聖書箇所 ローマ人への手紙1:28-32

 

1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

1:32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

ここでは、神様を知らない人たちの結末について書かれています。

その前の文章やこの箇所だけを読むと、このことは異邦人に向けて書かれているように見えます。

少し辛辣な言い方ではありますが、異邦人、すなわち、未信者は、はじめからイエス様のことを信じてもいないし、受け入れてもいないので、そのような結末を迎えてしまうのは、ある意味いたしかたないのでは?と思います。

しかし、32節を読むと異邦人だけでなく、クリスチャンと呼ばれる人であっても無惨な結末を迎えてしまう人がいることが分かります。

「死罪に当たるという神の定めを知っていながら」ということから、そのことが理解できます。

一般的に未信者の方は「神の定め」である律法、すなわち聖書の言葉を知りません。

それは、聖書を読まないからです。

しかし、クリスチャンは聖書を読みます。

ですから天の御国のことや火の池のこと、神様が喜ばれることとそうでないことを知っています。

今日の箇所に関しても、そのことは言えます。

29-31節には、このようなことをしている人たちに神の怒りが下されること、死罪に引き渡されることについて明確に書かれています。

にも、かかわらず、平気でそういったことを行っている人たちがいるのです。

28節の「彼らが神を知ろうとしたがらないので」の言葉に語りかけがあります。

聖書には、私たちクリスチャンを永遠の命に導くためのありとあらゆる御教えが書かれています。

でも、多くのクリスチャンは案外、命を与えるための聖書の御言葉に関心を寄せないと言われているのではないでしょうか?

あまり聖書を読まないクリスチャンであっても毎週の礼拝を通して御言葉には多少なりとも触れて御教えを受けます。

しかし、実際の生活が御言葉とあまりにもかけ離れてしまっているのではないでしょうか。

こんな言葉を耳にすることはないでしょうか?

「サンデークリスチャン」という言葉です。

礼拝にはきちんと出席する、しかし、一歩、教会を出たら世の人とあまり変わらない生活を送っているクリスチャンを言われているのではないかと思います。

聖書を読んだり祈ったりすることよりも、世的なものを愛する生活、たとえば、テレビ、インターネット、ショッピング、映画、フィットネスをはじめ、自分がやりたいことを何よりも優先する、こういったことでは、信仰は二の次、三の次、あるいはポーズだけということになってしまいますよね。

そのことには全く御心はありません。

もちろん、すべて否定するわけではありませんが、こういったものに没頭するなら、聖書を読む時間や祈る時間は大幅に削減されてしまいます。

そして、世のものに陥り続けるなら、確実に滅びへと至ってしまいます。

ちなみに聖書の御言葉を読み、祈らないと神様を知ることは出来ません。

ですから「神を知ろうとしない」、聖書の御言葉に触れない、祈らない、あるいは御言葉を実践しないというのは、恐ろしい結末に至ってしまうので、気を付けていきたいと思います。

 

また、28節の後半を読んで分かるように神様は神を知ろうとしない人を良くない思いに引き渡されました。

このことは何を言っているかお分かりになりますか?

神様は、神様に関心を寄せない人たち、掘り下げて言うなら、真理を求めない人たちに対して、してはならないことをさせるように仕向けられたのです。

そのことについて29-31節に詳しく書かれています。

こうなってしまうと、どうなるかというと・・・結論を言うと、霊的に正しく物事をとらえられなくなってしまいます。

言い方を変えるなら、神様によって霊的に盲目や耳しいにさせられてしまうということです。

このことは、恐ろしいことです。

人手、もしくは、サタンにそうされたのであれば、神様の助けが期待出来ます。

しかし、自ら招いた罪によって神様にそのようにされてしまったら、どうなってしまうのでしょう?!

このことは厳粛にとらえなければいけません。

ある箇所では「人々が真理を退けて偽りを喜んで信じているために神によって惑わす力が送り込まれる」と書かれています。

かつて、礼拝のメッセージで、神から来た罠や惑わしは、人の力ではどうすることも出来ないということを聞いたことがあります。

神様からの惑わしや罠は逃れようが無いと・・・

どうしますか?そんな風になってしまったら大変だと思いませんか?

