聖書箇所 使徒の働き16:6-10

 

16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。

16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。

16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。

16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 

御言葉に沿って順にみていきます。

 

16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。

16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。

この時、パウロとテモテは、町々を巡回して、福音を宣べ伝えていました。

しかし、6,7節に書かれているように、アジヤにおいて福音を語ることを聖霊によって禁じられ、ビテニヤの方に向かおうとしましたが、それも御霊によって許してもらえませんでした。

ここで、理解できることは福音を語ることが神様によってストップをかけられることがあるということです。

たとえば、過去、レムナントキリスト教会で、このようなことがありました。

以前も話をしたかも知れませんが、教会では、何年にもわたって、出版のことについてお祈りをしていました。

そして、2009年の夏には、1冊の本を出版することが出来ました。

その後、警告についての記事を雑誌で毎月出していこうということになり、そのことに関して数ヶ月にわたって、兄弟姉妹が教会に集まって、お祈りをしていました。

当初、雑誌を発行ということでお祈りしていたのですが何度かお祈りをしていく中で雑誌ではなく、「ニュースレター」ということを示されました。

いわば、雑誌を発行することを禁じられたわけです。

なぜかなぁと、教会では考えてみたのですが、雑誌というと何十ページにもわたり、費用もかかり、労する時間もえらいかかる、それに出版したとしても、実際に売れるかどうかも分からない、最悪、かなりな赤字を背負い込んでしまうかも知れない、でも、数ページのニュースレターなら比較的お手軽に、しかも、無料で提供できそうだから、読んでくださる方々もいるかも知れないということで、急遽、雑誌からニュースレターに変更することになりました。

そして、このことは、見事にうまくいきました。

昨年の5月から今に至るまで、1度も休まずに発行することができています。

このことは、お祈りを通しての神様の示しに従った結果と言えると思います。

人の知恵と神様の知恵は全然違うんだなぁと、改めて痛感させられた出来事でした。

もし、この時、共に集まってお祈りをしなかったら、失敗に終わっていた可能性も大いにあり得ます。

しかし、お祈りを積み重ねていく中で、主が不思議な方法で最善の道を開いてくださいました。

人間的に考えると、ニュースレターよりも、雑誌のほうが見栄えも良く、オーソドックスな感覚がありますが、しかし、神様は、そのことを私たちの教会には取り入れませんでした。

私たちは、特別、どこかの場所に向かったわけではありませんが、このようなことも、パウロたちが御霊によって禁じられたことと、ある意味同じことではないかと思います。

ちなみに、アジヤで御言葉を語ることを禁じられたことについても何か意味がありそうです。

アジヤとは、まさに、私たちが住んでいる地域です。

私自身、つい、最近、知ったことですが、日本がユダ族の獅子であること、そして、イエス・キリストを十字架につけたのは、実は、私たち日本人だったのです。

イエス様を十字架にかける時に、パリサイ人や律法学者に煽動された多くのユダヤ人は、「あの人がどんな悪事をしたというのか」と懸命になって人殺しのバラバではなく、イエス様を釈放しようと努めたピラトに対して「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と言って、バラバを釈放して、イエス様を十字架につけて、ついに死に至らせてしまったのです。

その時に、発した「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」という言葉の報いを、今でも、私たち日本人は、知ると知られざると、受けてしまっているのではないかと思います。

ですから、このときパウロたちに、神様はアジヤで福音を語ることに関してストップをかけられたのではないかと思います。

「福音を語る」という働きそのものは、決して悪いことではなく、むしろ、神様の目から見て尊い働きでありますし、弟子の歩みをしている人ならば、当然の奉仕であるとも言えます。

しかし、そうではあっても、神様の御心でない場合(時や場所等に関して)には、御霊が禁じられることがあるということを御理解いただきたいと思います。

また、パウロはどうして、聖霊が禁じられたということを理解したのでしょうか?

不思議に思いませんか?

