聖書箇所 ヨハネの黙示録17:3

 

 

 

17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。

 

 

 

「荒野への導き」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

冒頭の箇所では、ヨハネが御使いによって「荒野」に連れて行かれたことが言われています。そしてその時、ヨハネは「ひとりの女」が緋色の獣に乗っているのを見ました。そしてその女が乗っている獣は「神をけがす名」で満ちていました。KJV訳では、「神への不敬」「神への冒涜」とあります。

 

 

 

さて、度々申し上げているように、聖書という書物は、多くのたとえや謎や奥義に満ちている書です。今学びをしている「黙示録」は特にそうだと言えます。ですからそのまま文字通りに読んでも、何を言っているのやらサッパリ・・・なんていう箇所も結構多いです。今回の箇所に関しても「緋色の獣」とは、どういうものなのか?あるいは「ひとりの女」とは、どんな人物なのか?ということを理解しなければ今ひとつ意味が掴めません。そうかと言って、私も全てを理解しているわけではありません。それどころか、ほんの一部を理解するのが精一杯で、しかも「何となく、こうかなぁ」なんていうレベルではありますが、今回のメッセージもみことばのたとえの意味合いを示された範囲で少しずつ紐解きながら、共に学びができたらなぁと、思います。

 

 

 

まずは、「ひとりの女」について、話したいと思います。同じ黙示録の17章1節に、「大淫婦」ということばが出てきます。また、5節には「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」と書かれています。いずれも、「淫婦」ということばが使われています。また、「淫婦」ということばは、英語では“great whore”という風に訳されています。「偉大な売春婦」とでも直訳したら良いでしょうか?「キリスト教会と売春婦とは何の関係があるのか?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。じつはそれは「緋色の獣」とか「獣」ということばと関係があるのです。「獣」と聞くと、ライオンとか虎とか河馬とかワニとか鮫とか、狂暴な動物や生き物を思い浮かべるかも知れません。たしかにそれらも「獣」ではありますが、実際の「獣」とクリスチャンや教会とは、ほとんど、と言うか、全く関係がありません。しかし、聖書に記述されているのでゼロとも言えません。いいえ、じつは大いに関係があることなのです。そう、聖書に書かれている「獣」の意味合いには終末に台頭する「獣の国」のことが言われています。また、「女」は、「女性」という意味合いの他に、聖書では「教会」のことを指すたとえとして用いられています。そして当レムナントキリスト教会では「獣の国」は、「アメリカ」だという風に理解しています。

 

 

 

ですから、「ひとりの女が緋色の獣に乗っている」とは、アメリカのキリスト教会のことを言っているのでは?と思います。そして「淫婦」と言われているように、この女、すなわちアメリカのキリスト教会は「売春婦」にたとえられているのです。それは肉的なことと言うよりも、「霊的」な事柄に通じることではないかと思います。なぜそんなことを言うのか?と言うと、2節に「不品行のぶどう酒」ということばが使われているからです。実際に飲むお酒で「不品行」と呼ばれるものはありませんので、これもたとえであることが分かります。「ぶどう酒」は、私たちが礼拝で受ける「聖餐式のぶどう酒」、すなわち「霊的」な意味合いがあります。つまり「不品行のぶどう酒」とは聖霊ではない「悪霊」の働きを意味します。人間的には受け入れがたい、信じがたいことかも知れませんが・・・全ての教会がそうだとは申しませんが、しかしアメリカのキリスト教会の大半は、「悪霊」の働きで満ちているのです。悪霊の教理や霊で、多くのクリスチャンの信仰の根幹を覆そうとしているのです。日本でもそうですが、各国のキリスト教書店にて売られているのは、アメリカのまがいものの教理の本です。あまりうまく説明できませんが・・・そういうまがいもの、インチキを売る者として、アメリカのキリスト教会は、「淫婦(売春婦)」と言われていることがご理解いただけるかと思います。

