聖書箇所 ルカ18:1

 

18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

 

本日は、「祈り」について、神様が私たちに語っていることを見ていきたいと思います。

 

テーマ別に話をしたいと思います。

 

  1. 祈りはクリスチャンにとって武器

御言葉に堅くクリスチャンは、常に戦いの中にいます。

ちなみに、神様が必要とされているのは、悪に立ち向かっていくクリスチャンです。

何にしてもそうですが、戦うためには武器となるものが必要です。

信仰の世界において、それに相当するものが、祈りです。

クリスチャンは、悪との戦いをしていくわけですが、もし、祈りを怠ってしまうと、あっという間に、敵に倒されてしまいます。

(罪や誘惑)と戦うことに対して、敵は、何とか妥協させようと必死であることを前提として歩んでいかなければいけません。

ですから、状況はどうであれ、祈りによって、攻めていく必要があります。

失望してはならないとイエス様が言われているように、祈りをひいてはいけないということです。

私は、過去、時々、テレビで柔道の試合を観戦していました。

その時に、結構、目にすることがありました。

それは、途中までリードしている選手が、残り時間が数秒というところで、攻めをひいてしまって、判定で、逆転負けをしてしまうシーンです。

敗北を告げられた選手の多くは、とても、悔しそうでした。

信仰生活も同じことが言えるのではないでしょうか。

もし、私たちが、自分は完璧だ、特に問題は無い、安泰だと思って、安心感にひたっている時に、思いもよらない災いや惑わしが送り込まれてしまうことはないでしょうか。

御言葉にも、「油断せずに祈っていなさい」と、あるように、ほんのわずかの油断によって、敵に隙をつかれて、最も大切な永遠の命を失う可能性があることも御理解いただきたいと思います。

最近、礼拝のメッセージの中で、戦いに負けてしまうと、得るべきものを失うということを教えていただきました。

ろくに祈らずに、神様の思いよりも、自分の思いや考えを優先したり、御言葉に妥協して歩むなら、常に敗北のクリスチャン生活を送ることになってしまうのです。

ゆえに、祈りと御言葉は勝利していく上で不可欠なものであることを御理解いただきたいと思います。

 

  1. 祈りは聖霊の油に通じる

祈らないと聖霊の働きは体験出来ません。

裏を返して言うと、聖霊の働きを祈り求めていくならば、神様の御業や栄光を目の当たりにしていくようになります。

何か、ひとつの働きをしていくにしても、祈るか祈らないかによって、結論は大きく異なっていくということです。

人手によるものなのか、それとも、神様の力による働きなのかどうかです。

聖霊の働きであれば、豊かに実を結びます。

神様の働き、身近な例をあげるなら、証ひとつしていくにしても、祈るか祈らないかで、聞く人が聖霊に触れるか否に分かれてしまうのです。

いくら話し上手で、人受けするものであったとしても人間的なものは、残念ながら、何も実が残りません。

神様の前に、見事にはじかれてしまいます。

でも、たとえ人には受けが悪く、話べたであっても、聖霊の力によって捧げられたものであれば、神様に喜んで受け入れていただけます。

このことは、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえ話にも、通じることだと思います。

両者は、花婿であるキリストの花嫁を目指しているクリスチャンです。

賢い花嫁も愚かな花嫁も、ともしびは持っていました。

ともしびとは、御言葉のたとえだと思います。

参照 

詩篇 119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

いずれも、聖書の御言葉に通じているクリスチャンです。

この時点では、まだ、差がありません。

では、どこで、賢いか、そうでないかの差がついてしまったのでしょうか。

それは、「油」です。

賢い花嫁は、油を用意していましたが、愚かな花嫁は用意していませんでした。

油とは、御霊の油に通じることです。

そして、油を用意していた賢い花嫁は、花婿であるキリストに受け入れられましたが、油を用意していなかった愚かな花嫁は、「あなたがたを知らない」と、退けられてしまいました。

油を用意していなかったとは、実際にどのようなことを言われているのでしょうか。

基本的に、クリスチャンは、聖書の御言葉を知っています。

しかし、残念ながら行う人はあまりいません。

一見、御言葉を知っているというと、それだけで、信仰深いとか敬虔だとか、人はそのように判断します。

でも、神様の目は違います。

行うか行わないか、御覧になっています。

そして、それだけではなく、御声に応答するか否かによって、死後の行き先が変わってしまうのです。

御言葉を知っているのと、実際に行うのは、別であることを御理解いただきたいと思います。

賢い花嫁とは、常に主の御心()を追い求め、預言者や使徒や弟子たちのように、実際に行っていた人たちのことを言われているのだと思います。

御心を行うために、祈りを通して主からの力を得て、実践していくことに御心があります。

なぜかというと、わたしたちは、死後、それぞれの行いに応じて裁かれるので、単に聞くだけでなく、祈りの中で、行う人になっていきたいと思います。

 

