聖書箇所 ローマ人への手紙13:13

 

13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

 

「罪を捨てる」というテーマで、御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

世の中において・・・私たちは、夜がきて、朝を迎えるという生活を繰り返しています。

さて、キリスト教界においても、夜と朝があります。

新約の世の終わり、私たちは、夜と朝のどちらで生活しているのでしょうか?

霊的に言うなら、今は、まさに、夜です。

目に見えることは、ともかく、霊的に時代を見分けるなら、夜なのです。

もっと言うなら、クリスチャンであっても、あらゆる罪に陥りやすい時なのです。

はっきりと言うなら、多くの人たちが、罪のゆえに、永遠のいのちを失う時でもあるのです。

 

ところで、クリスチャンでしたら、誰もが、天の御国をゲットしたいと思われていると思います。

そんなことを言っている私も、その一人であります。

ただ、だからと言って、実際にゲットできるかどうかは、別のことです。

何かのトラクトか本で読んだことですが、「神様の前に、罪を持ったままだと、天国に入ることはできません。天国は、きよい心の人しか入れません」ということを目にしたことがあります。

もちろん、人は過ちや間違いを犯しやすいので、罪がまったく消えるということは無いのですが、だからと言って、放置したままでよいというと、そうではありません。

今の時代、罪を悔い改めなくても、野放図にしていても、クリスチャンと名前が付いているなら、はたまた、洗礼を受けているのなら、あるいは毎週礼拝に行っているのなら大丈夫という風潮がキリスト教界全体を覆っていて、「罪を悔い改める」ということに関して、希薄になっているように思うのは気のせいでしょうか。

罪を悔い改めるということに関して、真剣に向き合い、そのことをきちんとなせるように神様に祈り求めていくことは、とても大切なことだと思うのですがいかがでしょうか。

もし、罪をなおざりにしたままだと、その結果、どうなるのかというと・・・死後、さばかれ、永遠の刑罰を受けることになります。

そう、「やみのわざ」とは、まさに、「罪」のことを指すのです。

「罪」とは、原語では、「的外れ」のことを指します。

なぜ、「的外れ」になるのかというと、聖書に書かれている御言葉を実践しないからです。

個々におけるお一人一人が、意識されているかどうかはともかく、神様が言われていることよりも、自分の思いや考えを優先する道、ゆえに、神様が備えている道とまったく違う方向を歩んでいる人があまりにも多いのではないでしょうか。

過去の私も、そんな一人でしたし、今でも、罪のゆえに、主の道からそれてしまうことはあります。

ただ、そうではあっても、このことに関して、主からの語りかけを受けていますので、話をさせていただきます。

自分自身が体験したことですが、「罪」を放置したままだと、真理に覆いが、かかってしまい、霊的に正しいことが見えなくなってしまいます。

私自身の証ですが、いくつかの「罪」を主に示されたことがありました。

その中のひとつに、弟子として歩んでいるにもかかわらず、世にもついているということを示されました。

自分では自覚はなかったのですが、ある人を通して、指摘を受けました。

その時点では、ピンと来なかったのですが・・・よくよく、御言葉と照らし合わせてみましたら、本当にそうでした。

そして、聖霊様に憐れみと助けを求めて、すぐに悔い改めました。

その結果、神様よりも、世の中のほうを選んでいたことや、惑わされていたことが分かりました。

悔い改めるまでは、気がつかなかったことでした。

これは、ほんの一例です。

そのほかにも、そして、今でも、その都度、主は悔い改めを促されます。

そんな時に、主の声に従うか、それとも、そうでないかの選択あり・・・しかし、不承不承であっても、あまり納得ができなくても、あるいは、どんなに些細なことであっても悔い改めを自らの意志で選んでいくときに・・・神様からの助けや憐れみを、そのたびに実感させていただいています。

また、「罪」を持ったままだと、神様との間に平安を保つことはできません。

当然のことながら、主にある喜びもありません。

ですので、何らかの方法で、罪の示しを受けたときには、悔い改めていくようにしたいと思います。

バプテスマのヨハネも、イエス様も、はたまた、12弟子の筆頭格であるペテロや使徒パウロも、「罪の悔い改め」について、再三、言われていませんでしたでしょうか。

なぜ、それほどまでに、悔い改めることが強調されているのでしょうか?

黙示録には、「熱心になって悔い改めなさい」とか、福音書では、「やみがあなたがたをおそうことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい」とか、箴言には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」というふうに書かれています。

キリスト教界において、「ありのままのあなたでいい、そのままの君が大切」とか、「神様は愛の方だから、どこまでも赦す」ということを耳にした人もいるかもしれませんが、どんな「罪」であっても、やはり、きちんと悔い改めていかなければいけません。

もし、そのようなことがまかり通るのなら、わざわざ、聖書にそんな風に書く必要はないからです。

また、敵は、私たちが悔い改めることを、ことさらに嫌がります。

悔い改めなければ、そのまま地獄へと道連れにできるのですが、悔い改めてしまうと、それが難しくなるので、何とか、悔い改めを阻止しようと、ありとあらゆる手段で妨害してきます。

だから、本日の御言葉にありますように、「打ち捨てる」ことは、大切なのです。

この言葉は、「完全に断ち切る」という風なニュアンスを感じます。

もう、二度と、同じ過ちを犯さないようにする、と、そんな強い決意を感じさせる言葉です。

もちろん、私も、すべてがうまくいくかと言うと、そうではなく、むしろ失敗の連続でした。

中には、何回と言わず、何十回、何百回と失敗をして、やっと悔い改められるものもありました。

でも、たとえそうではあっても、自分自身が切実に悔い改めを祈り求めていくなかで、神様がそのことに情けや憐れみをかけてくださり、最終的には、悔い改めていく方向へと導いていただくことができました。

特に今は、不義が義と呼ばれている時代ですので、悔い改めなんていうと、古めかしい、今の時代にそぐわないなんて、言われてしまうかも知れませんが、私たちは、世の中の風潮ではなく、御言葉によってさばかれてしまうので、こういうことに関しても、真面目に考えていきたいと思います。

悔い改めは、「方向転換」とも言われていますが、私たちは、間違いやすい存在のゆえに、このようなことを聖書は、言葉を変えながらも、繰り返し繰り返し語っているように思います。

ぜひ、主が悔い改めを語られているなぁと感じましたら、心を頑なにすることなく、素直になって、実践していきたいと思います。