聖書箇所 ルカ11:1-4

 

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。

11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。

11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 

1節で、一人の弟子が、イエス様に祈りのことについて聞いています。

そして、2節から4節で、どのように祈ったらよいか、イエス様は教えてくださいました。

「父よ。御名があがめられますように・・・」からはじまる祈りのことを、私たちは、「主の祈り」と呼んでいます。

このお祈りのことを大半のクリスチャンは御存知でしょうし、日々の信仰生活の中で、あるいは、礼拝の時に祈っているかと思います。

 

本日は、「祈り」について、主の語りかけを聞いていきたいと思います。

 

唐突な話で恐縮ですが、「祈り」というのは、クリスチャンの死活問題にかかわることです。

なぜかというと、クリスチャンは、聖霊の中で、生かされるものだからです。

ちなみに、「祈り」と「聖霊」は、とても、密接な関係にあります。

祈ることによって、聖霊の力が働くからです。

 

例を挙げると、海や川に生息する魚のようなものです。

魚は、常に、水の中で生きていくものです。

もし、水が無くなったら、あっという間に干上がり、死んでしまいます。

 

クリスチャンも、同じです。

「聖霊」は、いろいろなものにたとえられていますが、その中でも、「水」という言葉が、頻繁に使われています。

聖霊に触れて、はじめて、霊が生きていくのです。

もし、聖霊である「水」が乾いてしまったり、無くなってしまったら、霊的に飢えたり、渇いたりしてしまいます。

そして、祈り求めていかないと、枯渇してしまい、霊的には、死んだも同然、つまり、クリスチャンとしての働きが停滞しまうのです。

 

また、「祈り」は、天の父とのコミュニケーションの手段でもあります。

天の父は、私たちの肉眼で見えるものではありません。

また、肉声が聞こえるわけではありません。

しかし、祈りを通して、霊的に交わることが可能になります。

祈っていくことによって、人知を遥かに超えた喜びや平安を得たり、神様御自身を知ることや御心を捕え、行っていくことにつながっていきます。

ゆえに、クリスチャン生活の基本は、「祈り」と、言っても過言ではないことが御理解いただけるかと思います。

 

逆に、祈り無しに、奉仕をすすめたり、兄弟姉妹との交わりをはじめ、人との関わりは、うまくいきません。

必ずどこかで限界を感じたり、方向がズレてしまったり、疲れてしまったりして、結果として、的外れになってしまいます。

ですから、何をしていくにしても、祈りは必須であることを御理解いただきたいと思います。
祈っていくことによって、聖霊の力を得ていく中で、教会の働きをすすめたり、問題があれば、速やかに解決への導かれたり、兄弟姉妹をはじめ、他の人との関係も御心の中でスムーズになっていかれます。

 

また、クリスチャンは、「羊」にたとえられています。

羊は、とても弱い動物と言われています。

いつも、羊飼いの助けや守りを必要とするわけです。

私たちクリスチャンも、羊のように弱い存在だということです。

ある意味、クリスチャンライフは、見えない「悪」との戦いとも言われています。

私たちの敵とか悪魔とか言われている「サタン」は、私たちよりも強い存在です。

クリスチャンの信仰を奪うためには、手段はいとわずに、ありとあらゆる手を尽くしてきます。

知能が人よりも高く、私たちを騙すのは、赤子の手をひねるよりも、簡単だとも言われています。

ゆえに、私たちは、常に主に守っていただかなければなりません。

そのためには、謙遜になって、心を尽くして、そのことを主に祈り求めていく必要があります。

そうでないと、あっけなく、敵に倒されてしまいます。

聖霊の力を祈り求めずに、自分自身や人の力により頼むことには、御心はありません。

 

そして、今は、終末です。

世の終わりのことについては、聖書の至る箇所に記されています。

その中の大きな特徴の一つは「惑わす力」です。

このことは、イエス様御自身が語っておられることです。

そして、この惑わす力というのは、単に、敵が惑わすということもありますが、神の民の背信のゆえに、主の赦しによって、もっとはっきり言うと、いつまでも心を頑なにして御言葉に聞き従わないクリスチャンへの裁きのために神様御自身が送り込まれるものなのです。

このことは、厳粛に受け止め、考えるべき大切な事柄です。

日々の歩みにおいて、ろくに祈らず、聖書も読まない、正しく御言葉を理解せずに、嘘・偽りや空想話を信じたり、人の考えや思いを優先して御心を行わない、そのようなクリスチャンが悔い改めるのを神様は忍耐を持って待っておられます。

しかし、ずっと待っていてくださるわけではないのです。

神様にも限界があることを御理解いただきたいのです。

                    

ルカ13:6-9には、このようなことが書かれています。

 

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

 

御声に聞き従わない人、実を結ばせないクリスチャンは、主からいずれ、退けられてしまうことが理解できます。

7節の、「切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか」というのは、敵の剣、すなわち、曲げられた教理によって、いずれ倒されてしまうため、何も実を結ばないということだと思います。

実を結ばないクリスチャンは、残念ながら天の御国を受け継ぐのは、難しいと思われます。

このことに恐れを持っていきたいと思います。

 

本日のポイントをまとめます。

「祈り」は、クリスチャン生活の根幹にかかわることを常に念頭においていく必要があります。

御言葉にも「絶えず祈りなさい」ということが、繰り返されています。

祈っていくことによって、神様の導きによって、自ずと御心を行う人に変えられていきます。

神様の御心を祈り求めていく人に、憐れみをもって、必要なことを語り、助けや導きを与えてくださり、義の実を結ばせていくようになります。

また、それだけでなく、惑わす力をはじめ、敵の攻撃や妨害からも守られ、勝利していかれます。

日々の歩みにおいて、祈りと御言葉を優先し、御声に聞き従う歩みを成していきたいと思います。

 

弟子の歩みに入る以前は、それほど、祈りの重要性について考えていませんでした。

祈らなかったというわけではありませんが、かなり惰性が入っていたように思います。

しかし、礼拝や弟子の歩みの学びや御言葉や日々の歩みを通して、祈っていくことの大切さを、最近になり、痛切に感じるようになりました。

今では、祈り無しには、不安でいっぱいになり、何もする気になれません。

はじめは、「祈りができますように」という風に、祈り求め、それから、祈り主体のクリスチャン生活に少しずつ変えられていきました。

祈りを通して聖霊の力に触れることができ、言葉にならないほどの平安や喜びに満たされていることを、感謝する毎日です。