るので、自分とは何も関係のないことだ、と思われるかもしれません。さらに「神さまは目に見えないお方だから・・・別に神さまに裸を見られたって、恥ずかしくも何ともないよ!」と、言われるかもしれません。もちろん普段、私たちは目に見える衣服、たとえばTシャツとかYシャツとかブラウスとかは着用しています。あるいは、スラックスやスカートを穿いているかもしれません。でも、今まで話をしましたように、聖書のあちこちには「たとえ」が使われていますので、ここでも、ひょっとしたらそうかもしれないなぁ、と考えるのが妥当なのでは?と思います。

 

 

 

この「裸」ということばは、「霊的」なことを指します。それこそ「霊」に関することなので、目には見えないのです。また、「霊的に裸ってどういうこと?」と思われるかもしれません。そのヒントが「白い衣」のことばにあります。そんなことを聞いて、「なんだぁ、だったら白色のシャツや上着を着ればいいんだぁー」なんて思う方はあまりいらっしゃらないかと思いますが・・・「白」にもたとえの意味合いがありまして、「義」を指します。そして冒頭の「着物」ということばと、3章の「白い衣」は同じことを言われていると思います。なぜなら両者共に、それによって「恥を覆いなさい」ということを言われているからです。ですから、「霊的に裸」とは、「義」の反対の意味合い、すなわち「不義」とか「罪」にまみれていることを言われているのです。そして、話は少し戻りますが、「裸の者であることを知らない」と言われているように、たとえ自分では「もう完璧!」と思っていたとしても、しかしあわや神さまの前には、じつは「罪や不義に満ちていた」なんていう可能性がある、ということを言われているのです。そうだとしても・・・しかしこれって、目には見えないことなので、本当に本当に分かりづらいことかもしれません。でも、だとするなら、「罪」や「不義」から離れていかなければいけませんよね?それこそ「白い衣」(義の衣装)を着用しなければいけませんよね?

 

 

 

ちなみに冒頭のみことばの「目をさまして」のところは、KJV訳では、“Blessed”(祝福された)ということばが使われています。このことばは、黙示録22章の「自分の衣を洗って」のところにも使われています。ですから「霊的に裸になることがないように、不義からきよめられなさい、そして祝福されたものとなっていきなさい。」ということを言われているのです。もし、そうするのなら、神さまの前に「裸の恥」をあらわすことはないのです。「白い衣」(義の衣装)によって、「不義」や「罪」を覆うことができるのです。そして生涯にわたって、「白い衣」(義の衣装)を着用し続けるなら、「天の御国」に入れるのです。それこそ、黙示録22章14節に書かれている「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである」のみことばが、その人の上に成就していくのです。また、地上においても祝福や恵みを受けていきます。

 

 

 

反対に、もし、「白い衣」(義の衣装)をまとうことなく、この世を去っていく時にどうなってしまうのか?と言うと、この世においては本日の聖書箇所、黙示録16章15節以前に書いてある災いに入ってしまいます。また、黙示録22章15節「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。」のみことばが、悪い意味合いでそのまま成就してしまいますので、気を付けていきたいと思います。また、以下のみことばも同じようなことを言われていると思いますので、参考までに見ておいていただけたらと思います。

 

 

 

参照 マタイの福音書22:1113

 

22:11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた

 

22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

 

22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

 

 

 

ここに書かれている「礼服」ということばも、先ほどの「裸の恥をあらわさない義の衣」に通じるのではないかと思います。ですから、「礼服を着ていない」とは、「義の衣を身に付けていなかった」ということを言われていると思います。そしてそういう人の後の運命について13節では言われていて・・・「外の暗やみ」に放り出されてしまうのです。「外の暗やみ」とは、少なくとも「天の御国」ではない所、つまり「ハデス」とか「火の池」とか「永遠の忌み」と言われる場所ではないかと思います。なので、ぜひ、「裸の恥」(不義や罪)を覆う「衣服」(義の衣装)を身に付けて、クリスチャンの入るべき所、「天の御国」に入っていきたいと思います。もう、すでにこのことを実践されていらっしゃるのでしたらともかく、しかしそうではないのでしたら、早速実行に移していきたいと思います。

 

 

 

 

クリスチャンと名が付けば、それは人括りであって、皆が天国へ行けるのだと、かつてはそのように思っていました。でも、聖書のみことばの大半はクリスチャン向けに書かれていることを理解していく中で、本日のみことばも、神さまを知らないこの世の人に対して(それも一理あるかもしれませんが)というよりも、特に私たちクリスチャンに向けて言われていることのようですので、他人事と思わずに、まじめにとらえていきたいと思いました。そして今回のみことばやメッセージを通して、「義の衣」をいつも身に付けていくことは非常に大事だということを教えられました。なので、お祈りの中で実践していけたらなぁと思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。