聖書箇所 ルカ3:21,22

 

3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、

3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 

上記御言葉を通して、「神様に愛されるクリスチャン」について見ていきたいと思います。

 

22節の「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」の御言葉から、イエス様は、神様の御心にかなっていたということが理解できます。

イエス様は神様の実子です。

一方、神の民であるクリスチャンも、神様の子供と言われています。

クリスチャンが神様のことを「天の父」と呼んでいることや、聖書の中で、神様がクリスチャンのことを「子」と呼んでおられるからです。

確かに、クリスチャンは、神様の子供です。

しかし、皆が神様に愛されているかというと、それはまた、別のようです。

言い方を変えると、神様の子供として受け入れられているかどうかということです。

なぜかと言うと、聖書の中に、花嫁が出てくるのですが、同じ花嫁でも、賢い花嫁と愚かな花嫁がいるからです。

花婿はキリストで、花嫁はクリスチャンのたとえですが、賢い花嫁も愚かな花嫁も、両方とも、クリスチャンです。

賢い花嫁はキリストと婚姻関係に入り、愚かな花嫁は花婿であるキリストに「わたしは、あなたがたを知らない」と、退けられてしまいました。

つまり、クリスチャンが皆、必ずしも神様に受け入れられているとは限らないことを、知っていただきたいのです。

このようなことを申し上げると、「えーっ、そんなことないよ!私はイエス様のことを信じているし、洗礼も受けている。しかも、毎週教会にも行って奉仕もしている。ううん、それだけではなくて、祈祷会や外部の集会にも参加している。だから、神様に愛されていて当然でしょう?!」と、大半のクリスチャンはおっしゃるかと思います。

過去、私も、そのような確信を抱いていた一人でした。

人間的な視点だと、確かに、そんな風に思うかも知れません。

また、キリスト教界では、そのことは常識とされています。

神様を信じ、イエス様を救い主として受け入れている人は皆、神様の子だと、神様に愛されていると・・・そのように考えるかと思います。

 

そこで、聖書で言われている、神様に愛される子供ということについて考えてみたいと思います。

先に申し上げたように、御心にかなうことが、神様に受け入れていただけることを、この箇所から読み取れるかと思います。

 

ここで、イエス様のことについて、触れてみます。

イエス様は私たちの罪の贖いをするために、神様でありながらも人として生まれ、この地上に来られました。

私たちと同じく、肉体を持って歩まれました。

しかし、1つだけ大きく異なる点がありました。

それは、生涯の中で、一度も罪を犯されなかったということです。

 

次に、イエス様が地上におられた時に、どのような歩みをされたのかについて、みていきたいと思います。

そのことから、神様の御心にかなう歩み、すなわち、神様の子となり、神様に愛されるためのヒントが得られるかと思います。

 

イエス様の歩みというのは、ほとんどの人から見て、歓迎されるものではありませんでした。

そもそも、神の民であるクリスチャンが、イエス様を受け入れられなかったのですから。

なぜでしょうか?

それは、クリスチャンが神様の前にどうしようもないほどに堕落した歩みをしていることや、聖書にも書かれているように、世の行いが悪いことについて、証をしていたからです。

結論から申し上げると、悪を憎み、常に、神様の義、すなわち、裁きについて語っていました。

その当時のクリスチャンの歩みは、神様の目から見て、良いものとは言えなかったのです。

神様の教えをないがしろにして、人間的な考えや思いに固執していたため、神様が示す道ではない、別の道を歩んでいたのです。

神の民が歩みを正すことが出来るように、イエス様は遣わされたのです。

福音書を読むと理解出来るように、その時代における問題点や悔い改めるべき点を、公生涯の中において、イエス様は語りました。

神様の愛だけではなく、むしろ、神様の裁きについて、忠実に語ったために、最後は、十字架にかけられてしまいました。

つまり、この世とは妥協せずに、十字架の死に至るまで、神様の御心に忠実に従いました。

そして、このことは、一人でも多くのクリスチャンを真の意味合いで、神様に立ち返らせ、義の道へと導かせるきっかけとなりました。

 

