聖書箇所 ローマ人への手紙9:21

 

9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

世の中には、茶碗や湯呑み等、私たちが食事やお茶を飲むときに便利な器が数多くあります。

これらの器は陶器師によって作られます。

そして、陶器を作る人は茶碗だけとか、小皿だけとか、そんな風に作るものを限定せずに、それぞれの用途にふさわしい器を種類多く作ります。

そうすることによって、家庭用、飲食店用、展示用等、それぞれの用途に合わせて消費者は購入することが可能となります。

 

さて、聖書で言われていることも、そのようなことを語っています。

クリスチャンは器にたとえられています。

そして、神様の働きは器、つまり働き人を通してなされます。

また、うどんやそばを食べる時には、麺用の器が使われるように、器であるクリスチャンもそれぞれの働きは異なります。

皆が皆、同じ働きをするかというと、そうではないのです。

たとえば、教えや知恵、知識の賜物が与えられている人はメッセージや伝道をしますし、預言の賜物が顕著に現れている人は預言をしますし、癒しの賜物が与えられている人はそれを用います。

教会のお一人一人は体の各器官にたとえられていますが、それぞれが与えられた賜物を用いて神様にお仕えしていきます。

そうすることによって、キリストの体である教会が次第に建て上げられていくわけです。

各自の働きは、陶器を作る者、すなわち、イエス様によって、決められています。

参照 ローマ人への手紙11:29

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」

ですから、私たちが神様にお仕えしていくときに、与えられている賜物を正しく用いて、召命に背かずに働きを担っていくことはとても大切なことなのです。

 

ところで、ここに、「尊いことに用いる器」と「つまらないものに用いる器」とが、対比して書かれています。

もちろん、つまらないものよりも尊いほうが当然いいわけですよね。

ちなみに、日本語だと少し分かりづらいので、英語訳を参照してみました。

尊いとは「名誉」、つまらないとは「不名誉」と書かれてありました。

つまり、神様の目から見て、名誉なクリスチャンと不名誉なクリスチャンがいるということをここでは言われているのです。

先ほど、神様の働きは器を通してなされると話をしましたが、残念ながら、不名誉だと、働きを担うことは難しいと思います。

箴言にこのような御言葉があります。

「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」

ここに書かれている「悪者」とは、未信者のことを指すのかも知れませんが、クリスチャンのことも言われているのではないかと思います。

ですから、名誉を受けるクリスチャンもいる一方で、神様の目から見て不名誉と言われる類のクリスチャンがいることが理解できるのではないでしょうか。

神様から誉れを受けるクリスチャンは、おおよそ、お分かりかと思いますが、私たちが神様から無用と言われないクリスチャンになるために、不名誉なクリスチャンについてみていきたいと思います。

不名誉なクリスチャンとは、概ね、このような人のことを言われているのではないでしょうか。

第一に御言葉を行わない人です。

たとえば、人を裁いてはいけないと聖書に書かれているのですが、しょっちゅう人の悪口を言ったり、批難や中傷をしたりして、それでもなおかつ、全く悔い改める素振りの無い人は、御言葉を守っていないし行っていないと言えるのではないでしょうか。

もちろん、私も罪を持った人間に過ぎないので、時として、人に対して苦い思いや嫌な感情を持つことがあります。

でも、いつまでもそのようなことに固執するのは、神様が決して喜ばれないことなので、そういった思いが消えるようにすぐに祈り、悔い改めていくように心がけています。

第二に祈らない、御言葉に触れない人のことを言われていると思います。

教会に行き、熱心に礼拝を捧げ、奉仕はしているのだけれども、ほとんど祈りもせず、聖書を読まない人のことです。

少しキツイ言い方で恐縮なのですが、その結果として、世の中の人とあまり変わらない生活を送ることになります。

祈らなければ、当然、聖霊の働きは期待できませんし、御言葉を読まなければ神様の御心を理解することは出来ません。

すると・・・毎週欠かさずに礼拝に出席して、多くの奉仕に費やしたとしても、残念ながら、神様の前に、どれもこれもが的外れになってしまいます。

私自身が、身をもってこのことは体験しているので、このようなことが言えるのです。

かつての私は、礼拝に行きながらも、お祈りや御言葉を読むことをほとんどしていませんでしたので、神様の御心とは似ても似つかない信仰生活を送っていました。

その結果として、教会を離れると、実質は、この世の人と、ほとんど変わらない思考パターン、生活パターンでした。

ごく、たまに祈ることがありました。

しかし、自己都合のお祈り、たとえば、暮らしの向き等についてのお祈りでしたので、聞いてもらえるどころか、神様の怒りを招いていたように思います。

奉仕も多少なりともしていたのですが、的外れなものばかりだったので、ほとんど実を結ぶことはありませんでした。

その時は、その時で、それなりに一生懸命に行っていたつもりでしたが、今にして思うと、空しいクリスチャン生活だったなぁ、まさに、ここで言われている「不名誉な器」だったと思います。

