聖書箇所 使徒の働き19:13-16

 

19:13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。

19:14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。

19:15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。

19:16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。

 

上記、御言葉を読んで理解できることですが私たちがクリスチャンとして歩んでいくときに「悪霊」の存在は絶えず意識していかなければいけません。

悪霊、いわば、サタンとは、多くのクリスチャンも御存知のように聖書では「惑わす者、試みる者、誘惑する者、人殺し」と言われている存在です。

また、サタンは光の天使に偽装するとも言われていて、いわば御使いでもあります。

聖書には御使いや天使のことについて書かれていますが、人を滅びに至らせるために、ありとあらゆる手段を尽くして、人を惑わし、試み、罪に加担するように仕向けて最終的には地獄に道連れにするという、ここに登場する御使いは神様にお仕えする良い御使いではなく反対に悪い御使いであることが理解できます。

ゆえに悪霊、サタンと呼ばれているのです。

しかし、悪霊、つまり、サタンが全てのクリスチャンを相手にしているのかというと、そうではないことが15節を読むと分かります。

ちなみに皆さんは15節を読んでどんな風に思われますか?

サタンに知られてなくてラッキー!と、もし、考えるなら、それは非常に危険であるということをどうか御理解ください。

本日の箇所を通して私たちは学ばなければいけないことがあります。

それは、クリスチャンとして歩んでいても悪霊から「知らない」と言われる類の人たちがいるのです。

多くのクリスチャンは相手にされないのは、未信者であると考えるかも知れません。

少なくとも過去の私は、そんな風に思っていました。

全てのクリスチャンがサタンのターゲットになるのだと。

しかし、そうではないことが本日の箇所から理解できます。

14節の御言葉を見てください。

ここに書かれているユダヤの祭司長の息子たちとは、未信者でしょうか?

祭司長とは今で言う牧師や指導者のことを指すことから、クリスチャンであることが理解できますよね。

祭司長の息子たちですから、そう、まさに、神様を信じる、いえ、もっと言うなら毎週きちんと礼拝に行き神様を賛美して聖書を読んでいる、ごくごく当たり前のようにクリスチャン生活を送っている人たちが悪霊から「お前たちは何者だ」と、すなわち「知らない」と言われたのです。

 

さて、なぜ彼らは悪霊から知らないと言われたのでしょうか?

同じクリスチャンでも、15節を読むと分かるようにパウロのことは良く知っていると言いました。

この違いは何か?お分かりですか?

今までも何度かメッセージの中で語りましたが、クリスチャンといっても神様の目には一様ではなく、大きく2種類に区分があります。

何度も申し上げているようで恐縮ではありますが、弟子と群集です。

ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてここに登場するパウロはキリストの弟子として歩んでいる人々です。

いわゆる名前が付いている人たちです。

しかし、14節「ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たち」と書かれているように、この息子たちには特別名前が記されているわけでもなく、何か神様の働きを担ったという記述が見当たらないことから群集の歩みをしていたという風に理解できるのではないでしょうか。

つまり、弟子の歩みをしていない人たちはサタンにさえ「知らない」と言われるということをどうか御理解ください。

 

そして、本日の箇所を通して悪霊に知られているか否かはとても深刻なことであるということを知っていただきたいのです。

さっきも申し上げましたように、悪霊に知られないなら攻撃に遭わないからラッキーと安易に考えるなら、それは間違いです。

イエス様をはじめ、ペテロやパウロは、サタンに度々攻撃されたり働きを妨害されたりしました。

それは御心があるゆえのことです。

反対にクリスチャンと称していても御心が無い働きをばかりをしているなら、そういう目には遭いません。

それこそ敵から全く相手にされていないということです。

このことから、正しく御心を行う人が常に悪霊のターゲットになっていることが理解できるかと思います。

また、弟子の歩みをしていても、建前だけで、きちんとなすべき訓練や御心を行っていないなら同じように悪霊から「知らない」と言われてしまいます。

神様の前にいつも忠実に誠実を尽くしてポイントの働きを担っていく人が、絶えず敵のターゲットにさらされるということをどうか御理解ください。

また、ここには、特別記述はありませんが、本日の箇所は更に深刻なことを言われています。

悪霊に知られていないということは、神様に目をとめてもらっていない可能性があり得ます。

このことは厳粛に考えなければいけません。

神様から目をとめてもらっていないというのは、言い方を変えるなら主の霊がその人に宿っていない可能性があります。

ちなみに、神様から目をとめられなくなり、主の霊が宿っていないなら、どんな結末になってしまうのか?ということに関して参考までに少し御言葉を見てみたいと思います。

 

参照 Ⅰ歴代誌28:9の後半、ゼパニヤ1:6

Ⅰ歴代誌28:9もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。

ゼパニヤ1:6 また、主に従うことをやめ、主を尋ね求めず、主を求めない者どもを断ち滅ぼす。

 