ここには、そのようなことは書かれていませんが、聖書の御言葉の奥義を理解するなら、パウロは、働きをするときに、常に、神様にお伺いを立てていたのだと思います。

それが、事の大小を問わず、どんなに些細なことであったとしても、いつも、神様にたずねていたのではないかと思います。

ですので、私たちは、どんな働きであっても、その都度、知恵や力や助けや導きを祈り求め、この時のパウロたちのように神様の示されることに従っていきたいと思います。

そうでないと、神様は、どのように語っているのかを、とらえることが出来ないばかりか、御心と全く違う方向へとズレてしまう可能性があるからです。

そして、御声を聞いた時にきちんと従えば、神様の栄光や御業を目の当たりにしますし、反対に御心を示されているにも拘わらず、人間的な思いや考えを優先して自分勝手に行動してしまう時に神様の怒りをかうことになり、クリスチャンとしての恥を受けてしまいますので、くれぐれも、主が言われていることに素直に従っていくようにしたいと思います。

 

次をみます。

16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。

16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

先に申し上げたように、パウロは、アジヤ、ビテニヤにおいて、福音を語ることを御霊によって禁じられました。

だからと言って、そこでパウロは、宣教活動は、しばらくお休みにしよう・・・と、思っていたわけではありませんでした。

きっと、このようなときにも、パウロは、「主よ、私たちは、どちらのほうへ行って、御言葉を語っていったらよいのでしょうか?」と、神様に祈り求めていたのだと思います。

このことも、聖書のどこを探しても、記述はありませんが、聖書の奥の奥まで読んで主に聞いていくときに、こんなことも言われているのかなぁということについても、自ずと理解されていかれるのではないでしょうか。

そして、9節にあるように、パウロは幻を見て、そのことを通して神様の御心を確信しました。

まさに、10節に書かれている言葉の通りです。

「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ」と、神様の語りかけをこのように理解しました。

そして、パウロの素晴らしいところは、ただちに行動に移すという身軽さです。

それは、この箇所だけに限りません。

たとえば、パウロがかつて、イエス様を信じるクリスチャンを迫害していたときに、主からの呼びかけがあり、霊的に目覚めた後に、時を移さずに諸会堂において、御言葉を伝える働きに入りました。

 

参照 使徒の働き9:20

そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

 

この、パウロの信仰姿勢は、ある意味私たちの模範でもあります。

先日、礼拝でⅠコリント人への手紙の中で、パウロが「わたしにならう者になってください」という御言葉から、パウロの歩みや働きの真似をしなさいということを教えられました。

そこに書かれていることは、とても辛辣なことばかりでした。

それこそ、正しいことを伝えているにも拘わらず、卑しめられたり、迫害されたり、虐待されたり、ののしられたり、はずかしめを受けたり、挙句の果てには、世のちり、あらゆるもののかすとも言われている中にあっても、そういうことをする人々を祝福し、耐え忍び、慰めの言葉をかけているというのです。

「そんな私の真似をしなさい、模範としなさい」と、パウロは言われているのです。

もう、びっくりどころか、人間的に考えると天地がひっくり返りそうな、とんでも無いことですよね。

しかし、そのような苦しいことに関しても、あえてパウロが「わたしにならう者となりなさい」という言葉には、非常に大切な語りかけがあります。

その時のメッセージの中で、教会では「子育てが大切」だということも教えられました。

子どもとは、いわば、教会の信者のことです。

模範となる人がきちんと歩んでいくことによって、ちゃんとした信者にたてあげられていく、しかし、反対に、建前はともかく、実態は御言葉とは真逆のことばかりしているような歩みをしているなら、とんでもない信者が出来てしまうということを教えられました。

私も、全くその通りだと思いました。

ですから、口先だけ、あるいは、建前ではなく、誠実と忠実を尽くして、神様の前に歩んでいくことは、とても大切なことだと思いました。

パウロを模範として歩んでいたテモテが後になって、パウロのような働きを担うようになったことについても、パウロが神様の前に、いつも真実と忠実さをもってお仕えしていたからだと思います。

