聖書箇所 使徒の働き13:42-48

 

13:42 ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。

13:43 会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。

13:44 次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。

13:45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。

13:46 そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。

13:47 なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」

13:48 異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。

 

メッセージの前に・・・

この時の時代背景について少しお話したいと思います。

パウロがいた時代は、神の民がどうしようもないほどに堕落していました。

しかし、このことは、単にパウロの旧約の終わりのことだけではないのです。

背教が起こることが聖書には、前もって書いてありますので、新約の終わりにも同じようなことが再現すると、とらえるのが正しいのです。

そのような概念で、本日も、神様が御言葉から語っていることについて、ご一緒にみていきたいと思います。

 

順にみていきます。

13:42 ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。

13:43 会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。

13:44 次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。

42節に書かれている「ふたり」とは、パウロとバルナバのことです。

それ以前を読んでいただけると分かるのですが、パウロはアンテオケの会堂でイエスがキリストであることを大胆に語っていました。

そして、ここに書かれているように、そこにいた人々が次の安息日にも同じ事を語って欲しいと言われたので、彼らは次の週も同じように、会衆の前でメッセージを語りました。

 

次をみてみましょう。

13:45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。

ユダヤ人とは、神様を信じるクリスチャンのことです。

そういう人たちが、ねたみに燃えて、パウロの話に反対して、口汚なく罵ったのです。

「クリスチャンのくせに!しかも、大伝道者パウロに反論することは何事?」と、思われる方も多いと思います。

さて、パウロはなぜ、同胞であるユダヤ人に反対されたり、罵られたりしたのでしょうか?

この時、パウロは訳の分からないことを話したのでしょうか?

たとえば、今、キリスト教界で言われている、ダビンチコード(キリストはマグダラのマリヤと結婚していた)とかキリストは復活しなかったとか、そういった聖書の御言葉に書かれていないようなことを話したのでしょうか?

そうではありませんでした。

どこまでも、聖書の御言葉に沿って話をしていたのです。

 

参照 使徒17:1,2

17:1 彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。

17:2 パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。

 

さて、再度申し上げますが、それなのに、どうして、口汚く彼を罵ったのでしょうか?

それは、その当時のユダヤ人が、あまりにも、神の言葉と、かけ離れた歩みをしていたからなのです。

もし、聖書の御言葉を正しく理解していたのなら、キリストを十字架につけなかったばかりか、このようなことも起こさなかったはずです。

しかし、パウロを通して語られているメッセージが、自分たちが理解していた教理とあまりにも違っていたので、そのことを受け入れることが出来ませんでした。

さて、そうなるにあたって、ユダヤ人に問題点がありました。

それは、彼らが、神からの教えではなく、人からの教えを受けていたからです。

こういう言い方は失礼かも知れませんが、建前では、神様を信じている、敬っていると言いながらも、神様ではなく、人間中心の歩みに、どこまでも、とどまっていたからなのです。

 

参照 マタイ15:8,9

この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから

 

