聖書箇所 使徒の働き19:11,12

 

19:11 神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。

19:12 パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。

 

本日は、「神は働き人を通して御業を成される」というテーマに沿って御言葉をみていきたいと思います。

 

神様は、全能なお方です。

そのように聞くと、「私たちなんか必要ないじゃない?神様が一人で働きをすれば?!そのほうが間違いも無いしね!」と、思われるかも知れません。

しかし、そうではありません。

ここで、ぜひ、知っていただきたいのは、神様は、働き人を通して、御自身や御栄光をあらわされたり、御業を成されたりするお方であることを御理解ください。

ですので、この時もパウロを通して驚くべき奇蹟を行われたのです。

もし私たちが神様の働きに携わっていくのなら、私たちも神様のご計画のうちに用いられるということをぜひ、御理解ください。

「いやいや、とんでもない、パウロは特別な人だったから、偉大な器だったからでしょう?」と、そのようにおっしゃるかも知れません。

かつて、私もそのように思っていましたので、そう言われることも分からなくもありません。

でも2年以上前から弟子の歩みをさせていただくようになり、このことは決して他人事ではないということを、しかも、ペテロやパウロのような偉大なる器と言われている人だけではないということを理解しました。

今の時代も明らかに、神様は弟子として歩む器を通して働きをされるお方であるということを実際の信仰の歩みや働きを通して実感させていただいています。

このことに関連して、証をさせていただきます。

先月、レムナントキリスト教会の午前の礼拝の中で、このような学びをしました。

Ⅰコリント人への手紙5章の3 -5節のところです。

 

参照 Ⅰコリント5:3-5

5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。

5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、

5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

 

4,5節の「私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。」の部分に注目してください。

更に、この箇所と同じようなことが、マタイの福音書1618,19節に書かれています。

 

参照 マタイ16:18,19

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

 

この時のメッセージで学んだことは、弟子の歩みをしている人には、神様からの特別な権威が与えられているということです。

しかもⅠコリントの55節を読んで分かるのは、恐ろしいことに人の生死を左右するべく権威なのです。

以前、ある方が教会に来られました。

教会に来られることは、とても歓迎なのですが、その方のことが少し気になっていました。

と、言うのは、あまりにも、この世についているクリスチャンだったからです。

このことは私の主観ではなく、客観的に見て、もっと言うなら神様の目から見て言動、行動共に本当にクリスチャンなの?と、疑問を抱いてしまうほどでした。

クリスチャンになって間もない方なら分かるのですが、その方の証から洗礼を受けて比較的、年数を経ていることが分かりました。

ただ、あまりにもこの世に着き過ぎている感じでしたので、場合によっては教会の働きや信徒のお一人一人に悪い影響を与えてしまうのでは?と、いうことを少しずつ御霊に感じていました。

ですから、その方が教会に来られてから神様の前に正しく歩みが出来るように、ずっと祈っていました。

しかし、いくら時を経ても、状況は変わりませんでした。

そしてある出来事を通して、このようなお祈りに導かれました。

「イエス様、あなたはすべての方の心をご存知です。私の心の内側もご存知です。私はイエス様と同じ思いでお祈りをさせていただきたいと思います。私を通して主ご自身がその方のために、とりなしてくださいますように。そして、御心を成してくださいますように。」と、祈りました。

すると、主が私の口を通して、「もし、その人が私(神様)の前に心を尽くして誠実さをもってきちんと悔い改めるなら教会にとどまれますように。」と、お祈りくださいました。

しばらくしてその方は、教会をお休みしました。

そして結末はどうなったか?と言うと自ら教会を去って行きました。

教会に来られている誰かと、その方と言い争いをしたわけではありません。

誰も、何もしていないし、言ってもいないのです。

とても、不思議でした。

その時に分かりました。

「ああ、そうか、これは祈りの答えなんだ」と。

神様ご自身が、その方がとどまるべきではないと、そのように判断されたのだと思いました。

神様はあらゆる手を尽くして、その方に何度も悔い改めて真理に立ち返るようにアプローチされていたのだと思います。

しかし、残念ながらその方がそのことを拒んでしまったのだと思います。

そのことゆえに、そのような結末になったのだと思います。

 

さて、この証を通して何を申し上げたいのかと言うと、神様は働き人を通して、良い意味合いにおいても、悪い意味合いにおいても、御心を成就してしまうということです。

今の証は、一見聞くと非人道的なことのように思えるかも知れません。

私自身が勝手に祈り、人を追い出したのだと。

でも、そうではないのです。

もともと、その方のことを祈るということすらも神様の導きだったからです。

と、言うのは、私自身、ほとんどその方と話すことも、接点もあまりなかったからです。

しかし、あえてお祈りに導かれたというのは、神様の御心であったと言えると思います。

そして、ある程度の祈りの期間が与えられ、神様御自身は何らかの方法を通して、その間、その方にずっと語っておられたと思います。

悔い改めを促されていたのだと思います。

そうでなければ、わざわざ私を通して、主がとりなすわけはないのですから。

そして、後になって、Ⅰコリント5章を学んだ時に、このことは、ある意味、Ⅰコリント54節に書かれている「主の権能もって」のことを意味するのではないかと思いました。

そして、パウロのように、弟子の歩みをしている人が主の権能を行使していくときに、良い意味合いでも悪い意味合いでも、そのことが実現してしまうということです。

話は使徒のほうに戻りますが、ここでのポイントは1節に書かれているように、神様は明らかに、パウロのような働き人を通して、驚くべき奇蹟を行われるお方であるということを正しく御理解いただきたいと思います。

