聖書箇所 ルカ14:25-27

 

14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。

14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

 

聖書において、今は、7つ目のミレニアムと言われています。

神様が天地を創造されて、七千年目に入りました。

聖書で言う、「7」という数字は、完全という意味合いがあります。

そして、この7つ目のミレニアムは、神様が6日間で天地のすべてのわざを完成され、7日目に休まれたことに通じます。

また、Ⅱペテロの手紙に書かれているように、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようであるとあります。

第七日目に、なさっていたわざを休まれたとあり、今は、主の安息の時であることが理解できます。

 

参照 創世記2:1-7

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

2:3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

 

そして、今は、終末の時でもあります。

すなわち、時は、刻一刻と、終わりに向かっている時代です。

まさに、イエス様の再臨の時を待っている状態です。

また、イエス様の再臨の時というのは、同時に、神様の裁きの時でもあります。

おこがましい言い方で恐縮なのですが、かつての私もそうであったように、この点について、多くのクリスチャンが大切なことを見落としているように思います。

確かに、御言葉にあるように、イエス様は、再び、地上に来られます。

しかし、このことは、必ずしも、すべてのクリスチャンにとって、ハッピーになるわけではないのです。

なぜなら、黙示録には、神の民が嘆く時でもあることが書かれているからです。

 

参照 黙示録1:7

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

 

イエス様の再臨に関しては、色々なことが言われています。

たとえば、その代表的なものとして、艱難前、艱難中携挙説が挙げられます。

クリスチャンは、艱難は通らないという教えです。

艱難の前に挙げられるので、再臨に備える必要は全く無いとか、神は、とても寛大で、愛であるがゆえに、裁かれることはない、地獄に入るのは未信者だけ等の耳に良い教理が出回っています。

しかし、残念ながら、聖書を正しく読むと、これらのものは、クリスチャンに聖書的に全く根拠が無い安心感を抱かせるだけの敵がもたらした滅びの教えであることに気づきます。

 

ところで、上記御言葉(ルカ14:25-27)には、弟子について、書かれています。

また、主の再臨と弟子とはかなり密接な関係にあります。

本日は、聖書の視点から、この箇所を通して語られている弟子と再臨のことについて見ていきたいと思います。

 

 

初降臨について、少し触れたいと思います。

旧約時代の終わりに、神の民の背信のゆえに、イエス様は、神様のひとり子として、この地上に遣わされ、私たちの罪のために十字架にかけられ、死んでくださり、3日目に甦り、40日間使徒たちに現れ、その後に天にあげられました。

そこで、私たちが見落としてはならないことがあります。

それは、復活のイエス様に出会い、天にあげられたのを見たのはイエス様の弟子たちでした。

Ex:マグダラのマリヤ、11弟子をはじめ、イエス様に選ばれた使徒たち

クリスチャンであっても、群集と呼ばれる人たちの誰かにあらわれたという記述は残念ながら、見当たりません。

そういったことから、再臨のイエス様も、弟子たちのところに来られる可能性が高いことが理解できます。

 

参照 使徒1:3,10,11

1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 

また、11節の、「あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」という言葉に着目していただきたいと思います。

その言葉に続いて12節に、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰ったとあるのですが、このことから、弟子たちがオリーブの山でイエス様の昇天を見送ったことが理解できます。

オリーブとは、「油」、つまり、聖霊の働きに通じます。

つまり、再臨も、聖霊の油注がれた弟子のところに来られることが理解できるのではないでしょうか。

そのように見ていくと、主の弟子になることが正しく再臨を迎える必須条件とも言えると思います。

 

天の御国を受け継ぐ条件、再臨への備え=弟子の歩みであることが御理解いただけたかと思います。

ただし、献身の歩み、弟子の歩みと言っても様々です。

つまり、名ばかりではNGであること、真の弟子になっていくことの必要性について、本日の聖書箇所を通して学べるかと思います。

ここには、弟子になるための条件、もっと掘り下げて言うと、主から認められる弟子についてはっきりと書かれています。

26,27節にあるように、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分の命を憎む者、自ら十字架を背負っていく者とあります。

具体的には、どのようなことを言われているのでしょうか?

