聖書箇所 ヨハネの黙示録22:7

 

 

 

22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

 

 

 

メッセージの前に・・・

 

 

 

私がおよばずながら、こんな風にみことばを伝える働きをスタートさせてから、まる4年の歳月が流れました。つい最近のような気もしますし、随分前からだったような感覚もします。そして今回は新約聖書の最後の巻の最後の章となりました。この奉仕は弟子の歩みのメッセージの訓練の一環ではありますが、弟子の歩みをし始めた頃は、まさか自分が人々に福音を伝える奉仕に入るとは、夢にも思っていませんでした。私事ではありますが、2008年の秋からレムナントキリスト教会の集会に参加させていただくようになりました。その約一ヵ月後には、弟子の歩みにも入らせていただきました。はじめの頃はメッセージを伝えるどころか、人前で祈ることすらままならない状態でした。私はレムナントキリスト教会以外に2つの教会に所属していましたが、いずれも公の場でお祈りをしたり、証をしたりすることとは、ほぼ無縁でした。でも、レムナントキリスト教会に行くようになってから、集会の中でお祈りをしたり、証をする機会を持つようになって、内側が少しずつ変えられていくようになりました。今までもよく話していますように、元々の気質は極度に内向的で、引っ込み思案で、人さまに何かを伝えるなんていうことはとても苦手なタイプですが、日々のお祈りの中で神さまがこんな私のことを少しずつ変えてくださり、ほんのわずかでも人々にみことばを伝えていく器として用いてくださるようになりました。そのことに日々、感謝しながらも、神さまが許してくださる時までは、この働きを続けさせていただけたらと思っていますので、これからもよろしくお願いします。

 

 

 

「みことばにとどまり続けて、永遠の命を得る」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

 

 

その前の節を読むと分かるのですが、冒頭のみことばは神さま(主であるイエスさま)が御使いを遣わして、神のしもべヨハネに示されたことばです。「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである」と。

 

 

 

さて、このことばですが、じつはこのことばは黙示録の1章の冒頭でも同じことを言われています。せっかくなので、そこも見てみましょう。

 

 

 

参照 ヨハネの黙示録1:13

 

1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

 

1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。

 

1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

 

 

 

1節でも、キリストが御使いを遣わして、神さまのしもべヨハネにお告げになったことを言われています。そして3節に「そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである」とあります。このことばは、冒頭のみことば「この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである」と同じことを言われていると思います。ちなみに「心に留める」と「堅く守る」のところは両者共にKJV訳では“keep”(保つ)が使われています。ですから、預言のことば、すなわち聖書のみことばを保つ人は幸いだと、言われているのです。このことは裏返すなら、聖書のみことばは全てのクリスチャンに与えられているけれども、保っている人と、そうでない人とがいる、ということを言われているのではないかと思います。また、“keep”(保つ)ということばですが、このことは「とどまる」という表現でも聖書の中で使われているように思います。そして聖書ではことの他、“keep”(保つ)とか「とどまる」ということを強調しているように思いますのでそのことに関連して、いくつかみことばを見てみたいと思います。

 

 

 

参照 へブル人への手紙3:14

 

3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

 

 

 

ここで「最初の確信を保ちさえすれば」とあります。そして「保ち」のところは、KJV訳だと“hold”とあります。色々と訳し方はありますが、この場合、「保持する」とか「維持する」という訳が適切かと思います。そしてこのことも「堅く守る」:“keep”(保つ)と同じことを言われていると思います。ですから私たちが最後の最後まで、みことばを保ち続けることが、いかに大事かが分かります。続いて「とどまる」という視点からも見てみたいと思います。

 

 

 

参照 ヨハネの福音書8:31,15:4,5

 

8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

 

 

8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 

 

 

ここで主は「わたしのことばにとどまるなら~わたしの弟子です」と言われています。ここで使われている「とどまる」ということばは、KJV訳では“continue”(継続する、・・・を続ける)とあります。このことばも、“keep”(保つ)と同じことを言われているのでは?と思います。続いて見てみましょう。

 

 

 

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

 

 

ここでも、「とどまる」ということばが使われています。KJV訳では“abide”とあり、それはそのままダイレクトに「とどまる」と訳せます。そしてこのことは恐らく“keep”(保つ)のことばに通じるのではないかと思います。「この書の預言のことばを堅く守る(保つ)者」ということと、「わたし(イエス・キリスト=みことば)にとどまる」ということは、全く同じことを言われていると思います。

 

 

 

さて、いくつかのみことばを参照して、みことばを最後まで保ち続けること、とどまることの重要性について学びをしましたが、今の教会やクリスチャンの現状はどうか?と言うと、私の捉え違いや勘違いでなければですが、霊的な感覚としては残念ながらこのことを実践している人はとても少ないのでは?と思います。また、このことは案外難しいのでは?と思います。「何を言うのか?心外な!」と怒る方もいらっしゃるかもしれませんが、しかしマタイの福音書には、「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」ということが書かれています。このことばはイエスさまが言われたことばです。要は、「良い教えだなぁ」と思っても一時的に続くだけで、何か自分に不都合なことがあったり起きたりすると引いてしまったり、去ってしまうタイプのクリスチャンのことを言われているのではないかと思います。

 

 

 