また、このようなことも教えていただきました。

「神を尋ね求めないことは不信の罪である」と。

いずれにしても、神様を知ろうとしないこと、すなわち、祈らないことや聖書を学ばないことは神の怒りをかうということを覚えていてください。

本日の箇所は、とても深刻なことについて言われています。

ただ、神様は理由も無く、人々をこのようにされるお方ではありません。

理由については書かれていませんが、概ねこのようなことではないかと思います。

また、神様は突如として、人をサタンの手に渡すお方でもありません。

まず、預言者、メッセンジャー、周囲にいる人、あるいは、身近な出来事を通して、信者、未信者問わず、お一人一人が正しい道を歩むことが出来るように必要な悔い改めを促します。

しかし、何度、あるいは何十回、何百回とあらゆる方法を通して語っても、いつまでも悔い改めを拒否する人たちや叱責を聞かない人たちに対してこのようになさるのです。

つまり、どこまでも頑な人に対して、このような対応をされるのです。

もし、私たちが御言葉を拒否し続けるなら最終的に神様に拒否されてしまいます。

これは、恐ろしいことです。

神様に拒否されるということは、天の御国を相続できないからです。

また、このことは決して他人事と思ってはいけません。

クリスチャンとして歩まれるお一人一人が真剣に考えていかなければいけません。

あまりにも心を頑なにして御心を行わないなら、神の霊がその人から去ってしまうのです。

ですから、神様の語りかけを聞いた時には、ただちに応答していくようにしていきたいと思います。

そうでないと、28節の後半から31節のことが現実に起きてしまうからです。

世には占いの本がありますが、それらは外れることもあります。

けれども、聖書の御言葉は、良かれ悪しかれ、すべて成就してしまいます。

つまり、外れは皆無なのです。

このことに恐れを持っていただきたいと思います。

繰り返すようですが、何はともあれ、聖書の御言葉と祈りの生活に徹することをぜひ、おすすめします。

また、御言葉を実践していかれることもおすすめいたします。

実践していくとき、見るべきものをきちんと見ていきますし、人々にもそのことを伝えていくようになり、多くの人たちを助ける働きを担っていかれるようになります。

残念ながら、今の時代の多くのクリスチャンは、嘘・偽りを喜んでいるために真理を受け入れていませんし、御言葉を実践する人はあまりいません。

しかし、本日の箇所でも学びましたように、そのことには全く御心がありませんので、お祈りや聖書を通して神様のことを知って神様が喜ばれることを行っていきたいと思います。

聖書に書かれているように、神様は御子を信じる者、つまり、クリスチャンが一人も滅びることを望んではおられません。

ですので、聖書から永遠の命について学び、永遠の命に至る道を歩み、後の世において勝利の栄冠を受けていきたいと思います。

 

最近こんなことをよく感じます。

時が経つにつれて、永遠の命を獲得するのは難しいと。

なぜなら、刻一刻と、闇の勢力が優勢になっているゆえに、今、多くのクリスチャンが背信の道を歩んでいるからです。

かつての私も、そのような歩みをしていたので、偉そうなことを言える立場ではないのですが、そういった中できちんとした信仰を保ち、あらゆる敵の攻撃や危険や罠に対応できるような訓練を行い、忍耐を培っていくことの大切さについて、ますます強い確信を抱いています。

このような時代の中で、主の愛と憐れみによって、かろうじてではありますが、弟子の歩みをして主の御言葉にとどまっていられることは、ある意味、主の奇蹟の御業と言っても言いすぎではないように思います。

しかし、そうではあっても、少しの油断や一歩踏み外すと、本日の箇所に書かれているようなことにあっという間に陥ってしまう可能性はいつでもあり得るので、気を付けていきたいと思いました。

本日も、執筆しながらも主が大切なことを語ってくださり感謝でした。

ますます主を恐れてへりくだって歩んでいかれたらと改めて決意させていただき、感謝です。

主に栄光がありますように。