聖書箇所 ルカ17:7-10

 

17:7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。

17:8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。

17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。

17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」

 

しもべとは、国語辞書を引くと、「召使い」とか「身分の低い者」と書かれています。

ここで言われているしもべもそのような類であります。

しもべとは、主人の言いつけを守り、行う人です。

そして、クリスチャンはキリストのしもべにたとえられています。

 

時に、世の中の人、特に、神様を知らない人たちは、人からの賞賛や栄誉を求める人が多いと思います。

もちろん、すべての人がそうだとは断言はしません。

また、実際に、努力したり頑張った結果として、そのようなものを受けることもあります。

しかし、残念なことに、世の地位や名誉、賞賛や栄誉というのは、どれもこれもこの世で生きている時だけのものであり、肉体の命が終わると同時に消失してしまいます。

魂が永遠に生き続けることに着眼していくならば、いわば、一時的なものであるとも言えます。

 

本日の御言葉を通して、私たちが奉仕をしていく姿勢について学んでいきたいと思います。

 

先ほど、世の人報酬について話をしましたが、クリスチャンの報いについて少し話をしたいと思います。

私たちクリスチャンは、神様に仕える者として、奉仕を行っています。

ただし、そこで、少し考えていただきたいことがあります。

「奉仕」というのは、人に対してするものではなく、神様に捧げていくものです。

ゆえに、私たちの報酬は、天の父から受けるのです。

このことを正しく理解しないと、何のための奉仕なのか分からなくなったり、混乱を招いてしまうので、そのことをはじめに申し上げておきます。

つまり、奉仕を行う時に、人間的な視点で考えて取り組んでもうまくいきません。

御言葉に書かれているように、どこまでいっても、キリストの召使いであることを理解する必要があります。

ちなみにクリスチャンという名前の中に「キリスト」という言葉が含まれているように、私たちクリスチャンは、キリストの奴隷であることも理解出来ます。

 

また、10節に「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」とあるように、クリスチャンがキリストに言われたことを行うのは、特別なことではなく、当然のことであるということを御理解いただきたいと思います。

なぜかというと、クリスチャンの前進というのは、どこまでいっても、キリストへの服従だからです。

ここには書いていませんが、その前を読むと使徒たちがイエス様に「私たちの信仰を増してください」と言われていて、その後、7-10節の話をイエス様はされました。

つまり、信仰を増すというのは、御言葉に従うことを言われているのだと思います。

 

さて、御言葉に従うことについて少し見ていきたいと思います。

まず、世の中の常識や考えに固執していたら、いつまでたってもキリストに服従することはできません。

どこかで決別することが必要です。

私も人様のことを、とやかく言える立場ではありませんが、今の時代、御言葉を守るクリスチャンはあまりいません。

周囲の人を基準にしていたら、従うのは難しいという思いになることさえあります。

しかし、これは、敵の罠や惑わしであることを正しく認識してください。

なぜかと言うと、サタンは、私たちに御心を行わせないように、あらゆる手を尽くして永遠の命を奪おうと躍起になっているからです。

特に私たちの感情の部分を刺激してきます。

思索感情や否定的な思いや悪い思いを心に入れてきて、やる気を失わせ、うまいこと御心を行わせないように仕組んできます。

しかし、こういったこととも、決別していくことが大切です。

たとえ、周りのクリスチャンが従わなくても、従っていかれるように祈り求めていくことによって、聖霊の力を通して、神様にお仕えしていく人に徐々に変えられていくようになるからです。

そうなったら、しめたものです。

そして、人知を超えた喜びや平安の中で、日々の信仰生活を送っていかれるようになります。

 

また、仕えていくには、神様と常に密接な関係にあることがポイントです。

常に、祈り、御言葉に触れていることが必須です。

このことは、弟子の歩みにそのまま通じます。

12弟子のようにキリストと寝食を共にすることです。

祈りや御言葉を通して、聖霊に触れ、神様からの知恵や力や助けや導きを得ながら、その都度、主の御声に応答することが可能になっていきます。

 

信仰を持って主に仕えていきたいと思います。

世の価値観とは正反対かも知れませんが、このことは後の世において、神様から誉れをいただけるだけではなく、この世においても、神様の御業や栄光を見ていかれます。

神様に従っていくことは、人からは、敗北に見えたり、愚かに見られたりして、目に見える報いは無いかも知れませんが、神様の前にはとても尊く、賞賛に値する歩みと言えるのではないのでしょうか。

どこまでも、キリストへの服従に心を注ぎ、ひたすら主を見上げて歩み、勝利の栄冠を得ていきたいと思います。

 

Ⅰサムエル記に従うことの大切さについて教えられ、そのことをきっかけに、日々の信仰生活において、「主に従うことが出来ますように」と祈るようになりました。

以前は、捧げること(奉仕すること)が、何よりも大切だと思っていました。

確かに、奉仕も必要なことですが、従うことが何よりも大切だということを教えられ、また、クリスチャンのあるべき姿なのだということを理解しました。

全焼のいけにえよりも従うことを主が好まれることを理解し、従うためには、まず、祈り、御言葉に触れることが大切であること、そして、なすべきことをしていくことなのだというふうに思いました。

そのことを繰り返していく中で、奉仕への取り組む姿勢や考え方も徐々に変えられていきました。

以前は、人の前ということを多少なりとも意識していたのですが、主の前に忠実に行っていけばよいのだと、そんな風に思うようになり、うまくやらなければという思いからも少しずつ解放されていくようになりました。

また、この箇所を通して、ひたすら主に仕えていけばよいことを改めて教えられ、感謝でした。

まだまだ、人間的な思いから離脱できていない部分もありますが、自分の思いを少しずつでも捨てて主の言われることを行っていかれたらなぁと思います。