 

「不名誉」ということについて、そのほかにも、挙げ出したらキリが無いと思うのですが、一言で言うなら、「不信仰」という言葉に尽きるのではないかと思います。

もし、すべての御言葉を信じているのなら、実践できるように祈り求めていくでしょうし、そういった流れの中で御心を行うようになり、自ずと実を結ばせていくようになるからです。

次の御言葉がそのことを証しているのではないでしょうか。

参照 ルカ8:15

「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」

つまり、名誉な器とは、こういう人のことを言われているのではないかと思います。

御言葉を聞いて守り、忍耐を持って実践して、実を結ばせていく人のことです。

もし、私たちが、そのような歩みを自らの意志で選択していくのなら、名誉な器として、主に用いられるようになっていきます。

はじめから、うまくいかないかも知れません。

思うように、御言葉を実践できないかも知れません。

でも・・・失敗を繰り返しながらも、神様に祈っていくときに、神様の不思議な助けや力や知恵や導きによって、次第に名誉な器に建てあげられていくようになります。

すなわち、名誉な器になるためには、単純に不名誉な器の逆を実践していけばよいのです。

御言葉を聞くだけでなく、実践していくこと、そのために、日々、祈り、御言葉を読んでいくことです。

聖書を通読していくときに、全体の流れを掴んでいくようになります。

余談ではありますが、こういったことを通して、キリスト教界やクリスチャンが、これから、どんな時代に入り、何が起きてくるのか、そういったことまでも、把握できるようになっていきます。

そして、そのようなことを周囲の人たちにもお伝えしていかれるようにもなります。

はじめに、賜物や召命はそれぞれ違うということについて話をさせていただきましたが、御霊はひとつですので、働きはそれぞれであっても、示される方向や向かう方向というのは、ほぼ、同じと思ってよいと思います。

 

名誉な器に建てあげられていくことに関して、もう1つ話をさせていただけると幸いです。

御言葉を実践すると言う点について、先ほど宣べましたが、このことは、弟子の歩みに通じることです。

つまり、名誉な器=弟子の歩みの人と、そんな風に私は理解しています。

このことは、実際に弟子として歩んでみないと、それにあずかる恵みや祝福というのは体験出来ません。

しかし、神様の前に、弟子として歩んでいくことを決意して表明していくのであれば、この時代の働きを担うようになっていきます。

ですので、ぜひ、神様の働きを担っていかれる「名誉な器」を目指していきたいと思います。

残念ながら、今の時代、クリスチャンの背教のため、どちらかと言うと、「不名誉な器」のほうが、圧倒的な人数と言えるかも知れません。

しかし、私たちにあっては、神様の名誉な器となり、この世においても、後の世においても、神様からの栄誉を受けるような働きや歩みに徹していきたいと思います。

 

神様の前に名誉な器となるために、今でも、弟子として歩ませていただき、早、3年が経ちました。

今もそうなんですけど、正直、失敗を繰り返しながら・・・と、いう歩みです。

でも、主のしもべとしての歩みをするようになってから、御言葉に書かれているように、倒れたり倒されたりすることがあってもストレートに倒れるということが随分減ってきたように思います。

また、教会で共に弟子の歩みをしている兄弟姉妹と働きを担っていく中で、実を見させていただけるようにもなりました。

結ぶか否かは別として、真理を見る方々がおこされていくのを目の当たりにして、とても、励まされたり、喜びに満たされたりする機会が増えました。

曲がりなりにも、弟子の歩みに入らせていただき、聖霊さまの力によって少しでも御言葉を実践させていただけるようになり、多くの恵みや祝福に満たされた日々を送らせていただいています。

一歩踏み出すのには、決意や勇気がいるかも知れませんが、こんな私でも、主が支えてくださり、歩ませてくださっていますので、ぜひ、この文章を読まれているあなたさまにも、おすすめしたいです。

これからも、色々と、試みがあり、時には、倒れてしまうことがあるかも知れませんが、主にひたすら助けを求めて、ひとつひとつのことに、勝利できるようになれたらなぁと思います。

本日も主が大切なポイントを語ってくださり、感謝でした。

主に栄光を帰します。