これは、イエス様がパリサイ人や律法学者に向けて言われた言葉です。

このときの、ユダヤ人というのは、ある意味、彼ら(パリサイ人、律法学者)から教えを受けていた人たちと言えます。

しかし、このことは、この時代に終わるものではないことを御理解ください。

今は、世の終わり、いわば、新約の終わりの時代です。

そして、このときと同様に、残念ながら、正しい教えは、受け入れられない時代に私たちが生きていることを御理解ください。

言うなれば、御言葉とは、正反対のことばかりが言われている時代だということを正しく認識してください。

聖書の御言葉を引用するなら、「時代が曲がっている」と、そのような表現がぴったりかも知れません。

一例を挙げるなら、艱難前携挙説、クリスチャンは艱難を通らない、裁きは未信者だけ、セカンドチャンスがある、地獄は無い等の教えです。

当レムナントキリスト教会では、そのような誤りを指摘する働きをしています。

なぜなら、このような嘘・偽りの教えを盲信していくなら、クリスチャンであっても、死後、確実に滅んでしまうからです。

しかし、残念ながら、こういったことを聖書の御言葉から説明しても、なかなか受け入れていただけないのが現状です。

このことに関連するかどうか分かりませんが、証をさせていただきます。

レムナントキリスト教会で働きをするようになって、今度の秋で3年になります。

その間、多くの人々が警告を受けるために教会に招かれました。

中には、弟子の歩みに入る兄弟姉妹もおられました。

そして、今でも、多少なりとも、礼拝やセミナーに参加する方々がおられます。

私自身、個人的に交わりを持った人は、ほとんどいませんが、何となく、御霊に感じたことがありました。

ある意味、他教会の集会に来られるだけでも、すごいことだとは思うのですが、警告を聞いて真の意味合いで、悔い改めようと決意する人は、ほとんどいないということです。

聖書に「招かれる者は多い、しかし選ばれる者は少ない」と言われている御言葉は正しいと思いました。

だからと言って、歩みの方向を変えない人を裁いているわけでもなく、責めているわけでもありません。

ただ、残念だなぁと、せっかくのチャンスなのに、もったいないなぁと、そのように思うだけです。

中には、教会の働きに真っ向に反対する兄弟姉妹もおられます。

そのようなことがきっかけで、今年の春に、分裂や分派が起きてしまいました。

そして、挙句の果てには、今まで働きを共にしていた方が、今度は、教会の働きを公に批難したり中傷したりして、妨害するようになってしまいました。

 

何を言いたいのかと言いますと・・・

今は、反対されるとか、受け入れられないとか、多少妨害されるとか、その程度で済まさせれていますが、やがては、パウロたちのように、口汚く罵られたり、カルト扱いを受けたり、異端呼ばわりされたりと、こういったことはだんだんと、時を経るに従って、エスカレートしていくと考えていくのが聖書的で正しいのではないかと思います。

もし、私たちが、パウロやバルナバのように、ポイントをついた働きを忠実にすすめていくのであれば、必ず、こういった妨害があることを正しく理解する必要があります。

また、私たちは、対、人ではなく、対、悪霊であることを常に頭に入れておくことも大切です。

明らかにこの時のユダヤ人のバックには、サタンの存在がありました。

サタンが人を通して、正しい教えに対して、働きを妨害したり、難癖をつけたりして、何とか歩みや働きをとどめようとしてきます。

こういったことは、反キリストが擁立して、艱難時代に入ると、日常茶飯事になっていくと思われます。

この箇所を読んでも分かるように、正しく主につくクリスチャンにとって、御言葉を正しく語っていくのは人間的には不利な状況であることは明らかです。

しかし、そこで引くことには御心はありません。

パウロの時代も、ある意味、福音を語りづらい時代だったと思います。

しかし、どこまでも引かずに語っていきました。

ぜひ、私たちも、このことを模範にしていきたいと思います。

 

更にみていきたいと思います。

13:46 そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。

13:47 なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」

13:48 異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。

ここでは、反対したり罵ったりする人々に対して、どのように対応していくのか?そういったことについて、書かれています。

46節で言われているように、パウロとバルナバのようなきっぱりとした態度を示していくことが大切です。

本来なら、ユダヤ人であるクリスチャンが、パウロのメッセージを聞いて、悔い改めるべきでありました。

しかし、彼らは、御言葉を拒否してしまいました。

以前、この箇所を、礼拝のメッセージで学んだときに、エレミヤ牧師がこのようなことをおっしゃっていました。

「神様は、義理堅くて、順番をちゃんと守るお方。」だと

まず、クリスチャンに真理が語られるのが、神様の御心であるということです。

でも、御声を聞いても、なお、心を頑なにしてしまうなら、46節以降に書かれているように、救いが異邦人のほうへ移っていくということを正しくとらえておいてください。

パウロはユダヤ人に向けて、一生懸命語りました。

13章全体を読むと理解できるのですが、論理立てて、順を追って、筋道を立てて、説明しながら、分かりやすく柔和に噛み砕いてイエス様が救い主であることを説明しました。

しかし、それに対して、単に拒否しただけではなく、反対して口汚く罵った人々がいました。

ですので、「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」と、きっぱりとパウロに言われてしまいました。

ここで、注目していただきたいことがあります。

下線を引いた部分です。

何を言いたいのかと言いますと・・・

福音を拒否する、つまり正しい教えを拒むときに、永遠の命にふさわしくない者になってしまうということにぜひ、恐れをもっていただきたいと思います。

 

最後に、なぜ、ユダヤ人は、そんなにまで、拒否してしまったのでしょうか?