 

 

 

また、黙示録の中で「バビロン」ということばが、何箇所か使われています。「バビロン」は、旧約時代に神の民が背信のゆえに捕囚となって連れて行かれたところでしたよね?そしてこのことは今の時代にも、まさに成就されつつあるのです。「バビロン捕囚」が再現するであろうと思われるのです。たしかに今の時代に「バビロン」という地名はありませんので、「そんなところに行くわけがないさ!」と思うかもしれません。もちろん物理的には、そう、目に見えるところでは、捕らえ移されることはないでしょう。でも、残念ながら霊的には多くのクリスチャンが「バビロン」(アメリカの嘘、偽りの教理)に捕らえ移されつつあるのではないでしょうか?ちなみに私もその一人でした。クリスチャンは艱難前に携挙されると思っていましたし、クリスチャンと名が付けば誰も彼もが天の御国に入れると思っていました。でも、それは「嘘」でした。しかもそういう聖書的に根拠の無い教えの大半は、アメリカを起点に世界中に広がっているということを知りました。その時に「自分もバビロンにいたんだ」と理解しました。

 

 

 

少し前置きが長くなりましたが・・・本日のテーマ「荒野への導き」ということですが、今までお話したことと、「荒野」とが、何の関係があるのか?ということから少し話をさせていただきたいと思います。

 

 

 

「荒野」とは、文字通りに解釈するなら、「何も無い場所」とか「無人のところ」です。しかしこのことにも、たとえが使われています。聖書の中で「教会」は、「宮」とか「都」とか「山」とか「町」とかにたとえられています。じつは「荒野」も、「教会」のたとえのひとつなのです。そして「荒野」とは、どんな教会か?と言うと、「都」すなわち既存の教会とか正統派と言われる教会の反対の教会、つまり「地下教会」のことを言われています。そして繰り返しますが、御使いがヨハネを「荒野」に連れて行って、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見せたわけですよね?ヨハネがこのことを見たのは2000年以上前のことですが、私が大きく勘違いをしていなければ、これはまさに今の時代に成就しているのでは?と思います。

 

 

 

先ほど、私も霊的にはかつて「バビロン」にいた、ということを話しました。その当時は、今と違って「正統派」と呼ばれる教会に通っていました。でも、その渦中にいる時には、まさか自分が「バビロン」にいるなんてことは、夢にも思っていませんでしたし、そんなことを考えたことすらありませんでした。すべてが「正常」だと、自分は普通のクリスチャン生活を送っていると、思っていました。でも、ある時を境に、エレミヤ部屋のホームページのメッセージを読んでいくうちに、「もしかすると自分はとんでもない教理を信じているのでは?」という疑問が沸々と浮上してきました。もちろんかつて行っていた教会のすべての教理がおかしかったわけではありません。神さまは愛のお方であるということ、未信者だと裁かれるとか、一人でも多くの人に伝道するということとかに関して、聖書的には全くおかしくはありません。それだけでなく、他にも良い教えや為になる事柄も、大いに語られていました。なので教えられることも沢山ありました。ただ、それはそうとして・・・しかし、肝心要の永遠の命の根幹に関わる事柄に関しては、聖書とは真逆のことが語られていました。「地獄は無い」とか「セカンドチャンスがある」とか、そこまでは逸脱していなかったにしろ、少なくとも艱難前携挙説は奨励されていましたので、「艱難の前に備えましょう」なんていうことは言われていませんでした。でも、これは聖書のみことばに反する事柄だと思いました。「もしかすると、ここの教会に通い続けても、永遠の命を得られないのでは?」という思いに心が次第に傾いていき、それから約半年後、そこの教会を離れて、主の導きで思い切って地下教会のレムナントキリスト教会に行くことにしました。すると、既存の教会では気付かなかったのですが、離れてみてはじめて霊的には「バビロン」に連れて行かれていたのだ、ということを理解できました。もし、そのままその教会に残っていたら、いまだに何も気付かずに、バビロンの教理や霊に引っ張られていたでしょう。そして生涯そこに居続けていたら、永遠の命は危なかったことと思われます。もちろんパウロが言われていたように、今でも、すでに得たのでもなく、すでに完全にされたのでもなく、ただ捕らえようと追求している身ではありますが・・・

