聖書箇所 ヨハネの黙示録19:10

 

 

 

19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

 

 

 

「神だけを崇める」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

冒頭のみことばの「私」とは、ヨハネのことです。「彼」とは、御使いのことです。みことばに書かれているように、この時、ヨハネは御使いを拝もうとして、その足もとにひれ伏しました。しかしそれに対してヨハネは御使いに「いけません~神を拝みなさい」と注意されました。

 

 

 

レムナントの礼拝やセミナーやニュースレターやHP等のメッセージで、エレミヤ牧師がよく語られていることですが・・・私たちクリスチャンは、地蔵や釈迦や仏壇は拝まないかもしれませんが、しかし時としてヨハネのように神さまではなく、御使いや人(神以外の存在)を崇めてしまうことがあります。こんな風にヨハネのようにあからさまにひれ伏して崇めるかどうかは別として、しかしヨハネのことは決して他人事ではなく、私たちにも大いに関係があることとして、このようなことが書かれているのだと思います。たしかにこの場面だけを見ると、ヨハネという個人が御使いを崇めているように思えるかもしれませんが、このことは未来の型として書かれているという風にもとらえて良いと思います。特に黙示録においては終末に起きる事柄をメインとしているので、今の時代に大いに関係があると考えられるのではないかと思います。ヨハネのような歩みをしているクリスチャンであっても、神さまよりも御使いや人を崇めてしまう時代に入っていくのでは?という視点で述べていきたいと思います。

 

 

 

私もその一人でしたが、「自分は神さまだけを崇めています!他のものには手を合わせることなんてありません」と言われるクリスチャンは多いと思います。先ほど話しましたように、この世の人が崇めているようなものは拝んでいないかもしれません。神社や寺に初詣に行く、なんていうクリスチャンも皆無とまでは言わなくても、しかしほとんどいないと思います。しかし・・・かつての私のようにそれだけに焦点をしぼって「自分は、偶像崇拝なんてしていない!」とは言い切れないのでは?と、今ではそう思います。

 

 

 

そこでクリスチャンが陥りやすい偶像崇拝に関して、例を挙げながら見ていきたいと思います。

 

 

 

①聖書のことばよりも、器の言うことを優先する

 

 

 

これはじつに終末に起きやすいことなのですが・・・終末に入る前までというのは、聖書に反した教理はほとんど言われていませんでした。全く、すべてが正しかったかどうかは分かりませんが、概ね聖書に基づいたことが、伝えられていたのではないかと思います。しかし、終末に入ってから、かつてのパウロやペテロやヨハネやヤコブのような使徒たちが伝えてきた教理が少しずつ変質するようになりました。たとえば「地獄はない」「煉獄がある」「セカンドチャンスがある」「クリスチャンと名が付けば裁かれない」「艱難は通らずに携挙される」等です。これらの教えはどれもこれも聖書のみことばを真っ向から否定するものです。しかし悲しいことに、教会ではこのようなことが正々堂々と語られており、しかもそこに集っている会衆のほとんどは吟味なく受け入れています。もちろんかつての私もその一人でしたので、何も偉そうなことは言えないのですが・・・しかし、「火の池」に入ってからでは遅いのでハッキリと言いますが、これは立派な「偶像礼拝」です。つまり神さまよりも、人を崇めることになってしまうのです。そして黙示録の21,22章に書かれているように、「偶像を拝む者」は天の御国を相続できなくなってしまうのです。ですから、もし聖書のことばと、器の言うことばが異なる時には、すかさず、みことばのほうを取るように心がけていきたいと思います。場合によっては器(メッセンジャー)をはじめ、周囲の人たちから反感を買うなんていうこともあるかもしれませんが、神さまのことばを優先していくことに御心がありますし、それが大いに守りとなりますので、ぜひそのようにしていきたいと思います。

 

 

 

②従わないことも、偶像崇拝の罪

 

 

 

少しみことばを見てみましょう。

 

 

 

参照 Ⅰサムエル記15:23

 

15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。

 

 

 

ここでハッキリと、「従わないことは偶像礼拝の罪」とあります。もし、私たちが神さまの言われることに従っていないという時に、人前はともかく「偶像崇拝の罪」という風に神さまからは見なされてしまうのです。その前の節には、「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」とあります。「聞く」ということばで思い出すみことばがあります。ヨハネの福音書に、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」と書かれています。「わたし」とは、イエス・キリストのことです。つまり、羊であるクリスチャンはイエス・キリストの声を聞き分けて、その声について行く、ということを言われています。そして次節には「私は彼らに永遠のいのちを与えます」ということが書いてあります。イエス・キリストの声を聞くクリスチャンに、「永遠のいのちを与える」ということをイエスさまは約束しています。私の勘違いでなければですが・・・かつての自分もそうでしたが、昨今キリスト教会やクリスチャンの間では、あえて口に出さないまでも、「もうすでに永遠の命は得ている」なんていう風潮があるようですがいかがでしょうか?誰が何をどう信じるなんていうことは自由ではありますが・・・しかし、この箇所を読むと、イエス・キリストの声を聞いて、その声に従っていく人が「永遠の命」を得るという風に理解できます。これは裏返すと、イエス・キリストの声を聞かない人や従わない人は、「永遠の命」を得られないという風にも読み取れるのですが、いかがでしょうか?学生時代、国語の成績が今ひとつ芳しくない私が読み違えているのでしょうか?あるいは夏休み恒例の読書感想文の宿題もままならずに担任の先生から怒られた私に、そんなことを言われるのは心外だ!なんて思われるでしょうか?もちろん断定はしませんが、しかし、表現の仕方はともかく先ほどのサムエル記のみことばと、同じようなことを言われているのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?ちなみにサムエル記の「従わない」のところは、KJV訳では「頑な」と訳されています。頑なだと、神さまの言われることに従うのはなかなか難しいと思います。しかも、それは「偶像礼拝の罪」だと言われているのです。これは永遠の命の根幹に関わる大事なことだと思いましたので、「偶像礼拝の罪」のところをKJV訳も確認したのですが、“idolatry”とあって、これは日本語と同じで「偶像崇拝」という意味です。そして繰り返しますが、「偶像崇拝」をするなら、決して天の御国に入ることはありませんので・・・ここで言われているように「従わない」ことによって、「偶像礼拝」と見なされてしまって、永遠の命をミスすることのないように気を付けていきたいと思います。

