聖書箇所 ローマ人への手紙3:3,4

 

3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。

 

「神の言葉を信じる」というテーマに沿ってみていきたいと思います。

 

順にみていきます。

 

3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

ここに書かかれている「不真実な者」を英語では「their unbelief」と書かれていて、つまり、「不信仰な者」と訳すことが出来ます。

ここで言われている、不信仰ということについて、少し話をさせていただきたいと思います。

不信仰とは、神様の言葉を信じないことです。

そして、不信仰がもたらす結論は滅びです。

旧約の神の民、多くのイスラエル人、今で言う、クリスチャンは不信のゆえに約束の地に入ることが出来ませんでした。

不信に不信を重ねた結果、バビロンに捕らえ移され、滅ぼされてしまいました。

このことが旧約の神の民だけに終わるのならいいのですが、聖書をよく読むと、旧約時代に起きた出来事は新約時代の予表、しかも、旧約の時に起きたことはシンクロナイズしていますので、今の時代、世の終わりを生きる私たちにも再び起こり得るであろう事柄だと考えるのが正しいと思います。

すなわち、新約時代も、約束の地である、天の御国を受け継ぐことの出来ないクリスチャンが続出するのではないかと思われます。

何を申し上げたいのかと言うと、今の時代も、不信仰に陥り続けるなら・・・つまり、御言葉をどこまでも信じないのなら、行わないのなら、神様の怒りを買い、それだけでなく、滅んでしまうということです。

 

次をみます。

3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。

ここでは、神が真実なお方であることを言われています。

「神は真実な方」とは、更に分かりやすく言うと・・・言葉は神であったと言われているように、御言葉には間違いが無い、どんなに時代を経ても、この先、何十年、何百年、あるいは何千年経っても、何ら変わることがないということです。

「天地が滅んでも私のことばは決して滅びることがない」という御言葉がそのことを見事に証しています。

ただ、世の中をはじめ、キリスト教界の教理や人の思いや考えは、時代と共に変わっていきます。

しかも、時を経るにつれて、悪い方向に変わっていくというのが、聖書で言われていることです。

このことに関しては、機会がありましたら、詳しく、触れてみたいと思います。

それはともかく、「すべての人を偽り者としても」という言葉に着目してみてください。

「偽り者」というと、偽善者とか嘘つきとか、そんなことをイメージしますが、神様が完全なお方、それに比べて私たちは単なる人に過ぎない者であるという風に考えてみると、「すべての人が不完全だとしても」というようなニュアンスがあるように思います。(これは、合っているかは分かりませんが、そのように読んだほうが、分かりやすいように思いましたので、そんな風に書いてみました)

不完全であるがゆえに、私たちは、往々にして間違えることがあります。

たとえば、Ⅰコリント人への手紙には、このような御言葉があります。

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」

この言葉は、御存知の方が多いのではないでしょうか。

実は最近の礼拝の中で学んだのですが「愛は決して絶えることがありません」というところをkjv訳でみると、「愛は決して失敗することがない」と書かれているそうです。

預言の賜物は、すたれるとか、異言ならやむとは、これらのものには、失敗がつきものであるということを言われているのです。

つまり、人が語る預言やメッセージは、必ずしも、いつも完全なものとは限らない、時に失敗をする、と、そんな風に理解出来ます。

そう、人は間違えたり、失敗をしたりします。

でも、愛には失敗が無いように、すべての御言葉は完璧です。

なぜなら、愛=神様=御言葉だからです。

もちろん、第一義的な意味合いとして、神様を愛すること、人を愛することは大切ですが、「愛」ということに関して、御言葉は完全であると・・・そんなことも語っておられるのではないかと思います。

以前、私が洗礼を受けた教会の牧師がこのようなことをおっしゃっていました。

「人は約束を破ったり、時として裏切ったりします。でも、神様は、すべての約束を守ってくださいます。だから、人を見て失望しないでください。どこまでも神様を見上げて、御言葉を信じてください」と。

そのことには、私自身、色々と頷くものがありました。

確かに、自分自身、人との約束を果たせなかったり、やむを得ず、人を捨ててしまうことがあるなぁと。

我が身を振り返ってもそうなのですから、人は、なおさらのこと、そうなのではないかと思います。

つまり、この地上のどこを探しても、完全なものは存在しない、そんな風に言えるのではないかと思います。

でも、すべての御言葉は完全です。

ゆえに、たとえ、人が失敗したり、間違えたりしたとしても、失望することは何も無いのです。

ただ、残念なことに、今、キリスト教界をはじめ、多くのクリスチャンは神である御言葉を信じない方向に進んでいるように思います。

たとえば、クリスチャンは艱難の前に挙げられるとは聖書のどこにも書いていないことや艱難時代のための備えの必要性について聖書の御言葉から話をさせていただいているのですが、まともに相手にしてくださる方は、現実、とても少ないです。

聖書には「かつてもなく、今後もないような、ひどい苦難の時がある」とはっきりと書かれているのですが、鼻であしらわなくとも、耳を傾けてくださる方は稀なのが事実です。

でも、御言葉だけをどこまでも真実として歩んでいくことに大きなポイントがあります。

そのために、聖書の御言葉を日頃から熱心に読んでいきたいと思います。

そのことをぜひ、習慣にしていきたいと思います。

聖書がどのように語っているか?を自分自身の目できちんと確認していきたいと思います。

先に申し上げましたように、聖書の言葉を正しく理解して、時代をきちんと把握していくなら、艱難時代が訪れます。

艱難時代は、正しいクリスチャンが苦難に会う時ではありますが、多くのクリスチャンがふるいにかけられる、つまり、信仰の真価を問われ、それによって永遠の命を得るか否かの区分が成されるべく試験のような時でもあります。

そのような時に、御言葉をきちんと握っているかどうかが、キーになっていくと思います。

そして、御言葉にきちんとついていくときに、不信仰をはじめ、あらとあらゆる試練や困難や苦難からも守られていきます。

 

そのことに関連して少し証をさせていただきます。

最近、私は、アメリカやカナダで建設されている強制収容所のことを知りました。

実は、もう、10年ほど前から、このことは着々と進められていて、今も、尚、強制収容所、及び、棺桶の数は増え続けているそうです。

強制収容所は、テロリストを監禁するところではなく、正しく御言葉につくクリスチャンを拘束、あるいは、死刑に処する場所として設置されています。

写真やYou Tubeの映像を目の当たりにして、正直、少し、怯みました。

恐れ、おののき、臆する思いが、私の心をしばらくの間、支配しました。

でも、しばらくして、「私の忍耐についてのことばを守ったから、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」という御言葉が与えられ、それこそ、一瞬にして、心の内側が平安で満たされました。

最悪、逮捕されたり、死罪に引き渡されたりするかも知れない、でも、どこまでも、神様の言葉を信じていこうと思った瞬間に、すべての思い煩いや不安から解放されていきました。

その時に、つくづく、御言葉は真実だなぁと思いました。

「主に信頼する者は失望することはない」とか、「勝ち得てなおかつ、余りがある」という御言葉がありますが、まさに、その通りだなぁと思いました。

 

ですので、繰り返すようですが、神である御言葉だけを全面的に益々信頼していきたいと思います。

御言葉に「希望は失望に終わることがない」とも言われていますので、どのような時においても、御言葉だけに期待をして、望みをおいていきたいと思います。