聖書箇所 使徒の働き5:27-31

 

5:27 彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、

5:28 言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

5:29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。

5:30 私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。

5:31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。

 

順に見ていきます。

27節にあるように、ペテロや使徒たちは議会の中に立たされました。

議会に引き渡される前に、彼らは留置場に入れられていました。

留置場と言えば、通常、悪いことをした人たちが入れられる場所ですが、このとき彼らは御言葉を正しく語ったために、牢に拘留させられていたのです。

今のご時世では、ピンとこないことかもしれませんが、上記御言葉から、少なくともペテロの時代に福音を語るというのは、命がけでした。

28節の「あの名」とは、イエス・キリストのことです。

聖書はイエス・キリストを証する書と言われているにもかかわらず、このとき、イエスの名を使って御言葉を解き明かすことが何と禁じられていたのです。

よーく、考えてみてください。

もし、私たちが福音を語るとき、イエス・キリストの御名を抜きにありえることでしょうか。

イエス様の御降誕、公生涯で成された御業、十字架の刑、復活等、どれもこれもすべてイエス様にかかわっていることばかりです。

それにもかかわらず、イエス・キリストの御名を語らない福音など、今更想像できないのではないでしょうか。

しかし、この箇所を読むと、ペテロの時代、明らかに禁じられていたり反論があったりしたことが理解できます。

なぜ、反論されたり、禁じられたりしていたか、お分かりでしょうか。

答えは明白です。

はじめに申し上げたように、ペテロや使徒たちが語ったことは正しかったからです。

イエス・キリストのみに救いがあることを信じるなら救われるからです。

ひとりでも多くの人をゲヘナへと道連れにしたいサタンはこのことを最も忌み嫌うのです。

このままイエス・キリストの名が広まってしまったら多くの人が救われてしまう、そんなことになったら大変だ!と・・・何とか使徒たちの働きをとどめるために大祭司が神の働きを妨害する手段としてサタンによって用いられていたのです。

28節ではそのようなことを言われているのだと思います。

でも、そうだからといって、ペテロや使徒たちは、神様の働きをやめてしまったかというと、そうではありません。

たしかに、大祭司は神様の働きを担う人たちでしたし、権威ある立場の方たちでもありました。

今で言う、キリスト教界を引っ張っていく立場に置かれている人、分かりやすく言うと、キリスト教界において地位の高い教師や牧師のことを指すのではないかと思います。

いわば、権力のある人たちであると言えます。

少なくとも、このときの大祭司というのも、ペテロや使徒よりも上の立場であったと思います。

しかし、そういった人たちに対して、「人に従うより、神に従うべきです」と彼らは、はっきりと公言しました。

正しく福音を語っただけなのに逮捕されるくらいですから、こんなことは、場合によっては死刑に処せられる可能性もあったわけです。

それでも一歩も引かずにきっぱりとこのように答えた彼らの勇敢な信仰姿勢は立派だと言えますし、クリスチャンとして本来あるべき姿なのではないかと言えます。

このことはペテロたちの旧約の終わりだけではなく、世の終わりもこのことは再現すると思われます。

旧約の時代は、イエス・キリストの初降臨のことについて、論議がなされました。

そして、このことを正しく伝えたペテロや使徒たちは捕らえられたり、議論にかけられたり、迫害されたりしました。

さて、新約の時代、世の終わりは何が起こるのでしょうか。

イエス・キリストの再臨について、多くの人が間違えたとらえをするのが、終末に起こることです。

クリスチャンは艱難を通らずに携挙される、すべてのクリスチャンにとって再臨はハッピーな時であるという教えは、その代表ともいえます。

かつての私もそのひとりでしたが、ほとんどのクリスチャンがそのようなガセネタを真実だと喜んで受け入れその結果として、真理に覆いがかけられ、霊的に盲目となり、最悪、永遠の命を失うような時代です。

そのことのゆえに、多くのクリスチャンが背教に向かうことについて、聖書に前もって書かれています。

背教とは、正しく御言葉につくクリスチャンを迫害したりカルト扱いしたりすることです。

御言葉が言われていることが正しいのに、多くのクリスチャンは御言葉を行わなくなるので、御心を行うクリスチャンが変に見えてしまうのです。

御心を行わない人が正しく、行う人はおかしい、キリスト教界は明らかにそのような方向へと進んでいます。

ゆえに、イエス様の時と同様、正しく御心を行うクリスチャンが御心を行わないクリスチャンから訴えられたり、排斥されたりしていくことになるのです。

このことをきちんと理解していないと、今、起きていることや、これから起こることについてありとあらゆる混乱を招いたりつまずいたりします。

そして、少しずつ、背教は起こりつつあります。

レムナントキリスト教会では、クリスチャン向けへの警告の働きの一端を担っています。

先日、その中の一部の働きに対して、当教会は、同胞からの非難を受け、そればかりか、教会の働きを妨害される事態にまで及んでしまいました。

言葉尻をとらえて正しいことに難癖をつけ、人を貶めるような非難や中傷を浴びせながらも、妨害している当人は、そのことを正しい、それは神の働きだと思われているようで、困ったことにそのような行為が的外れなことであることを全く理解していないのです。