 

 

 

私もそうですが、それぞれの人に神さまの声に従わせまいとさせる“ウィークポイント”というのがあると思います。また、性別や年齢や環境をはじめ、立場によっても、それは若干変わってくると思います。でも、そのことが足かせや罠や仇となって、神さまの声に従えない、あるいは神さまのことが二の次になってしまう、なんていうことがないように気を付けていきたいと思います。そのあたりに関しては、当人が一番よく分かっていらっしゃると思いますので、ぜひ聖霊によって強められたり、変えられたりして克服していく中で、神さまの声にその都度聞き従っていきたいと思います。それは場合によっては、人間的には良いものかもしれませんし、はたまた何も問題は無いように見えるのかもしれません、しかし、それによって神さまの声がかき消されてしまうのなら、あるいは神さまに従うのが難しくなってしまうのなら、聖霊にあって思い切って捨ててしまいましょう!!物質や名誉や地位のように目に見えるものもそうですが、目に見えない心の思いや感情や欲望等に関しても、です。そして良いものも、そうでないものもすべてそのようにしていきたいと思います。そう、少し厳しいかも知れませんが、いつも神さまに心を向けていられるように、従っていけるように、整えていくことに努力していきましょう!そうは思えないかもしれませんが、私自身は結構こういった微妙な部分が案外「永遠の分かれ道」なんていう気もしなくもないです。私の思い過ごしや取り越し苦労なら良いのですが、しかし、日々の預言や聖書通読や祈り等を通して神さまの声を聞いていく中で、このような示しも個人的には度々受けていますので、あながち嘘ではないのでは??とも思います。あとはそれぞれの人の判断になりますので、もし、御心を感じましたら、このようなことも心に留めて歩みをされることをおすすめします。

 

 

 

今さらではありますが、どういったことにしても、「偶像礼拝」には気を付けていきたいと思います。しかもクリスチャンが陥る「偶像礼拝」は、霊的な事柄が多いので、なかなか気付きづらいのですが、しかし、聖書のみことばを優先することや神さまの声に従っていくことに徹していくのなら守られていきますので、つぶやくことなく、疑うことなく、ぜひこのことを実践していきたいと思います。今の時代は、個性派が強調されたり、個々における人のカラーが尊重されるべきだとか、それぞれの人が自分の好きなことをすればいい、なんていう風潮がありますので、クリスチャンの間でも神さまの声に従うなんていうことは流行らない時代かもしれません。たしかにこの世もそうですし、はたまたキリスト教会もブームにあっさりと乗せられたり流されやすいかもしれませんが、しかし聖書のみことばや神さまの言われることがどこまでも正しいので、そのことに留まっていきたいと思います。そしてそのことはそのまま、神さまだけを崇めることになりますので、そして最後まで留まり続けていくなら「永遠の命」に入りますので、よろしければぜひ、実践してみてください。

 

 

 

 

メッセージの中でも書きましたが、私自身も神さまの声に聞き従えないような“ウィークポイント”はありましたし、今でもゼロではないと思います。でも、サムエル記のみことばを霊の深みにおいて理解してから、このことに関して真剣に向き合うようになりました。また、神さまの声に従っていない時に、神さまとの関係に「平安」が無いことにいつしか気付くようになり、少しずつ祈りの中で悔い改めていくようになりました。具体的なことはともかく、神さまから示されたことや気付かせていただいたことに関しては、従うことができるように祈り求めて実践していく中で、だんだんと心が自由になっていくのを霊で感じるようになりました。

 

 

 

神さまの言われることに従うためというものの、正直、「ええっ、これも捨てなきゃいけないの??」なんていうものも中にはあります。でも、そこがミソで・・・いざ、決断して思い切って祈りの中で捨て去っていくとですね、たしかに失うものはあるものの、そんなこととは比べられないほどの恵みや祝福の中にその都度入れていただいています。人間的には失うものも多いのですが、それを遥かに上回る霊的な恵みを得られています。これは本当です。実際にそのことを体験した私が語っているのですから・・・

 

 

 

反対に捨て切れなかったり、中途半端にしていくときに、関係の無い戦いや困難や災いに巻き込まれていく、というのも度々体験していますので、「損するかも!」と思いながらも、あるいは「損」を覚悟で従ったほうが結果戸しては、「お得」ですし、「安全」とも言えます。しかもそれは神さまがとても喜ばれることですし、神さまに従っていると、神さまだけを崇めているという風に見なしていただけますので、御心を感じましたらぜひぜひ実践してみてください。また、これからも神さまに言われたことはすべて従っていけるように求めていけたらなぁと、本日のみことばを通して改めて教えられたように思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。