レムナントキリスト教会では、私も含めて何人かの人が弟子の歩みをしていますが、ぜひ、パウロやキリストを模範として、ますます、召しに従って忠実に歩み、働きを成していきたいと思います。

話は脱線してしまいましたが、パウロが幻によって、神様からの示しをいただいたこと、このことに目を注ぎ、私たちも、神様からの示しを何らかの方法でいただけるように、祈り求めていきたいと思います。

特に、今の、世の終わりの時は、聖書に書かれているように、「すべての人に私の霊を注ぐ」とか、「息子娘は預言をし、青年は幻を見、老人は夢を見る」とありますので、こういったことも与えられるように、預言や幻や夢を祈り求めていきたいと思います。

特に、預言の賜物について、聖書では、「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と書かれていますので、与えられることを信じて祈り求めていくことは、聖書的でありますので、ぜひ、実践していくことをおすすめします。

私自身のことで、少し証をさせていただきます。

レムナントキリスト教会では、毎週の礼拝の中で、預言の働きをさせていただいています。

私も、約1年半前から、この働きに携わるようになりました。

働きに入る前もそうだったのですが、今現在も、日々、預言の訓練をしています。

預言の賜物を祈り求めること、そして、実際に預言をするという訓練です。

はじめは、言葉すら出なかったのですが、今は、多少なりとも、主がこんな風に語っているかなぁと、少しずつではありますが、とらえていくことができるようになりました。

このことを通して、主の働きを担っていかれれば・・・そのような思いで、預言を日々、祈り求めています。

私自身、特別な能力も賜物も無いのですが、不思議なことに、疑わずに、信じて祈り求めていただけで、与えられたのですから、ぜひ、皆様にもおすすめいたします。

エレミヤ牧師から、預言することによって、その人自身の霊がきれてくるんですよというアドバイスもいただいたことがあったのですが、本当にその通りだと思いました。

教会や周囲のクリスチャンの徳を高める働きではありますが、自分自身にとっても、とても有益なものとなっています。

ただし、正しく行なえば・・・なのですが。

どんな奉仕でも、光と影があるように、必ずしも、聖霊の声を聞いているわけではなく、悪しき霊の語る声もあり、間違えてしまうこともあるからです。

しかし、そうではあっても、「熱心に求めなさい」と書かれているので、これからも、特に預言のことを熱心に祈り求めていきたいと思います。

そう、終わりの日、まさに、今は、預言や夢、また、このときのパウロのように幻を通して神様が直接的に語られるときであるということも、どうか正しく御理解ください。

お祈りや御言葉を通しても神様は教えてくださいますが、新約の終末の時というのは、イエス様の旧約時代の終わりの時と同様、神の民と呼ばれるクリスチャンが変質し、不義と真理が逆転しているような、とんでも無い時であるので、なおのこと、そのようなことも祈り求めて、御声を聞いていくことは、とても大切だと思います。

そうでないと、あらゆる嘘や偽りや罠にあっという間にかけられてしまうからです。

また、示しがあったときには、明らかにそれが聖霊から来たものだと、この時のパウロのように確信したときには、ただちに、従っていくようにしていきたいと思います。

敵であるサタンは、絶えず、真理とは真逆の方向を示してきて、時間にも余裕があるようなことをささやいてきますが、これから、更に背信がすすむに連れて、神様の働きができる時は、ますます限られていくと思いますので、ぜひ、御声を聞いたときには、すぐに応答していきたいと思います。

そうでないと、せっかくの働きのチャンスが与えられているにも拘わらず、みすみす逃してしまう可能性があるからです。

終末、しかも、これからは、更に闇の勢力が優勢になっていくので、きちんと、祈って神様の声を聞いていかないと、とんでもない方向に連れていかれてしまいますので、主の前に、真実と忠実を尽くして歩み、語られていることについては、時を移さずにますます働きに励んでいきたいと思います。

そして、後の世において、「よくやった、忠実なしもべだ」と、いう風に、神様からの誉れをうけていきたいと思います。