 

参照 ヨハネ16:1-3

16:1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。

16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。

16:3 彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。

 

参照 イザヤ書66:5

66:5 主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』しかし、彼らは恥を見る。」

 

しかし、このような忌まわしいことを悔い改めずに続けていくならば、明らかに、神様の御怒りの裁きを招いてしまいます。

こういったことは、まさに、背教の発端だと言えるのではないかと思います。

これから迎えようとする大艱難時代とは比べものにはならないほどに小さなものに過ぎないことかも知れませんが、このようなことが、少しずつ積み重なり広がっていく中で、艱難時代、大艱難時代へと進んでいくのではないかと思われます。

ですから、正しく御言葉につくクリスチャンは、やがて、訴えられたり、逮捕されたり、牢屋に入れられたりすることを想定して歩んでいく必要があります。

その時に、どういう対応をしたらよいのか、本日の御言葉の箇所はそのことを私たちに語っておられます。

そして、これからは正しいことが必ずしも受け入れられるわけではなく、むしろ、神様からきたもの、すなわち御心の働きは必ず妨害があるということもきちんと理解する必要があります。

場合によっては極端な反論、反発も招いてしまうケースもあり得ると思います。

しかし、それでも神様から言われていることは、引かずに働きを進めていかなければいけません。

この時の、ペテロや使徒たちのような対応を取られることをおすすめします。

また、いずれ法律的なものが制定され、そのことが持ち出されるようになっていくと思われます。

それによって議会に引き渡されて、周囲の人々に不利な証言をされたり、理不尽な目にあったりするかもしれません。

でも、だからといって、裁判に勝とうとしてはいけません。

たとえ、この世の裁判に負けて、最悪、肉体の命を失ったとしても、正義と公正を持って裁かれる神様にすべてを委ねていくことをぜひおすすめします。

本日、このようなことまで書くつもりは無かったのですが、神様の導きでしょうか?!

たとえ、こういった事態を招いても、決して驚くことがないように、神様は前もって私たちに語って下さったのだと思います。

ちなみに、御心が無い働きは妨害されたり反論されたりすることはありません。

むしろ、どれもこれも人々からは迎合されるばかりのものだと思います。

たとえば、クリスチャンは艱難時代を通らない、命がけで主のために歩み仕える必要は無くそこそこでよい、悔い改める必要はない、神様に愛されるだけでよい、地獄は存在しない、クリスチャンは裁かれないので裁きのことを言う必要が無い等の教えです。

しかし、このような聖書とは間逆の教えは、神様に受け入れられないばかりか、忌み嫌われ、結果として呪いや滅びを招いてしまいます。

そして、残念ながら、これが今のキリスト教界の現状であります。

とても偉そうな言い方で恐縮ではありますが、こういったことを、皆様は真剣に考えたことはありますでしょうか?

人の目の前には分からなくとも、神様の前には、受け入れられる働きとそうでない働きとがはっきりと二分されています。

そして、どちらか一方の働きを私たちは選択して歩んでいくことになります。

神様の働きを正しく担うか、そうでないかのいずれかです。

そのことによって、死後の行き先が異なります。

またまた、偉そうな言い方で恐縮なのですが・・・

それでも、恵みにあずかる働きを、これを読まれているあなたは拒まれますか?

神様よりも人々を恐れるあまり、神様の働きでないほうに同調されますか?

一人でも多くのクリスチャンが、神様の前に、誠実に歩み、正しい働きをして、永遠の命を獲得されることは神様の御心ですし、私自身もそのことが成せるように切に願っています。

最後に、31節を見ながら本日神様が私たちに語っていることについてまとめます。

「イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために・・・」、この言葉に非常に語りかけがあります。

イスラエルとは、クリスチャンのことです。

神様は愛のお方であること、このことを言うことも正しいのですが、こればかりを強調することに御心はありません。

福音を語るときに、神様が愛や寛容を持って私たちを赦してくださるお方であることと同時に、悔い改めのことも言わなければいけません。

つまり、神様の愛と信仰と悔い改めと裁きを言わなければ、人を(永遠の)命の道に導くことはできないのです。

神様の愛だけとか信仰だけとか、一部のことしか言わないのであれば、それこそ、異端の教理ということになってしまうのです。

命に至る門は小さく、その道は狭いと言われていますが、たとえ、この先、人間的には不利な状況に置かれることがあったとしても、福音を語る際に、ぜひ、真実だけを宣べていくようにしていきたいと思います。

