聖書箇所 ローマ人への手紙6:13

 

6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

ローマ人の手紙の中では、「罪」について繰り返し語られています。

この章においても「罪」という言葉が度々出てきます。

本日の節にも「罪」という言葉が使われています。

 

この箇所だけを読むと今ひとつピンと来ないかも知れませんが、聖書で言う「罪」とは、法律に関わることのみではありません。

窃盗、殺人等は確かに罪ですし、法律を犯すなら、場合によっては無期懲役や死刑に処せられてしまいます。

ですので、もちろん、このような罪は犯すべきではありません。

しかし、聖書では、「罪」のことを「肉」とも言っているのをご存知でしょうか。

分かりづらいかも知れませんが、「肉」とは、生まれつきのものを指します。

能力、性質等、もともとの生まれ持ったものは、神様の前には、すべて「肉」、すなわち「罪」と見なされます。

たとえ、どんなにそれが良いものであったとしても、人よりも秀でたものであったとしてもです。

4節を見てみると、少し分かりやすいかも知れません。

 

参照 ローマ人への手紙6:4

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

 

「キリストの死」とは、「十字架の死」のことです。

イエス様は十字架上で私たちの罪を負ってくださいました。

つまり、私たちがクリスチャンになるということは、私たちの肉なるもの、良いものもそうでないものもすべて十字架に付けていくのです。

そうしていくなら、「肉」、すなわち「罪」は死んだ状態になるのです。

そして、キリストの復活の力によって歩んでいくようになれるのです。

 

さて、少し回りくどくなってしまいましたが、本題に入りたいと思います。

13節で言われていることは、私たちが神様にお仕えしていくときに、「義の器」として捧げていく必要があります。

このことはレムナントキリスト教会の礼拝の中で学んだことですが、聖霊の働きは「器」を通してなされます。

その際に、ここに書かれているように、神様の前に「不義の器」として捧げることは出来ません。

もし、私たちが、不義の器として自分自身を捧げるなら残念ながら神様に受け入れていただくことは出来ません。

そこには、聖霊の働く余地が無いということを、ここでは言われているのです。

具体的には、先ほども話をしましたように、人間的な能力や思いや考えによって働きを進めようとしても、たとえ、それがどんなに素晴らしいものであったとしても、神様に喜んでいただくことは出来ません。

たとえば、論文を執筆する能力に長けていたとしても、それのみに拠り頼んで証やメッセージを執筆するなら、どこまでも、人間的なものにしか過ぎません。

いくら表現力が豊かで、読みやすい文章であっても、そこにイエス様の復活の力、すなわち、聖霊の力が注がれていないのなら、空しいものになっています。

また、そういった働きは、霊的に人を助けたり養ったりすることも出来ません。

本人は一生懸命行っているつもりでも、神様が受け入れてくださらないのなら、そのような結果を招いてしまいます。

ですから、私たちは、神様の働きを担うときに、よくよく注意しなければいけません。

「義の器」として捧げることにどこまでもポイントがあることをぜひ、御理解ください。

生まれつきの良いものも、そうでないものも、すべて神様に捧げていくときに、私たちは神様の前に「きよい器」、「義の器」として見なしていただけます。

具体的には、いつも申し上げているように、「全焼のいけにえ」を捧げることです。

祈って、聖霊の働きを求めていくことにポイントがあります。

そのことを神様の前に忠実に行って働きをしていくときに、聖霊が私たちの内に働いてくださいます。

そして、「義の器」として用いられていくときに、他の人々も、聖霊の力に触れていくようになります。

聖霊の力に触れていくことによって、人に霊的な助けや益を与えたり、たてあげていくようにもなります。

繰り返しますが、神様に仕えていくためのポイントは、私たちの人間的な思いや考え、はたまた良いものであっても能力や性質に死んでいかなければいけないのです。

人の生まれつきの性質はどうしても肉の思いや考えが強いので、人間の努力では、このようなことは難しいのですが、真剣に祈って、聖霊から力を得ていくときに、少しずつ変えられていくようになります。

ぜひ、「義の器」として、神様にお仕えしていきたいと思います。

このことは、お一人一人にとって益になるばかりではなく、周囲の人々に助けや励ましや力を与えていくものとなりますので、実践していかれることをおすすめいたします。

 

私は長い間、もともとの能力や性質に固執していました。

得意なことはほとんど何も無い、むしろ苦手なことが多い、そんな私を神様が用いるはずは無いと、そんな風に思っていました。

でも、3年ほど前からレムナントキリスト教会に行くようになり、土曜日の集会や日曜日の礼拝のメッセージで御言葉の学びをしていく中で、少しずつ考えが変えられていくようになりました。

エレミヤ牧師が特に「祈り」のことを強調しておられていて、祈っていくなら聖霊が働いてくださることを教えていただき、そのことを信じて実践していくようになりました。

前も話したかも知れませんが、私は、特に人の前に何かをするということが苦手です。

実は今でもそうなのですが、祈っていくうちに、聖霊の働きを少しずつ体験するようになり、以前に比べて、そういった思いから解放されるようになりました。

証やメッセージの訓練や預言をする時に、霊的な圧迫を強く感じていたのですが、そのことからも、大分解放されていくようになりました。

生まれつきの性質に頼っていたら、奉仕は何も進まなかったと思いますが、祈って求めていくことを信じて、実践しただけに過ぎないのですが、自分自身のことながら、実態を目の当たりにするようになりました。

霊的な圧迫もそうですが、思索感情や否定的な思いをはじめ、色々と解放されたり変えられたりしました。

もちろん、まだまだ、変えられなければならないことはありますが、そのことがひとつのきっかけとなり、次へのステップにもなっていき、感謝でした。

これからも、神様の前に「義の器」として、わずかでも用いられるように、祈り求めていきたいと思います。

本日も主が、つたないしもべを通して、大切なポイントを語ってくださり、感謝でした。

主に栄光を帰します。