 

ペテロやヨハネやヤコブのような歩みが代表とも言えます。

また、パウロの歩みも模範です。

   主の御声にすぐに従うことです。

ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、イエス様に声をかけられて網を捨ててすぐに、従いました。

パウロも同様です。

以前は、ユダヤ人と一緒に、正しく神様に仕える人達を迫害していました。

しかし、イエス様に声をかけられて、すぐに改心し、天からの啓示に従って歩むようになりました。

 

   いつでも、どこでも、主を一番とする、何よりも御言葉を優先することです。

自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹とは、教会の牧師、伝道師、教師、信徒、兄弟姉妹のことを指すと思われます。

信仰生活の渦中において、目にすること、耳にすることについて、神様が言っていることと人が言っていることでズレが生じたり、ぶつかったりすることは、どうしても避けられませんし、ある意味、このことは私たちの信仰の真価を問うために、神様に赦されていることでもあります。

また、人は、完全ではないので、時として間違えを犯したり、過ちに陥ったりしてしまいます。

そのような時に、御言葉よりも、人の言っていることを優先してしまうことに御心はありません。

たとえ、人から悪く思われたり、嫌われたりしても、そのようなことを承知の上で、御言葉に従っていく歩みにポイントがあります。

自分の命を憎むとは、単純に殉教という意味もあるかも知れませんが、人に憎まれたり、迫害されたりしても、極端な言い方をするならば、すべての人を敵に回したとしても、それでも、主に従う歩みを選択していくことです。

主のために、自分の思いに死ぬこと、自分の喜びや楽しみとすることを自ら放棄すること、人間的に、この世的に、損であっても神様の義のために、犠牲を払い、どこまでも、神様の御心に従って生きていくこと、このような歩みこそが、十字架を背負う歩みなのだと思います。

 

キリストが歩んだような歩みを目指す人に御心があります。

このような歩みをしている人に御心があり、教会の働きを担っていくようになります。

そして、結果として、多くの義の実を結ばせていくことにつながります。

主はぶどうの木で私たちは、枝にたとえられていますが、常に、主にとどまることにポイントがあります。

旧約でレビ人が主の働きを担うことについて繰り返し出てきますが、レビとは、くっつくという意味合いがあり、新約でいう弟子の歩みにそのまま通じます。

ちなみに、実を結ばないものについて、火で焼かれることが聖書には書かれています。

このことは厳粛に受け止めていきたいと思います。

 

繰り返しますが、弟子として歩んでいくことがポイントです。

日々の歩みにおいて、祈り、御言葉に触れ、御心を行っていくこと、地道ではあっても、このことを神様の前に、忠実に行っていきたいと思います。

そして、再臨について、正しく対応していきたいと思います。

主の弟子として最後まで忠実に歩み、クリスチャンの最終目的地である天の御国に入るために、きちんと備えていきたいと思います。

 

弟子の歩みを始める前まで、再臨について、誤った認識を持っていました。

クリスチャンであれば、皆、イエス様に迎えられると思っていました。

しかし、聖書を何度か通読していくうちに、そうではないことを理解しました。

また、最近、礼拝のメッセージで、聖書はクリスチャンが読むものであっても、大半は弟子宛に書かれているものであり、弟子でないと該当しなかったり理解出来ないことがあることについて教えられました。

そのことを通して、再臨に関しても同様であるのではないのかなぁと、思いました。

命に至る道が狭いことを改めて痛感させられます。

本日の聖書箇所は、耳に痛く、厳しいのですが、御言葉を尊重して、厳粛に歩んでいかなければ・・・と、新たに決意させられるような気がします。

人前ではなく、主の前に、忠実に歩んでいかれるように、日々の歩みにおいて、祈り求め、再臨に備えていきたいと思います。