神様の裁きについて、宣べること、このことは、新約の時代においても、大半のクリスチャンに受け入れられるものでも喜ばれるものでもありません。

なぜかと言うと、今のキリスト教界は、神様の愛ばかりを強調し、肝心な裁きについて、ほとんど語らないからです。

特に、この終末においては、キリスト教界が聖書の御言葉をなおざりにして、聖書的には根拠の無い教理を多くのクリスチャンに浸透させています。

そのような状況の中で、真実のことだけに目を向けて、福音を宣べ伝えていくことは、ある意味、至難の業です。

例を挙げると、クリスチャンは、艱難時代は通らないとか、信じていれば、裁かれないとか、地獄は無い等の教えです。

そして、残念なことに、このような教えを吟味もせずに、ほとんどのクリスチャンは盲信しています。

でも、実際には、天の御国への道が狭いことは確かであり、地獄が実在すること、クリスチャンが艱難を通ること、そして、歩みを正していかなければ、滅んでしまうことが聖書には書かれているので、そのようなことを呼び掛けていくことに御心があります。

ただし、今の時代もイエス様の旧約の時代と同様、御言葉に焦点をあてて、話をしようとすると、残念なことに、大半のクリスチャンから拒否反応を示されてしまいます。

しかし、イエス様の時代のように、悪い時であっても、常に御言葉の視点に立っていくことに御心があります。

聖書の御言葉を信じて、時が良くても悪くても、御言葉を正しく宣べ伝えて行っていく人、そのような人が、神様から受け入れていただけるのだと思います。

御言葉に書かれていることは、必ずしも、私たちにとって、都合の良いものばかりではありません。

むしろ、人間的には意に反するようなことのほうが多いかと思います。

また、私たちは、完全ではないので、時には過ちや失敗を繰り返したり、罪を犯してしまうかもしれません。

しかし、そのたびに、主に赦しを求め、悔い改めながらも、真理と正面から向き合い、神様が喜んでくださることを心に留め、聖霊に助けを求めて、行っていく人に御心があります。

そうしたことが、祝福や恵みや人知を超えた喜びや平安を得ていくものともなります。

そして、それだけではなく、神様の御業や栄光がその人を通して顕著にあらわされ、尊い器として用いられていくようになります。

 

聖書に、このような御言葉があります。

 

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

 

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」

 

繰り返しになりますが、神様が喜ばれることは、人から受け入れられるものとは限りません。

この世は、サタンが支配しているので、むしろ、その逆のほうが多く、人からは反感をかってしまうことも覚悟する必要があると言ってもよいと思います。

しかし、真の意味合いで神様に従って歩む人こそが神様の子供とされ、受け入れていただけることを理解し、慎んで、御心を行っていきたいと思います。

 

ここ数年、聖書を読んで理解したことがありました。

それは、何かと言うと、2種類のクリスチャンがいるということです。

特に福音書では、イエス様が、たとえをつかって、2種類のクリスチャンを対比させている箇所が見受けられます。

Ex:良い魚と悪い魚、忠実なしもべと怠け者のしもべ、麦と毒麦、賢い花嫁と愚かな花嫁等

魚、しもべ、麦、花嫁は、いずれもクリスチャンを指すのですが、最終的な行き先が異なることを学びました。

良いとか忠実とか賢いと呼ばれているクリスチャンは、神様に正しく従い、義の実を結ばせ、結果として受け継ぐべきもの、天の御国に入ると思われます。

一方、悪いとか怠け者とか愚かというのは、神様の前に、的外れな歩みをしていた人、たとえば、聖書を正しく理解せずに、御言葉に無い教えを伝えたり、神様の前に正しい働きをしている人をカルト扱いしたり妨害したりして、真理に背いてしまったために、本来クリスチャンが入るべきところである天の御国から退けられてしまうことを言われているのではないかと思いました。

このことを知る以前は、クリスチャンは皆、光の中を歩んでいると思っていましたが、私自身が、闇の中を歩いていることに気づきました。

聖書の中に、「光が来たのに、それを受け入れなかった。人々は光よりも闇を愛した」とあります。

イエス様を単に信じていれば、それだけで、光の中にいて、神様に受け入れられていると長い間思っていましたが、そうではないことを教えられ、方向を変えることが出来ました。

このことは、私にとって、とても大きなことです。

更に、聖書について学び、祈りやメッセージや預言を通して、わずかでも御心をとらえ、聖霊の助けと導きによって、正しく歩んでいかれたらと思います。