聖書箇所 ローマ人への手紙9:33

 

9:33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 

「主の御心を行う」というテーマに沿ってご一緒に学んでいきたいと思います。

 

「つまずきの石」とか「妨げの岩」とは、イエス・キリスト、すなわち、御言葉のことを指します。

イエス様自身が「わたしにつまずかない者は幸いです」と、そんな風に言われているからです。

主がなぜ、このようなことを、あえて言われたのか、考えてみたいと思います。

クリスチャンでしたら、聖書の御言葉に触れる機会は度々あると思います。

聖書を読んだり、メッセージを聞いたりして、御言葉を学びます。

それは、それで、尊いことではあります。

しかし、そうではあっても、御言葉につまずくということがあるから、このように主は語っているのです。

まさに、今で言えば、牧師や教師の立場である律法学者やパリサイ人が、御言葉であるイエス・キリストにつまずいて・・・

イエス・キリストを目の当たりにしながらも、真理と受け入れられずに、あろうことか、十字架につけて殺してしまったのです。

なぜ、そんな過ちを犯してしまったのでしょうか?

このことは真剣に考えるべきなのです。

なぜなら、今の時代にも、同じことが再現しつつあるからです。

彼らがそんな風に御言葉につまずいたことは、イエス様の時代に終わるのではなく、今の時代も、これから多くのクリスチャンが御言葉につまずくであろうという予表なのです。

旧約の終わり、イエス様は、私たちの罪の贖いのために来られました。

しかし、祭司長、律法学者をはじめとする多くのユダヤ人は、見事に失敗しました。

先にも申し上げましたように、すぐ目の前にイエス・キリストを見ながらも、救い主と認めることも受け入れることも出来なかったのです。

さて、世の終わり、今度はクリスチャンの救いのために、イエス様は再臨なさいます。

もちろん、再臨は、これからですので、まだ、誰も体験しているわけではありません。

ただ、私たちクリスチャンが再臨に関して、どんな風に認識しているかどうか?それによって、初降臨を弟子たちのように正しく受け入れた人とそうでない人とが二分されてしまったように、正しく再臨に対応できる人とそうでない人とに区分されてしまうのです。

何を申し上げたいのかと言うと、必ずしも、すべてのクリスチャンにとって再臨はハッピーなのではなく、悲劇の時になる人たちもいるということです。

いいえ、もしかすると、そんな人たちのほうが多いのかも知れません。

世の終わりは、ノアやロトの時代とも言われていますので・・・

回りくどくなりましたが、もし、今の時代に、御言葉につまずいているようであれば、再臨の主に正しくまみえるのは、難しいと思います。

たとえば、地獄は無いとか、煉獄があるから今の時代は、まあまあ、そこそこ歩んでいれば大丈夫、そこで回心すれば、やり直せるとか、はたまた、クリスチャンは艱難を通らずに携挙があるから備えは不要等の、もし、御言葉に書かれていないような教えを盲信してクリスチャン生活を送っているのでしたら・・・すでに、もう、御言葉につまずいていると、そんな風に言えるのではないでしょうか。

ですから、私たちは、御言葉と正面から向き合っていかなければいけません。

正しく、真理を見なければいけません。

なおかつ、悟っていかなければいけません。

そうでないと、永遠のいのちから見事にズレてしまうからです。

ところで、こんな御言葉があります。

これも、イエス様がおっしゃったことです。

「あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」とか、「彼らは言うだけで実行しないから」と。

ここのところから、つまずかないためのヒントを見出すことができます。

神様が言われていることをきちんと行っていくことにポイントがあるのです。

歩みに関して、働きに関して、示されていることを素直に行っていくことです。

ダビデもその時代の神の働きを担って先祖の墓(天の御国)に葬られたことについて書かれていますが、そのように、私たちも主が今の時代に語られていることを担っていくことに御心があります。

さっきも話をしましたが、今は、地獄が無いだの、艱難は通らないだのと、聖書に書かれていないような、とんでもない教理がまかり通っている時代であります。

でも、それでいいのか?と、いうと、そうではありません。

そういった間違えた教えに関して、正しい方向を示す働きをしていく時なのです。

今、礼拝の中で、エズラ記やネヘミヤ記を通して、そういったことについて学んでいるのですが、今の時代は、まさに、教理や霊的な事柄に関する回復の働きを成されていかなければいけないのです。

そのように、神様が示されていることに応答していくことにポイントがあるのです。

正しい教理に関することを語り、そして、こういった働きに関して呼びかけをしているのですが、残念ながら、なかなか素直に応答する人は非常に、少ない、いえ、ごく稀です。

礼拝だけでなく、セミナー、インターネット、ニュースレター等を通しても、こういったことをお伝えしているので、多くの人々の目や耳には触れているはずなのですが、現実、耳を傾ける人はとても少ないということです。

イザヤ書にもこんな御言葉がありますよね。

「あなたがたは、確かに聞きはするが決して悟らない。確かに見てはいるが決してわからない」と。

つまり、頑なになって、主の声に応答していかないと盲目になっていってしまうことを言われているのです。

また、御心を行わないときに、クリスチャンとしての恥を受けてしまいます。

ネヘミヤ記でも、「異邦人からのそしりを受けないために」なんてことが書かれていますけど、敵からの攻撃や妨害が赦され、思索感情をはじめ、ありとあらゆる点において、敵が簡単に侵入するようになってしまうのです。

そう、クリスチャンと称しながらも、罪の奴隷になってしまうなら、敵、すなわち、異邦人から、そしりを受けてしまうのです。

御言葉を聞いても行わないというのは、ある意味、罪の奴隷状態とも言えるので、気をつけていきたいと思います。

しかし、ペテロやヨハネをはじめとする弟子たちや、パウロのように、忠実に御言葉を守って、行っていくなら、神様からの誉れを受けますし、この世にあっても、恵みや祝福を受けるようになります。

なおかつ、御言葉につまずくことなく、霊的に正しいとらえをしていけるようにもなりますので、ぜひ、おすすめいたします。

こういう点についても、正しくとらえていただけたらと思います。

 

私自身の体験ですが、御言葉に背いているときに、内側に喜びや平安を見出したことは、今まで、ただの一度もありませんでした。

常に、心の中は恐れとおののきと不安とでいっぱいでした。

また、主から悔い改めを促されていることに反発をしているときには、災いやトラブルが絶えませんでした。

これが、まさに、聖書の原則なんだなぁと、失敗を通して、身につまされて感じました。

私は、長い間、ある罪に束縛されていました。

当然のことではありますが、先に申し上げましたように、主にある喜びや平安を失っていました。

でも、その罪から解放されるように祈り求めていったときに、聖霊の力によって、少しずつ解放され、喜びや平安を取り戻すことができました。

その時・・・御言葉を実践していくときに、恵みや祝福があるのだなぁということを改めて理解しました。

御言葉にも、「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある」とありますけど、自分のつたない体験を通して、そのことは真実だなぁと、うなずくものがありました。

聖書には、いろーんな戒めが書かれていますけど、戒めを守ることが神様を愛することだという風にも教えていただいていますので、そのことにとどまっていかれたらと思います。

主は愛のお方ですので、私たちが、間違えたときに必ず示してくださいますので、時を移さずに、素直に悔い改めていくように心がけていきたいという思いも、本日のメッセージを通して、与えられ、感謝でした。

主に栄光を帰し、感謝して。