聖書箇所 ヨハネの黙示録20:1215

 

 

 

20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

 

20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

 

20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

 

 

「いのちの書」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

クリスチャンならお馴染みの「いのちの書」ですが、今回はそのことについて話をしたいと思います。

 

 

 

レムナントキリスト教会のメッセージでエレミヤ牧師が時々言われていることですが・・・「お一人一人が天の御国に入れるかどうかは、『いのちの書』に名が記されているかどうかです」ということですが、このことは私も全くその通りだと思います。今回の箇所がまさしくそのことを言われているからです。15節には「いのちの書になのしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」とあります。これはあわや私たちが「いのちの書」に名前が記されていないのなら、天の御国を受け継ぐことはできないということを言われているのです。

 

 

 

さて、この「いのちの書」のことですが、皆さまはどのように思われますか?昨今キリスト教会において、一度クリスチャンになれば裁かれないなんていうことが言われているようですが、それは本当でしょうか?以前私は某献身者が洗礼を受けたばかりの人に向かって「これであなたはいのちの文に名が記されました。だから天国へ行けます。」と言われたのを耳にしたことがあります。もちろんこのことは間違いではないのですが、その時のニュアンスとしては「いのちの書から名前は消えません」みたいなことを感じました。私の思い違いや勘違いでなければ、「洗礼を受けてクリスチャンになれば天国に入れますよ」という風な感じでした。当初私自身も、そのことに何の疑問も持っていませんでしたが、しかし後になって振り返って考えてみたときに、もし、それだけを強調するなら、それは片落ちである、ということに気付きました。以下、みことばをご覧ください。

 

 

 

参照 出エジプト記32:3135、申命記9:1214、申命記29:1921、詩篇69:28

 

 

 

出エジプト記32:3135

 

32:31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。

 

32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

 

32:33 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう

 

32:34 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」

 

32:35 こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。

 

 

 

申命記9:1214

 

9:12 そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」

 

9:13 さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。

 

9:14 わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」

 

 

 

申命記29:1921

 

29:19 こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、

 

29:20 主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう

 

29:21 主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。

 

 

 

詩篇69:28

 

69:28 彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。

 

 

 

網かけの部分をご覧いただきたいのですが、「天の下」や「いのちの書」から名前が消されてしまうことがある、ということをこれらの箇所では言われています。「信じられない!」と思うかもしれませんが、聖書に書かれているのでこういうこともあるかもしれない、ということは一応心に留めておくと良いでしょう。また、このことは非常に大事だと思いますので、それぞれ見てみたいと思います。

 

 

 

出エジプト記32:3135

 

32:31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。

 

32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

 

32:33 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう

 

32:34 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」

 

32:35 こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。

 

 

 

32節は、神の民が堕落してしまって金の神々を拝んで偶像崇拝の罪を犯したことに対して言われたモーセのことばです。「あなたの書物から、私の名を消し去ってください」とモーセは言いました。そしてそのことに対して33節で、神さまがモーセに答えています。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう」と。「罪」を犯すのは仕方のないことなのですが、しかしもし、頑なになっていつになっても悔い改めないのなら、せっかく「いのちの書」に名前が記されていても、「わたしの書物から消し去ろう」とありますように、最悪消されてしまうことがある、ということを言われているのです。このことからも、「一度、『いのちの書』に名が記されれば、決して消されてしまうことはない」という教えは違う、ということがご理解いただけるかと思います。次を見ます。

 

 

 

申命記9:1214

 

9:12 そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」

 

9:13 さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。

 

9:14 わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」

 

 

 

ここでも、先ほどと同じことを言われています。神の民が堕落して鋳物の像を造って、偶像礼拝の罪を犯したために神さまから怒りを買って、「その名を天の下から消し去ろう」と言われています。もしも、偶像礼拝をし続けるなら、「いのちの書」から名前が消されてしまうことが、ここでもお分かりになるかと思います。ですから、偶像崇拝の罪には、くれぐれも気を付けなければいけません。さらに見てみましょう。

 

 

 

申命記29:1921

 

29:19 こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、

 

29:20 主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう

 

29:21 主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。

 

 

 

こちらの箇所では、「頑なな心のままに歩んでいても、神との間に平安がある」と心の中で思う人に対して神さまが怒りを発しておられます。そういうことを言う人に対して、「主はその者を決して赦そうとはされない」とか「その者の名を天の下から消し去ってしまう」と言われています。ここでもやはり、どんなことをしても赦されるのではなく、頑なになって罪を悔い改めずに神さまの教えに背いたままで生涯を終えるなら、「いのちの書」から名前が消されてしまうことを言われています。ですから私たちは決して頑なになってはいけません。もし、罪があって、自分で気付いたり、あるいは神さまから指摘を受けたときには、すぐに悔い改めていくようにしていきましょう。そうでないときに、神さまから怒りを招いてしまって、赦していただけなかったり、はたまた「いのちの書」から名前が消されてしまうので、気を付けていきたいと思います。引き続き見ていきましょう。

 

 

 

詩篇69:28

 

69:28 彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。

 

 

 