また、先ほどの証に関しては、決して他人事ではなく自分自身にも当てはまることですので、常に神様を恐れてへりくだって歩んでいくようにしていきたいと思います。

そうでないと・・・その方がそうだったかどうかは分かりませんが・・・

もし、私たちが、常に神様に反発ばかりしていると、人手によらず、神様の手によって、サタンに引き渡されてしまうのではないかと思います。

このことは、とても恐ろしいことです。

サタンに渡されるということは、結果として霊的に盲目にされてしまったり、耳しいになってしまったりする可能性が大いにあり得ます、ゆえに、最悪、滅びに入ってしまう危険性がありますので、ぜひ、気をつけていきたいと思います。

また、もし、弟子として歩んでいく中で、このような権威を授けられた場合に用い方には、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

権威が与えられたからといって、むやみやたらに用いるのではなく、まず、このような権威に恐れを持つこと、そして、本当に行使するべきなのかどうか、お祈りを通して神様にその都度確認していく必要があります。

特に、人に対して、このような権威を用いるときは要注意です。

と、言うのは、捉え違いや勘違いのゆえに、誤って用いてしまうときに、神様の前に正しく歩むべき人を阻止してしまう危険性や場合によっては、神様の働きを妨害してしまう可能性があるからです。

つまり、用い方次第によっては、あるいは、神様にきちんと確認をしないで、軽はずみに用いてしまったときに、それが、たとえ良かれと思って行ったことだとしても、御心でない場合に、反対に敵にとって都合のいいように用いられ、特別意識しなくとも、いつの間にか、敵の領域に入ってしまう可能性があります。

そして、その結果、神様からの怒りを招いたり、裁きに入ってしまったりする恐れがあるので、そのようなことを正しく御理解の上、気をつけて用いるようにしてください。

良い例かどうか分かりませんが、たとえば、調理に用いる包丁でも、使い方次第では人においしい料理を提供して、人を喜ばすことができます。

しかし、反対に、人を殺す道具として用いるなら、人から恨まれたり、訴えられたりします。

それだけで済むならいいですが、裁判の結果、無期懲役や死刑に処せられてしまいます。

神様から与えられる権威、こと、信仰の世界は、諸刃の剣の戦いと言われています。

剣は、御言葉に関することです。

いわば、御言葉や教理の戦いのオンパレードであることを心得て扱いにはくれぐれも注意していきたいと思います。

ですから、繰り返すようで恐縮ではありますが、よくよく祈り、御声を正しくとらえていく必要があります。

正しく用いていくときに、主御自身が働いてくださいます。

御言葉にも「主があなたの前に出て行かれる」とか「戦いは主のもの」とありますように、私たちが表立って戦うのではありません。

こういったことに関しては、とにかく、祈って、主に委ねて、神様がどのようになさるのかをじっくりと、みていくことが大切です。

本日の御言葉の箇所は、そのようなことを語っているのではないかと思います。

「神はパウロの手によって」と、ありますように、パウロ自身が業をするのではなく、パウロを通して神様が業を成されたことが理解できます。

また、働き人だからといって、誰彼でも神様は用いるわけではないことも、御理解ください。

世界中には、20億人のクリスチャン人口がおられるとのことですが、必ずしも、すべてのクリスチャンを神様は用いるわけではありません。

パウロは神の選びの器ということが、聖書のどこかに書かれていますが、神様に用いていただくためには、私たちが神様の選びの器になっていくことにポイントがあることもどうか正しく御理解くださいますように。

収穫は多いが働き人は少ないと言われているように、真に神様の働きに携わる人は、非常に少ないのではないかと思います。

パウロの時代も、そうだったのではないかと思います。

しかし、もし、お一人一人が真に神様にお仕えしていくことを自らの意志で決断していくときに、パウロのような働きを担うようになっていかれるのではないかと思います。

ぜひ、主に選ばれるように誠実と忠実を尽くして歩んでいきたいと思います。

そして、選ばれたときには、ペテロやパウロのように、すぐに神様の声に応答していきたいと思います。

そうしていくときに、御霊の賜物や悪しき霊を制する権威をはじめ特別な権威や知恵や力や知識や英知が授けられ、自ずとこの時代の働きを担っていかれるようになります。

また、はじめに申し上げたように、パウロのように神様の栄光や御業が反映される器にたてあげられていくようになります。

このことは、本人にとっても祝福や恵みと言えますが、教会の立てあげがなされたり、周囲の人々に励ましや力や助けを与えたり、後になってそのような歩みに連なっていく人々にとっての良い模範ともなっていきますので、そういった歩みに入られることを、ぜひ、おすすめいたします。