真理に対して多くの人が反発する時代ではありますが、迫害を契機に、福音が伝わり、真理を見る人もおこされていくことにも目をとめて、語るときには大胆に福音を語っていきたいと思います。

そのためにも、キリストの弟子として神様の前にいつも忠実に歩んで備えていきたいと思います。

日々、必要な訓練を積み重ね、天から与えられた召しに従って歩み、働きを成して、勝利を取っていきたいと思います。

そして、後の世において、「よくやった、良い忠実なしもべだ」と、神様からの誉れを受けたいと思います。

 

ある時、以前の教会である人が私にこのように話してきました。

「人前で、長いお祈りする人がいるけど、私はそれについて疑問に思う。だって、お祈りは人に聞かせるものではないでしょう?神様に聞かせるものでしょう?」と。

また、続けてその人はこんな風に言いました。

「それから個人的に祈る場合に、たとえば、1時間あるとするじゃない?そのうちの5分間、集中して神様に向かって祈って、残りの時間は好きなことをしたほうがいいと思わない?それって合理的でしょう?まあ、それでも、私の場合、決められている時間はちゃんと祈っているけどね」と。

その話を聞いたときに、はじめは、多少なりとも、もっともらしく聞こえました。

でも、よく聖書を調べてみると、そんなことはありませんでした。

また、弟子の歩みの訓練のひとつに、「祈り」があります。

どれくらいの祈りの時間を持つのかについて詳細はのべませんが、まかり間違えても、一日の祈りが5分間ということはありません。

その人も、最低限の祈り時間についてはご存知なので、なぜ、そのような発言をしたのかは疑問でした。

ちなみに教会では土曜日の弟子訓練の時に皆で一緒にお祈りのときを持ちます。

そのときに、私も祈りますが、場合によっては、ひとつの課題に対して、5分、10分と祈る時があります。

その人が長いお祈りをする人について、好意を持たれていないことについても、おかしく思いました。

たしかに、聖書には「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」と、書かれています。

そして、恐らくその御言葉を指して、その人はそのような発言をされたのだと思います。

一瞬、時間が長いのはマズイのかしら?と、思いましたが、この御言葉が言われている意味合いを考えてみると、その考えは的外れだとすぐに回答を得ることができました。

「異邦人のように・・・・言葉数が多ければ聞かれると・・・」とは、簡単に言うと、神様の御心にそぐわないテーマばかりを祈ることを言っているのではないかと思いました。

このようなことを全く祈ってはいけないというわけではありませんが、たとえば、マイホームやマイカーが欲しいとか会社の地位を上げたいとか、より豊かな生活をしたいとか、霊的なことよりも暮らしの向きのことをはじめ、この世のことばかりを優先するような祈りには御心が無いということです。

でも、たとえば、神様の働きや人々の霊的な成長のことについて、祈り求めていくなら、大いに御心があると思います。

たとえ、そのことに何時間、何日、何ヶ月、何年とお祈りの時間に費やすとしても、神様はそのようなお祈りをないがしろにすることはないばかりか、むしろ喜んでくださり、なおかつ御業を成してくださると思います。

そういったお祈りに対して、長いだとか、人に聞かせるためのお祈りだとかうんぬんと言うのは、お祈りを妨害するための単なる敵の声だということが分かりました。

また、聖書には「御霊によって絶えず祈りなさい」とも書かれています。

ですから、5分だけ祈って、あとは、自分のしたいように行動するというのは、違うと思います。

それも、祈りを阻止して神様の働きを妨害するための、敵の語りかけであると言えます。

回りくどい言い方になりましたが、サタンは御心のことについては、歩みにおいても働きにおいても身近な人を通して巧みな方法を用いてうまく妨害しようと常にチャンスを狙っています。

嘘・偽りのことをあたかも、正当なことであるかのようにです。

このことは、ほんの一例に過ぎませんし、とても小さなことではありますが、これから、もっとこういったことが拡大化してくるのではないかと思います。

本日の御言葉やメッセージを通して学ばせていただいたように、神様の御心の働きに関しては、巧みな方法で敵が阻止してくるということを想定して、今一度、聖書はどのように語っているか調べ、お祈りを通して神様の声を聞いて働きをすすめていくことは大切だという風に思いました。

正しい教え、御心の働きには、反発や反論があることを踏まえて、ますます御心を正しく行っていくことの大切さについても改めて教えられ、感謝でした。