これはダビデが言われたことばです。ダビデはイエス・キリストの型でもあります。これはどんな場面か?と言うと、ダビデ(キリスト)が彼に敵対する者からそしりを受けて、苦難に会っている時のことです。この時、ダビデに対して同情をしたり、慰めたりして味方になってくれる人は誰ひとりとしていませんでした。そして恐らくこれは、イエスさまが十字架に架けられた時の型であるとも思うのですが、そんな中で発したことばが「彼らがいのちの書から消され、正しい者と並べて、書き記されることがありませんように」です。「彼らがいのちの書から消され」とありますように、ダビデ(キリスト)をそしったり侮辱したりした人たちもはじめは、「いのちの書」に記されていたことが分かります。ですから「彼ら」とは、神さまを信じる人たち、つまりクリスチャンなのです。しかし、そうではあっても、ダビデ(キリスト)に対して悪いことをする人たちは、「いのちの書」から名前が消されてしまうのです。

 

 

 

そしてこれはある意味、未来(終末)の予表であるとも言えるのではないでしょうか?私の霊的な感覚では、今の時代は、「善」と「悪」がだんだんと逆転しつつあるように思います。今の時代、ダビデ(キリスト)のように神のことばにどこまでも忠実なクリスチャンの肩身がだんだんと狭くなりつつあるのでは?と思います。

 

 

 

たとえばアメリカでは州によっては「同性愛」が合法になっているそうです。しかもそれがキリスト教会の中にも入ってきていて、そのことを容認する教会は法律を守っているということで「税金」の免除や優遇を受けられるそうですが、しかしみことばに基づいて拒否する教会においては、法律を認めないとの理由で、「税金」を科せられるとのことです。

 

 

 

神さまの前にどちらが正しいか?なんてことは一目瞭然ですよね??間違いなく、後者の取った態度が正しいのです。たとえ法律に背いたとしても、みことばを守ることに御心があります。しかし一方、クリスチャンと呼ばれる人たちであっても、キリスト教会と名前が付いていても、聖書のことばを無視したりないがしろにして、人が決めた法律を優先している人たちや教会があります。しかし、これはハッキリ言いますが、人前には良くても、神さまの前には「悪」と見なされてしまいます。なので、いくらクリスチャンと称していても、あるいはキリストの名が付く教会であったとしても、きちんと悔い改めないなら裁かれてしまうでしょう。そして最悪「いのちの書」から名前が消されてしまう可能性があります。ですから私たちはそのあたりを決して勘違いすることのないように気を付けていきたいと思います。神さまの前に「悪」を行うなら、「彼らがいのちの書から消し去られ~」のみことばが成就してしまうので注意が必要です。もし、みことばに反しているかな?ということに何かお心当たりがありましたら直ちに悔い改めていきたいと思います。そうするなら、「いのちの書」から名前が消されることはありませんので、ぜひそのようにしていきたいと思います。

 

 

 

いくつかのみことばを引用しましたが、「いのちの書」について、概ねご理解いただけましたでしょうか?かつての私もそうでしたが、「いのちの書に一度名前が記されてしまえば大丈夫!」というのは、まやかしの教えだということがお分かりかと思います。そしてはじめに申し上げましたように、「いのちの書」に名前が無いときに、決して「天の御国」に入ることはありませんので、何はさておき「いのちの書」に名前が記されていないといけません。「決して」なんて言うと、オーバーに聞こえるかもしれませんが、しかしこれはハッキリと書かれていることなので、きちんと言っておきたいと思います。それこそ冒頭のみことば15節では、「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」とありますので・・・このところは念のため、KJV訳でも確認しましたが、全くその通りに訳されていました。なので、どうかそのまま素直にご理解いただきたいと思います。

 

 

 

繰り返しますが、天の御国に入るか?否か?は、「いのちの書」に名前が記されているかどうかですので、ぜひ、「いつの間にか消されてしまったー」なんていうことのないように歩みをしていきたいと思います。私が行っていた高校は、中間試験や期末試験が終わったあと、その結果について上位50位までの名前が記された紙が廊下に貼られていました。51位以降の人の名前は載らないわけで非常に残念なのですが、しかし次回チャレンジができます。頑張って勉強して好成績をあげれば、何とか50位以内に入って名前が載る可能性があります。しかもその学校を卒業するまで、何度も再チャンスがあります。また、在学中一度も名前が載らなかったからといって、「永遠の命」に支障をきたすわけでもありません。しかし、「いのちの書」に関しては、そうはいきません。一回しかチャレンジはできませんので・・・それこそ、冒頭のみことば12,13節に「人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた」と書かれていますように、これっていわば地上での行いについて言われているわけでありまして・・・このことからも再チャンスがないことが分かりますよね?要は二度とやり直しがきかないのです。そして、「いのちの書」に名前が無いと、永遠と「火の池」の中に入れられてしまいますので・・・そのあたりのことは重々肝に銘じていきたいと思います。私個人としては、とても大事なポイントだと思いましたので、今回はこの箇所からメッセージをさせていただきました。いつも大切なことを語ってくださる神さまに栄光と誉れがありますように。