3.祈りを通して嘘・偽り・惑わしから守られる

終末は、惑わす力が送り込まれると聖書にも書いてあるので、常に祈っていくことにポイントがあります。

惑わされたまま、世を去ってしまうと、永遠の命は危ないと言えます。

しかし、祈り、御言葉に触れていることによって、嘘、偽りを見抜く力や霊を見分ける賜物が与えられることによって惑わしや危険や罠から回避することができます。

もし、万一、惑わされたり、倒されたりすることがあっても、祈っていくことによって、主からの助けを受けられます。

そして、そこから逃れ、再び立ち上がれるようになります。

 

4.失望させられることはない

ここに書かれているように、主に祈り求めていく時に、決して失望に終わることはありません。

主に信頼し続けていくことに御心があります。

私もその一人で恐縮なのですが、時として、人は人を捨てたり、裏切ったりすることがあります。

でも、主に望みをおいていくなら、決して裏切られることはありません。

また、人の力には限界があります。

でも、神様は無限のお方です。

祈っていく人には、天からの助けが与えられます。

どこまでも、神様だけを見上げていく歩みに御心があると、そのようなことも言われているのではないでしょうか。

 

5.祈るか否かで、受ける霊が異なる

祈ることによって、罪から解放されたり、心の中がきよめられたりします。

きよめられることは、とても大切なことです。

御言葉にも、「きよめられることを追い求めなさい」とか「きよくないと誰も主を見ることはできない」と、あります。

常に祈る人は、聖霊に触れます。

しかし、時々しか祈らない人や全く祈らない人は、残念ながら聖霊に触れることができません。

ゆえに、聖霊ではない、別の霊に支配されてしまいます。

また、絶えず、祈ることに御心があります。

なぜかというと、生ける水(聖霊)は、祈り求めていかないと、すぐに渇いてしまうものだからです。

そして、イエス様が、「生ける水を飲む人は、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」と言われているように、常に祈る人は、聖霊の支配の中で生きていかれるようになります。

 

本日のポイント

◎敵との戦いのためには、祈りと御言葉に触れることが必須です。

◎聖霊は、祈りを通して働かれます。

◎祈りが弱いと、あっという間に惑わしに入ったり、真理が見えなくなったりしてしまいます。

◎どこまでも、主を信頼して祈り求めていく人は、失望させられることはありません。

◎いつでも、どこでも、どんな時でも、祈っていく人は、霊的に枯渇することがありません。

 

この箇所を通して、祈りの大切さについて、御理解いただけたかと思います。

そして、実際に祈っていく人に御心があります。

すぐに答えられる祈りと、そうでない祈りとがありますし、御心にかなうか否かによっては、祈り求めても場合によっては退けられてしまうものもあります。

しかし、誠実に祈っていくならば、何が神様に喜ばれることか、そうでないのかについても、正しくとらえ、主の御心を行うことにつながっていきます。

日々の歩みにおいて、祈りに励み、御言葉に触れ、神様の前に尊い器になっていきたいと思います。

 

ルカの11章の御言葉からも、祈りについて取り上げましたが、今回も、そのことに類似した御言葉に導かれ、祈りの重要性について改めて主が語ってくださり、感謝でした。

今、ここに書いたメッセージもそうですが、証や預言、その他いくつかの奉仕について、いずれも祈ることから始めています。

奉仕に取り組む前は、多少なりとも、不安を覚えるのですが、祈っていくことによって、そういったことも緩和されることに気づかせていただきました。

また、最近は、御言葉を通して、御旨に叶うとりなしがどのようなものであるのかということについても少しずつ学ばせていただいています。

そして、ここ、1,2年の間に、以前に比べて祈る習慣が身に付くようになり、神様の存在を更に身近に感じられるようになりました。

本日のメッセージにもあるように、祈りを通して、神様の業をその都度見せていただくことが今ではとても楽しみになっています。

以前は、ほとんどピンと来なかったのですが、祈りは本当に素晴らしい!と、感動の日々を送らせていただいています。

これからも、更に主だけを見上げ、祈り、御言葉のことに励んでいかれたらと思います。