聖書箇所 使徒の働き17:1-4

 

17:1 彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。

17:2 パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。

17:3 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。

17:4 彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。

 

本日も、御言葉に沿って順にみていきます。

 

彼らとは、パウロとシラスのことです。

その前に・・・

前章の16章を読むと分かるのですが、彼らは正しく福音を語ったがゆえに、牢に入れられてしまいました。

しかし、二人が神様にお祈りをしながら賛美を歌っていると、突然大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動いて、たちまちとびらが全部あいて、みんなの鎖が解けてしまいました。

そばにいた看守は、囚人たちが逃げてしまったと思って、自殺をしようとしたのですが、パウロはそれを止めました。

そして、看守に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と、獄舎の中においても、イエスの御名に救いがあることを伝えました。

そして、釈放されたのち、17章の1節に書かれているように、テサロニケのユダヤ人の会堂に向かいました。

そこにおいて、パウロは、彼らと聖書に基づいて論じました。

どのように論じたかについては、3節にある通りです。

イエスこそキリストであること、言い方を変えるなら、イエスのみに救いがあることを伝えました。

私を含め、この文章を読まれているあなたも、少し、不思議に思いませんか?

なぜでしょうか?

新約時代を生きる私たちクリスチャンにおいて、イエス様が救い主であることは常識の常識、あまりにも当たり前過ぎないでしょうか?!

イエス様が私たちの救い主であるから・・・だから、そのことを信じて、多くのクリスチャンは洗礼を受けるわけですよね。

しかし、パウロの時代の旧約の終わりの神の民は、このことを正しく理解していなかったのです。

「えーっ、そんな馬鹿な?!」と、思うかも知れません。

でも、それが事実なのです。

もし、この時代の人々がイエス様を救い主だということを正しく理解していたのであれば十字架につける必要は全く無かったのです。

イエス様が十字架の上で語った言葉を思い出してみてください。

有名な御言葉で、ご存知の方が多いとは思いますが・・・

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

この言葉は象徴的です。

救い主と認めるどころか、反対に、あざけり、罵り、迫害し、最後は、十字架につけて殺してしまったのです。

新約を生きる多くのクリスチャンは、このようにおっしゃるでしょう。

「全く馬鹿なことをしたものだ・・・」と。

しかし、このことは他人事では無いことをどうか、御理解ください。

旧約の終わりに起きた出来事、つまりイエス・キリストの十字架殺しは、新約の終わりを生きる私たちの時にも再現するからです。

何を言わんとしているお分かりでしょうか。

イエス・キリストは神様の御子ですよね。

言葉は、神であったとありますようにイエス様は御言葉そのものです。

つまり、世の終わりにイエス・キリストを十字架つけるというのは、御言葉を十字架につける、別の言い方をするなら、御言葉の冒涜が起きる時だということです。

旧約時代の人々は前もって、イエス様が来られることについて、聖書から学んでいたはずです。

しかし、実際に多くの神の民はイエス様の初降臨を正しく迎えることが出来ませんでした。

さて、新約の世の終わりはイエス・キリストの再臨を迎えるわけです。

さあ、そこで問題です。

今、キリスト教界に出回っている教理の本や、あるいは、多くの正統派と呼ばれる教会において語られている「キリストの再臨」は、果たして聖書の御言葉に基づいておられるでしょうか?!

これを読まれているあなた様に思わず質問です。

すべてのクリスチャンにとって、キリストの再臨とはハッピーなものになるでしょうか?

それとも、厳格な裁きの時となるでしょうか?

実は、キリスト教界をはじめ、多くのクリスチャンが再臨のことを誤解されているのです。

過去の私もその一人でした。

しかし、御言葉をじっくりと読むならば・・・残念ながら、キリストの再臨の時は、御言葉に正しくついたクリスチャンが報われる時でもあるのですが、同時に、背信のクリスチャン、また、キリストを信じなかった人たちへの裁きの時でもあるのです。

あらゆる不法や欺きを行っていた人たち、真理を受け入れずに、嘘・偽りを喜んで信じていた人たちへの御怒りの裁きが下されるときなのです。

具体的には、クリスチャンと名が付けば裁かれることは無いとか、クリスチャンは艱難を通らない、反キリストが擁立する前に、天に挙げられるから何も備える必要は無いと言う教えです。

これらの聖書に書かれていないようなことを、疑いもせずに、会衆の前でメッセージをする人は、まさに、不法、欺きを行っている人たちと言えますし、こういったことを吟味もせずに盲信している人たちのことを、嘘・偽りを喜んで受け入れていた人たちであると言えます。

これらのものの大半は、アメリカ由来の嘘・偽りの教理、キリスト教界におけるトレンドとも言えるものです。

しかし、残念ながら、これらの教えを信じて受け入れ続けるなら天の御国は、非常に危ないものとなりますので、ただちに、離れることをおすすめいたします。

ゆえに、どうか、今、キリストの信仰を持っているクリスチャンは、嘘・偽りが横行している大変な時代に生きているということを、正しく御理解ください。

そのまま、そういったトレンドに従っていくのなら・・・後の世において裁きの対象になってしまいますので、どうか、早いうちに、霊的に覚醒されることをおすすめいたします。

説明が長くなりましたが、私たちレムナントキリスト教会におきましても、このときのパウロと同様に、「聖書に基づいて」終末のこと、獣の国がアメリカであること、反キリストはアメリカの人であること、そして、キリストの再臨について宣べ伝えているのですが、そのことを理解されている方は非常に少なく、反対に、罵られたり、悪口を言われたり、妨害されたり、異端・カルト扱いされたりしているのが現状です。