そのことに関連してと言ってはなんですが、レムナントキリスト教会は様々な形で外部のクリスチャンに向けても、終末やみことばの奥義やたとえの意味合いの解き明かしをしています。もちろんこのことは神さまからの召しなので感謝してさせていただいています。そのことで時々ではありますが、「色々と教えられた」などと良い反応をいただくこともあります。そしてそれは非常に感謝なことであります。たとえば、「艱難前携挙節がキリスト教会では言われていますが、しかし聖書ではクリスチャンが艱難を通ることが言われているので、艱難時代のために備えていきましょう!」というおすすめをしています。このことは本当に聖書に書かれているので、そのままお伝えしていることなのですが、しかし、いざそれを実践する人がいるか?と言うと、「・・・」という感じです。誤解しないでくださいね、これは一例として挙げているだけですし、しかもそのことを批判しているわけでもありませんし、あくまでもおすすめであって一切強制しているわけでもありませんので。でも、本当にみことばにとどまるというのなら、私個人としては、このことは必須と思われるのですがいかがでしょうか?そう、申し上げたいことは、みことばが語っていることを聞いて喜んでくださる人は多く、それはそれで感謝なことなのですが、しかし「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」とイエスさまがおっしゃったように、人間的に不都合だったり困難だったりした場合になかなか実践に至るまでいかない、ということを言われているように思います。これは神さまの目から見て良くないことです。そして、もしみことばにとどまらないのなら、「天の御国」は「空約束」になってしまう可能性がありますので気を付けていきたいと思います。そして一方みことにとどまり続けるクリスチャンもいますので、参考までに見てみましょう。

 

 

 

参照 ルカの福音書8:15

 

8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

 

 

 

もし、私たちみことばを聞いて、よく耐えて(KJV訳:忍耐)、しっかり守る(KJV訳:keep『保つ』)なら、「実」を結ばせるのです。ここでも、“keep”すなわち「みことばを保つ」ことを言われています。また、「忍耐」ということばが使われているので、みことばを保つことに関連して、「忍耐」が必要だという風に理解できます。ちなみに「忍耐」ということばで思い出すみことばがあります。このことも福音書の中でイエスさまが言われたことです。「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取る(KJV訳:いのちを持つ)ことができます。」と。また、ヘブル人への手紙には「それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のもの(永遠の命)を相続するあの人たちに、ならう者となるためです」ということが書かれています。KJV訳でも、全く同じことばが使われていましたので、私たちが「永遠の命」を得るには、やはり「忍耐」が不可欠であることが理解できます。そう、「忍耐をもって、みことばを保ち続けて『永遠の命』を得られますよ!」、ということをここでも証していると思います。そして私たちが目指すのは、まさにこのパターンです。そしてそのポイントは、「正しい、良い心でみことばを聞く」ことです。「正しい、良い心でみことばを聞く」とは、私の想像ですが、神さまの御心を行っていくことを前提にみことばを学ぶことだと思います。もし、本当に御教えを実践する気持ちがあってそのことを祈り求めていくのなら、私たちがすんなりとそのことを成せるように、神さまは誠実をもって対応してくださいます。必要な忍耐や力も与えてくださいますし、最終的には喜びや感謝をもって御心を行えるようになっていきます。そしてそのことを繰り返していくのなら、「預言のことばを堅く守る(保つ)者」という風に、神さまに見なしていただけるのです。これって考えてみるとすばらしいことだと思います。神さまから志が与えられて、御心を行っていこう!という思いになって、みことばを学んで祈り求めて、そして神さまから力や忍耐が与えられてさせていただけるのですから。しかも神さまがお喜びになりますし、いえいえ、それだけでなく、周囲のクリスチャンをはじめ、神さまを知らない未信者の人々にも良い影響を大いに与えますし、最後までずっと続けていくのなら、「永遠の命」まで約束されているんですから。一石○鳥とも言えますよね??そうなると、やらなくては絶対に「損!」だと言えるのではないでしょうかね??

 

 

 

反対に、あのみことばも、このみことばも実践しないという時に、あるいはみことばにとどまり続けるのをやめてしまう時に・・・神さまからの怒りを買ったり、災いを招いたり、はたまた周囲のクリスチャンをはじめ、未信者の人々にも悪影響を及ぼしてしまったりするので、「永遠の命」を得るのは厳しいと思いますので、もし、お心あたりがありましたら、すぐさまみことばにとどまり続けるように祈り求めて、その歩みに徹していきたいと思います。

 

 

 

先ほどチラッと話しましたように、たしかにみことばに「とどまる」ことは難しいことかもしれません。でも、少し考えてみていただきたいのですが・・・たとえばマラソンランナーがオリンピックで金メダル獲得を目指すという時に何をするのか?と言うと、ベストタイムを維持するために、あるいはそれ以上のタイムを出すために毎日トレーニングに励みますよね?でも、そのことを怠るなら、次第にタイムがガタ落ちになってオリンピック出場どころか、国体の出場も怪しくなってしまいますよね?クリスチャンもそれと同じで、最終ゴールである「天の御国」に入るためには常に、そして最後までみことばにとどまる必要があるのでは?と思います。今までも再三話をさせていただきましたように、「みことば」はとどまってなんぼのものですので、ぜひ、そういうポイントについても見ておいていただけたらと思います。