 

 

 

私のつたない体験を通して重ねて申し上げたいことは・・・もし、私たちがいまだ既存の教会、いわゆる正統派と呼ばれる教会にとどまり続けるときに、アメリカ由来のおかしな教理や霊に関して、なかなか目が開かれていかないのではないでしょうか?そこにいる危険性に関しても、今ひとつピンと来ない可能性があるのです。しかも今は7つ目のミレニアムです。アダム以来、6千年が経ち、7千年目に突入している時代です。そして7つ目のミレニアムとはどのような時か?と言うと、教理&霊的な事柄がおかしくなる時なのです。そのことを想定してイエスさまは前もって「仮庵の祭り」(地下教会)をすることを言われたのです。福音書の中で、荒らすべき憎む者(反キリスト)が聖なる所(教会)に立ったら、山へ逃げなさいということをイエスさまはおっしゃっていましたが、このことはまさしく「荒野」に逃げることを言われているのです。ですから特に今の時代は、「荒野」である「地下教会」での働きや歩みに御心があることが分かります。しかも今の時代の大半の教会は、バビロンの教理や霊に侵食されているので、いくら「教会」と名が付いていても、吟味は必要かと思われます。残念ながら、「教会」だからと言って、信頼できる時代ではないのです。もっと言ってしまうなら、正統派と呼ばれる既存の教会は、いずれ「廃虚化」していくと思われます。「そんなことない!」と言われる方はともかく、もし、「そうかも知れないな」とほんのわずかでも思われるのでしたら、地下教会への移行をおすすめします。

 

 

 

ところで「荒野」と聞くと、「なーんにもなくて、魅力がないし、デメリットばかりなんじゃあない?」と思われる方も多いと思います。たしかに立派な会堂やパイプオルガン等は、ほぼ期待できないかも知れません。でも、これらはあくまでも外面的な部分であります。しかも永遠の命とは、直結することではありません。しかし、一旦バビロンの教理を語る教会から離れて、地下教会を行っていくときに、神さまから「命のパン」(メッセージ)が供給されるようになります。これってすごいことですよね??永遠の命への糧なのですから。しかもそれだけでなく、きちんと神さまの言われる通りに従っていくなら、神さまの守りや助けが与えられるのです。そういう中で、「天の御国」への道を歩んでいくことが可能となるのです。いずれも素晴らしいメリットが用意されているのです。

 

 

 

反対にいくら立派な会堂があろうとも、パイプオルガンやピアノやドラム等の楽器が充実していて、聖歌隊やバンドが盛んだとしても・・・でも、そこに「永遠の命のパン」が無かったらどうでしょうか?いくら毎週欠かさずに礼拝に行っても、バビロンの教理や霊を聞いたり受けたりして滅んでしまったら、何のためのクリスチャン生活だったのだろう?と、後の世において千載の悔いを残す、なんていうことにもなりかねませんよね?そして繰り返して申し上げますが、やはりバビロンの教理を語る教会にいる間は、このことを理解することは困難だと思いますので、もし、御心を感じましたらそこから出て、「地下教会」をはじめていきたいと思います。とは、言っても、「どんな風に?」と思う方もいらっしゃるかと思います。もしも興味がありましたら、当教会の「ステップⅡ」にぜひ、アクセスしてみてください。何かヒントになることや少しでもお役に立つことが書いてあるかもしれません。よろしければ、ぜひ地下教会、荒野での歩みをはじめていきましょう!そして永遠の天の御国へ招かれていきましょう!!