とても不思議に思います。

聖書に書かれていないことやあるいは、聖書の御言葉を超えて話しているのなら、そのように扱われてもいたしかたありません。

ある意味、それは、自業自得だと思います。

しかし、パウロが「イエスこそ、キリストなのです」と、御言葉に書かれている通りに論証しているように、私たちも、御言葉に沿って、クリスチャンが艱難時代を通ること、クリスチャンであっても、嘘・偽り・空想話を盲信し、偽善的な歩みをしていた人たちは裁かれてしまうこと、この点について、ごく、当たり前のことを申し上げているだけなのです。

でも、残念ながら、すでに、そのような嘘・偽りを信じている人たちから見ると、しかも、人数から言えば、そのような人たちが圧倒的に多いので、とても、こっけいと言うか、とんでもないことを言う人たちだという風に見なされてしまうのです。

ただ、4節に書かれているように、パウロのメッセージを聞いていた幾人は、そのことを理解して、パウロとシラスに従いました。

また、大勢のギリシャ人や貴婦人たちも、従いました。

今の、世の終わりも、この時と、ほぼ同じような感じです。

ご存知の方も多いかと思いますが、レムナントキリスト教会では、2ヶ月に一度、黙示録セミナーを開催しています。

聖書の黙示録を中心に、キリスト教界の方向性やキリスト教界に起きている事柄をはじめ、今、神様が私たちクリスチャンに語っていることについて、メッセージをさせていただいています。

一度に、100人、200人という単位では来られていませんが、参加された大半の方々は、納得して理解されて帰られる方が多いです。

中には、弟子の歩みに、入られる方々もおられます。

ですので、この時のパウロのように、私たちが聖書に基づいて真理を語っていくときに、正しいことを理解する人々もおられるということです。

ですから、耳を傾けてくれないから、すぐに反発されてしまうからと言って、聖書に基づいて真理を語ることを決してやめてはいけないのです。

神様から啓示が開かれたのなら、語っていくべきなのです。

最近、Ⅰコリント人への手紙から、奥義の管理者について学びをさせていただきました。

パウロも、旧約時代の奥義の管理者の一人でした。

それと同じように、新約時代の世の終わりにおいても、御言葉の奥義を語るべき人々がいるのです。

もちろん、それは、神様の選びによるわけですが、もし、選ばれたのなら、はっきりと明確に語っていく責任があります。

パウロは、奥義に関して忠実に語り、奥義を語る管理者としての働きを見事に全うしました。

ですから、奥義を語る管理者として選ばれたのなら、忠実に真理を語っていくことが大切です。

奥義とは、聖書の御言葉のたとえの意味合いを解くことですが、残念ながら、このことも多くの人々には受け入れていただくことは出来ません。

しかし、「イエスはたとえによらないで話されることはなかった」と、言われているように、聖書は、「たとえの書」であることを理解し、啓示が開かれるように祈り求めていかなければいけません。

そして、多くのに人たちに、反対されたとしても、引かずに、きちんと、働きを成していくことがとても大切なのです。

パウロの旧約時代終わりと同様に、今の新約時代の終わりも真理が曲げられていて、キリスト教界は、ますますとんでもない方向へと進んでいきますが、しかし、そのような中でも、わずかであっても真理を正しく見る人々がおられますので、そのような方々のために、神様が語られている奥義について、きっちりと、宣べ伝えていきたいと思います。

2節に書かれているように、どこまでも、聖書に基づいて、語っていきたいと思います。

この世にあって、人々に受け入れられなくとも、最悪、罵倒されたり、迫害されたり、カルトと呼ばわれたりしても、最後まで、このことを忠実に行っていくのなら、後の世における報いは大いなるものですので、ぜひ、おすすめいたします。

場合によっては、悔い改めて正しく御言葉に立ち返っていく方々もおられますので、ぜひ、引かずに、成していかれるように祈り求めて、ますますこの一事に励んでいきたいと思います。

 

何度か、話をさせていただいていますように、レムナントキリスト教会は、警告の働きを担っています。

「警告」というと、決して良い響きではありませんし、人受けはどちらかというとよろしくありませんが、しかし、神様が語られていることに関しては、何らかの知恵や方法を祈り求めて語っていくようにしています。

メッセージの中でも話をしましたが、その際に「忠実さ」が問われることを、最近、改めて教えられました。

あえて、忠実さを求めておられるということは、奥義を語ることは、ある意味、人からの評判は、ますます悪くなる、それでも、きちんと行っていきなさいという神様の語りかけを痛切に感じました。

今、キリスト教界でさかんに言われている「神様は愛のお方」「どこまでも、愛だから裁かれない」と、このようなことを言うのなら、決して評判が落ちることも、人から批難されたり中傷されたりすることもほとんどありません。

そして、このようなことは、聖書には書かれていないことなので、レムナントキリスト教会で語っていることとは、ある意味正反対のことであります。

しかし、たとえ、人からは受け入れられづらいものであっても、真理だけを語っていくことに御心があるのだということを改めて痛感しました。

特に、今は、パウロの時と同様に、悪い時代なので、耳を傾けてくださる方は、本当に少数かも知れませんが、永遠の命に関わることですし、神様がレムナントキリスト教会を選んで啓示を開いてくださっていることに関しては責任を負う必要があるのではないかと私個人としては、そのように思っています。

教会においても、また、個々の歩みにおいても、神様が語っておられることに関しては、臆することなく語れるように、ますます祈り求めていきたいなぁと思いました。

最悪、誰一人として聞いてくれなくても、それでも、キリストである御言葉に堅くついていくことが、永遠の命への道であるということもこのように、メッセージや証を執筆しながらも、ますます自分自身、強く感じています。

本日も、御言葉を通して、とても大切なことを神様が語ってくださり、感謝でした。

主に栄光がありますように、主の御名があがめられますように。主に感謝して。