そのことについて話をしたいと思います。

はっきり言いますが、パウロのことを口汚く罵ったユダヤ人は、聖書の教えに関して無知であったと言えます。

無知であったためにに御心を行っていなかった、ゆえに、真理を正しく受け入れることが出来なかったのです。

この「無知」という言葉に関しても、世の終わりのキーワードであることを、かつての礼拝のメッセージの中で教えていただきました。

今の世の終わりのクリスチャンもはっきり言って、「無知」と言えます。

そんなことを言うと、怒る方もおられるかも知れませんが、このことは真実です。

具体的に、どういうことか?と言いますと・・・

かつての私もその一人でしたので偉そうなことを言える立場ではないのですが、聖書の教えに関して、理解していない人があまりにも多いということです。

その理由として、御言葉からではなく、キリスト教書店に出回っている教理の本から学ぼうとしたり、聖会から恵みや祝福を受けようとしているからです。

このことも、エレミヤ牧師がおっしゃっていたことで、「今のほとんどのクリスチャンは、教理から御言葉を学ぼうとしている」と聞きましたが、本当にその通りだなぁと、私も思います。

では、どうしたらいいのでしょうか?

全く手立てが無いわけではありません。

とても、シンプルな方法がひとつだけあります。

私たちはもっと、御言葉に熱心になることです。

御言葉だけに、深刻に向き合っていくことです。

パウロ自身、このようにおっしゃっていました。

参照 Ⅰコリント2:2、ガラテヤ6:14

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

極端なことを言ってしまえば、聖書の御言葉だけを知っていればいい、そのような言い方をしても過言ではないと思います。

この世には、ありとあらゆる知恵や知識があります。

また、多くの情報が流出しています。

しかし、いくら、この世の中のこと、たとえば、哲学や学問、また、今の流行のこととか人気アーティストのこととかに通じていても、所詮、信仰とは全く縁がありません。

それと比較してよいかどうか分かりませんが、いくら神様を信じていると言っても、キリスト教界で言われている嘘・偽りの教えを喜んで受け入れ、真理を拒否するということには、全く御心がありません。

本人は、一生懸命神様に仕えているつもりであっても、結果としては、神様の前に的外れな働きになってしまうことが往々にしてあり得るのではないかと思います。

それこそ、恐ろしいことではありますが、最後になって、神様から「知らない」と言われてしまう可能性も高いのです。

一にも二にも、聖書の御言葉は、どう言われているのか?そのことについて知る必要があります。

繰り返すようで恐縮ではありますが、他のことは、ともかく、聖書の御言葉にだけは、詳しくなっていきたいと思います。

もし、真理を正しく理解するなら、迫害される立場に回ることがあっても、御言葉を拒絶したり、正しい人に反対したり罵ったり、悪口を言ったりすることは無いと思います。

これは、天と地との差とも言えます。

そして、どちらかの立場になるかによって、このことは、後の世において、永遠の命を得るかどうかの区分をもたらすことを正しく理解しておいてください。

ここに書かれているように「永遠の命にふさわしくない者」という意味合いを深刻にとらえるなら、どう考えても、永遠の命は危ない、最悪、「命の書」から名前が消されるということを正しくとらえる必要がります。

黙示録に、「命の書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」とありますように、この御言葉に恐れをもって、何が何でも、「命の書」から名前が消されることのないように気をつけていきたいと思います。

 

ぜひ、当時のユダヤ人のことを他人事ととらえずに、私たちも、同じ失敗や過ちを犯すことのないように気をつけていきたいと思います。

そうならないために、パウロやバルナバのように、どこまでも御言葉に徹していきたいと思います。

そのためにも、日々、祈りと御言葉の訓練をしっかりと行っていくようにしたいと思います。

そうでないと、いつの間にか、惑わしに入ってしまったり、あるいは、揺るがしが起こった時に、敵に完全に足もとを救われてひっくり返されてしまったりする危険性があるからです。

そういったことをしっかりと、とらえていき、なすべき訓練や歩みや働きに徹していきたいと思います。

 

本日、学んだ箇所は、近未来に起こり得る予表とも言える箇所です。

神様の言われていることを正しく行っていくときに、喜んで聞いて受け入れてくださる人たちがいる一方で、激しく反論する人たちも多いということを理解する必要があります。

そうでないと、これから起きてくることに対して、さっぱりわけが分からなくなってしまうからです。

しかし、そういった苦境の中に置かれたとしても、この時のパウロやバルバナのように、伝えるべきことは、はっきりと宣べ伝えて、反論する人たちには、しかるべき対応を取っていくことは大切なことです。

どんなに反対されたり、罵られたり、最悪、死罪に渡されるようなことがあったとしても、正しく御心を行っていく中で、神様からの不思議な助けや守りや導きが与えられていきますので、このことを信じて、神様が言われている働きに関しては、決して引くことなく、お祈りの中で忠実に行っていきたいと思います。

そして、このことは、後の日において、大いなる栄光をもたらすものなので、ぜひ、実践されていくことをおすすめいたします。