聖書箇所 ローマ人への手紙11:7,8

 

11:7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。

11:8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

メッセージの前に、英語訳を少しみたいと思います。

この箇所は英語ではこんな風に表現されています。

 

11:7 What then? The people of Israel did not find what they were looking for. It was only the small group that God chose who found it; the rest grew deaf to God's call.

11:8 As the scripture says, "God made their minds and hearts dull; to this very day they cannot see or hear."

 

「イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。」の部分を見ると・・・完全に当たっているかは分かりませんが、「人々が耳を傾けなかったものを小さな群れは見つけました、しかし、イスラエルはそれを見出すことは出来ませんでした」という風に読み取れます。

イスラエルとは、今で言うクリスチャンのことです。

クリスチャンは何を見出すことが出来なかったのでしょうか。

それは、真理の光のことです。

クリスチャンと呼ばれる人々が、なぜ、真理の光を見ることが出来なかったのでしょうか。

それは、ここに書かれているように、神様の語る声に耳を貸そうとしなかったからです。

選ばれた者、すなわち、神様が言われることに耳を傾けたわずかの人々は、見事に見出すことが出来ました。

いかがでしょうか。

このことに何か語りかけを感じないでしょうか?

神様が語っていることを素直に聞こうとするかどうかによって、大きく結論が変わってくるのです。

一方はきちんと聞いて理解します。

しかし、聞く気が無いなら、真理を見ることは皆無なのです。

この区分は、とてもはっきりしています。

結論が大きく変わるということについて、具体的には、こんなことが挙げられるのではないでしょうか。

かつての私もその一人でしたが、今、多くのクリスチャンは艱難を通らずに、その前に天に挙げられる、だから艱難のために備える必要は無いと。

これって人受けもしますし、とても耳障りの良い教理です。

でも、御言葉は、「かつてもなく今後も無いようなひどい苦難の時がある」と言っています。

ですから、当レムナントキリスト教会では、艱難前・中携挙説が誤りであるということについて角笛を吹き鳴らしています。

しかし、残念ながら耳を傾ける人は、ほとんどいません。

もし、このことを真面目にとらえるなら、艱難のための備えをするのではないでしょうか?

これは、ほんの一例ですが、そんな風に真理から外れていくときに、備えるべきなのに備えをすることなく、とんでもない方向へ引っ張られてしまうのです。

単に備えずに、それで済むのならいいのですが・・・確かにこの地上ではそれで済むのかも知れません。

ところが、いざ、キリストが再臨したときに、どうなるでしょうか?

艱難の前に来るはずのキリストが、携挙されることもなく、突然の再臨となり、思い描いていたことと全く違うことになってしまったということにならないでしょうか。

そして、結果として、その時には、主からの叱責や御怒り、すなわち、裁きを招くことにはならないでしょうか。

ですから、真理を見出すか否かというのは、後の世における区分をもたらすものであることを、くれぐれも理解して歩んでいかなければならないのです。

そして、真理を見出さなかった人々は、神様にどんな風にされてしまうかと言うと、それについては8節に書かれています。

"God made their minds and hearts dull; to this very day they cannot see or hear."と書かれているのですが、これをそのまま訳すと「神は彼らに見ることも聞くことも出来ない鈍い心を作った、今日に至るまで」となります。

真理を見出さない人々、耳を傾けない人々に、神様がそのような心を作ってしまうのです。

とても恐ろしいことではないでしょうか。

正しい教えを聞きながら、それでも、「クリスチャンが艱難を通るなんて絶対に信じない!何が何でも、艱難前の携挙を信じる!」と、そんな風に心を閉ざすなら、神様の手によって、霊的に正しく見ることも聞くことも出来ない心に作られてしまう、そういったことを言われているのです。

しかも、「今日に至るまで」とありますように、その当時の人だけでなく、今の時代のクリスチャンにも、そのことは当てはまるのです。

このことは、厳粛に受け止めなければいけません。

霊的に正しく見ることも聞くことも出来ないというのは、分かりやすく言うなら、惑わされるということです。

しかも、神様によって、惑わされたら、どうにもこうにも逃げようがありません。

聖書のどこかにも書かれていますように生ける神の手に陥るのは恐ろしいとあるのですが、悪い意味合いでこのことが実現してしまったらとても大変なことです。

ですから、御声を聞いたときには、決して心を閉ざすことなく、頑なにすることなく、素直に聞いていきたいと思います。

レムナントキリスト教会では、今のキリスト教界で言われているおかしな教理について御言葉からきちんと説明しているのですが、残念ながら、素直に聞いてくださる方は、なかなかいません。

7節に真理を見出したのは、「small groupと書かれていますようにこの御言葉は、実際に真理に耳を傾ける人、見出す人は、本当に少ないということを見事にあらわしていると思います。

しかし、見えないのでも聞こえないのでもなく、真理を見聞きしていくことが出来るように、神様の前に心を低くして祈り求めていきたいと思います。

聞こうと、見ようとする人には、神様が憐れんでくださって、目や耳を開いてくださいます。

たとえ、多くの人が真理を見ない、聞かない、そんな状況であっても、見るべきものをしっかりと見ていきたいと思います。

そうでないと、神様によって、目しい、耳しいにさせられてしまいますので・・・

また、きちんと見て、聞いていくときに時代を区分する力が与えられたり、他の見えない人たちに正しい方向を示すような働きを担っていくようにもなりますので、ぜひ、おすすめいたします。

 

私自身も神様の憐れみによって、わずかではありますが、真理を見させていただいています。

ですから、おこがましくも、このように申し上げることが出来るのですが・・・

心を頑なにしている人々に、神様が介入する余地が無いということについて、よーく分かるのです。

箴言の御言葉に、こんな風に書かれているのですが・・・

「反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい」と。

この御言葉が言っているように、そういう人に真理を語っても、すべて反発してくるので、いつしか、近づきたくなくなってしまうという体験は、私自身も何度かしています。

ですので、神様が鈍い心を作られるというのは、分からなくもないです。

それは、真理を見ているから偉そうに申し上げているのではなく、本当にそうだなぁと、理屈ぬきに心から同調出来るのです。

なので、自分自身もこのようなことから教訓を得て、そんな風にならないように御声に絶えず応答していくことは大切だなぁと、思います。

頑なな人には、もともとの罪を持った人ですら介入出来ないのですから、まして、聖である神様は、もっと、そうなのではないかと思います。

本日のメッセージを通して、自分自身も注意しながら、一人でも多くの人が、神様の声に耳を傾けられますよう、お祈りしていきたいという思いが与えられて感謝でした。

今日も主が大切なことを語った主に栄光がありますように。