これらの御言葉から、神の霊がいつも私たちにとどまっていなければいけないことが分かります。

そうでないと聖霊ではない別の霊に引っ張られていく可能性があるからです。

そのために、日々熱心に祈り求めていくことにポイントがあります。

たとえば、御心を行うことができるようにとか働きが進みますようにとか罪を犯すことの無いように等です。

また、神様に知られているか否か、神様の霊を宿しているか否かに関してですが・・・

このことは、死後の行き先に大きくかかわっていくのではないかと思います。

もし、この地上において神様に知られていないなら・・・神様の霊をいつも宿していないなら・・・後の世において神様から「知らない」と退けられてしまう可能性があり得ます。

そうなると天の御国を受け継げない可能性が大いにあり得るということをどうか御理解ください。

ここまで読んでくださった賢いあなたさまは、群集の歩みに御心が無いことをすでに理解されておられるかと思います。

ですから、天の御国を真剣に考えておられるのでしたら一刻も早く弟子の歩みをされることを是非おすすめいたします。

 

話は元に戻りますが・・・

悪霊に知られているということは、実はとても大切なことなのです。

それは、ポイントを押さえた歩みや働きをしているという風に言えるからです。

ゆえに攻撃や妨害をはじめ、迫害、罵倒があり、場合によってはパウロのようにとらえられたりすることも赦されます。

人間的には不利に見えたりもするかも知れませんが、しかし、このことに関して落胆する必要は全くありません。

どんな場合であっても神様に祈り求めていくときに、不思議な助けや守りが与えらますし、聖書にも書かれているように試練と同時に脱出の道も備えられていることを信じてください。

敵の攻撃や妨害は赦されますが、きちんと祈り求めていくときに神様からの不思議な助けや守りが必ず与えられます。

もし、真に神様にお仕えしていくのであれば、そういった流れの中で御心の働きを成していかれることをぜひ、御理解ください。

 

こういったことに関連するかどうか分かりませんが少し証をさせていただきます。

私は今から3年前の秋に初めてレムナントキリスト教会の礼拝に出席しました。

そして、明らかに主の導きと御心を感じましたので、こちらの教会で働きをさせていただこうと決意しました。

行き始めたばかりの時は群集の歩みでしたが、その翌々週あたりから、一部、教会の働きのお手伝いをさせていただくことが決まりました。

そして、その働きがはじまる前のことです。

突然右腕に激しい痛みが走りました。

指を少し動かすだけで痛くなり箸を持つことさえ出来ませんでした。

その翌々日が礼拝だったのですが、痛みは一向に引く気配がありませんでした。

自分では自覚は無くても何か神様の前に罪があるのかも知れないと思って悔い改めながら神様の癒しの力を求めるお祈りもしました。

そして、礼拝の当日、痛みは尚一層激しいものとなりエレミヤ牧師をはじめ兄弟姉妹にお祈りをしていただきました。

「もしかすると、これは歩みや働きを踏み出すことをとどめるための敵の妨害かも知れない、でも、このことにおじけずに引き続きお祈りしていきましょう」というアドバイスをエレミヤ牧師からいただきました。

引き続き毎日祈って行く中で不思議なことに一日一日と除々に痛みが引いていき一週間も経たないうちに完全に癒されました。

皆と一緒に祈り、癒されて主の御業を見せていただいたこと、それはそれでとても感謝なことでしたが、このことは私が弟子の歩みに入る良いきっかけにもなりました。

もし、途中で引いてしまい、諦めてしまっていたら、今の私の働きは無かったと思います。

その時は、一体どうなるんだろう?もしかするとずっと痛いままなのかなぁと思ったのですが神様に信頼して祈り求めていったときに、天からの癒しや助けが与えられました。

そしてこのことは後々になって大いなる益をもたらすものとなりました。

 

この証を通して何を申し上げたいのかと言うと、敵であるサタンは神様の真剣に働きしている人、あるいはこれから働きを担っていこうとする人に攻撃や妨害をしかけてくるということです。

しかし、そうではあっても悪霊に知られることは、人間的には喜ばしくなくても、とても大切なことです。

反対に知られていなかったり相手にもされていないのなら、いくらクリスチャンと称していて歩みをして働きを担っていたとしても、神様の前に的外れになっている可能性があり得ますので吟味が必要かも知れません。

なぜかと言うと神の働きを担っていると言っても、神様が言われているポイントからズレているのなら天の御国は非常に危ない可能性があるからです。

しかし、ポイントの歩みや働きを祈り求めて行っていくのなら明らかに神様にも知られ、敵にも知られていきます。

ゆえに、様々な攻撃や妨害は赦されます。

しかし、そのような時であっても神様に全面的に信頼していくときに勝利を得ていかれるので、決して引くことなく祈りをもって対応してひとつひとつの働きを成していきたいと思います。

たとえ、どんなに酷い目に遭ったり不当なことを受けたりしたとしても、耐えられないほどの試練や困難は無いとも聖書に書かれているので、このことを信じて成すべき働きに更に励んで後の世において大なる報いを得ていきたいと思います。