聖書箇所 使徒の働き20:28-30

 

20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。

20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。

 

本日も御言葉に沿って学んでいきたいと思います。

 

上記御言葉は、パウロが弟子たちに対して、警告として語った言葉です。

ちなみに、この御言葉を読まれているあなたが、もし、弟子ではなく、群集として歩んでいるなら、今ひとつピンと来ないことかも知れません。

実は、聖書は、ある意味、弟子に向けて語られている部分があるということを学んだことがあります。

ですから、群集として歩んでいると、どうしても理解できなかったり該当しなかったり箇所がところどころある書物であるということを、御理解の上、文章を読んでいただけると幸いです。

これは、自分自身が弟子の歩みをしているからという立場で申し上げているのではなく、実際に弟子の歩みをはじめてから、本当にその通りだなぁと私自身が実感したことでもありました。

そのようなことを踏まえて、読んでいただけたらという思いで、このようなことを補足させていただきました。

さて、28節では、「自分自身と群れ全体とに気を配りなさい」と、パウロは言われています。

それに続いて、「神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです」と、言われました。

このことは、一体何を語っているのでしょうか。

参考までに、ヨハネの福音書を見てみたいと思います。

 

参照 ヨハネの福音書21:15-17

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

上記御言葉は、イエス様がペテロに言われたことです。

「わたしの小羊を飼いなさい」と。

ちなみに、ペテロは弟子の筆頭格です。

ですから、真の意味合いで主を愛して御心を行う人、つまり、弟子の歩みをしている人は牧会のことも考慮して歩みや働きを担っていきなさいと、この箇所では言われているのです。

また、歴代誌でも、このようなことを主は言われています。

 

参照 Ⅰ歴代誌17:6

17:6 わたしが全イスラエルと歩んできたどんな所ででも、わたしの民を牧せよとわたしが命じたイスラエルのさばきつかさのひとりにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。

これは、預言者ナタンを通してダビデに言われた主の言葉です。

ダビデはイエス・キリストの型であるのと同時に、主に仕えるしもべ、いわば、主の弟子とも言える型でもありました。

また、ここでも、「わたしの民を牧せよとわたしが命じたイスラエルのさばきつかさ」ということを言われています。

「さばきつかさ」というのも、弟子の歩みをしている人に通じることです。

私たち一人一人のことを真の意味合いで主御自身は牧会してくださり、裁くのも主御自身ではありますが、主が教会を建てるときに、主にお仕えする弟子たちをさばきつかさとして任命なさいます。

話は使徒の働きに戻りますが、この時パウロは、主の弟子たちに対してこのようなことを発したのです。

ですから、弟子の歩みをしている人は御自身の歩みをしながらも牧会的なことにも携っていくということを念頭においていく必要があるのです。

さらに分かりやすく言うなら、聖徒(共に弟子として歩んでいる人)や教会の信徒お一人一人のことに配慮する必要があるのです。

「群れ全体」とは、アンダーラインを引いた部分のことを言われています。

続いて、29,30節をみていきます。

これは、非常に暗示的な事柄です。

パウロはすでに、後に起こることについて前もって知っていました。

そして、このことは、パウロがいた初代教会の時だけではなく、新約時代の私たちにも該当することであることを御理解いただきたいと思います。

教会の礼拝のメッセージの中で「旧約の終わりは新約の終わりの予表」とか「旧約時代と新約時代に起きていることはシンクロナイズしている」とか「旧約時代を学ぶのは新約を生きる私たちへの教訓」「旧約の神の民の失敗を学び私たちが同じ失敗をしないように」というようなことを学ばせていただいていますが、このことに、私も、全く同感であります。

現に、もう、背教に入りつつあります。

このように申し上げると気を悪くされる方もいらっしゃるかも知れませんが、多くのクリスチャンが御言葉を後ろに投げ捨てている時代です。

かつての私もその一人でしたが、今の大半のクリスチャンの特徴は聖書を曲解したり教理から御言葉を読んでいたりしているので、御言葉と正面から向き合っている人はほとんどいません。

たとえば、クリスチャンは艱難時代を通らないとか、レフトビハインドをはじめとする艱難前・中携挙説とか、クリスチャンは裁かれない、セカンドチャンスがあるというような聖書には記されていないような空想話を勝手に信じ、結果として自ら滅びを招くような歩みをさせられています。

教会でも語られているのだからそれらの教えが正しい、周りのクリスチャンも信じているのだからという全く根拠の無い安心感を植え付けられ油断させられているものに過ぎないことにすら、そのことに全く気づこうともしていないし実際に気づいていないのです。

それらを最善のもの、だから自分たちの信仰の歩みは正しい、悔い改める必要なんて全く無いと・・・

しかし、そういったものは、クリスチャンの最も大切な永遠の命を奪うための、敵のしかけや罠であることに気づいていかなければいけません。

そして、当レムナントキリスト教会においては、あらゆる方法でそういった警告をするのですが残念なことに、ほとんどの人が聞こうとも受け入れようともしないのです。

明らかに、このようなことを盲信しているクリスチャンの上に神様の怒りが頂点になりつつあるにもかかわらずです。

ですから、反キリスト(不法の人)や獣の国が勢力を増してくるのも、ある意味、不法がはびこっている私たちクリスチャンが悪い意味合いで蒔いた種であるということを正しく御理解いただきたいと思います。

そうでなければ、神様がわざわざ、そのようなものを送り込む必要は無いのですから。

残念ながら神の民の背信のゆえに神によって反キリストや獣の国は赦されていることなのです。

反キリストが擁立するのも秒読みと申し上げたら過言かも知れませんが近未来であることを、レムナントキリスト教会では、主から示しを受けていますので、こういったことについて礼拝やセミナーで語っています。

なので、この文章を読まれている皆様には、一刻も早く真理に立ち返って神様の前に正しく歩み、働きを担っていかれることをぜひ、おすすめいたします。

もし、真理とは違う方向を歩み、聖霊と思っていても別のものをつかんでいるのなら、永遠の命は非常に危ないものとなってしまいますので、注意が必要です。

話はまわりに回ってしまいましたが、29節に書かれている「狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回る」とは、まさに、御言葉をねじ曲げて、クリスチャンを真理に背かせるように仕組む者が送り込まれるということを言われているのです。

すでに、そのような働きは少しずつはじまりつつあるのですが、反キリストが擁立することによって、そういったことが拡大化して本格的になっていくということを前もって理解しておかれることをぜひおすすめいたします。

それと同時に、真理に背いているクリスチャン、いわゆる偽善的な歩みをしているクリスチャンが、正しく御言葉につくクリスチャンを異端とかカルトと呼んだり、迫害をしたり、訴訟沙汰に持ち込んだりして、正しいクリスチャンを最悪死に至らせていくのではないかと思います。

御言葉にも「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。」とあります。

同じクリスチャン仲間から、正しく御言葉に立つクリスチャンは、「死」に渡られてしまうのです。

今の時代では、ピンと来ないかも知れませんが、先ほども申し上げましたように、このことは、あまりそう遠くない将来に必ず起きてくることなのです。

「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい」と言われているように、すべての御言葉は書かれている通りに成就していくものだからです。

ですから、29節に書かれていること、このことは必ず起きてくると理解するのが正しいのです。

最後に30節を見てみます。

このことにも、今の時代を生きる私たちへの語りかけがあります。

パウロが去ったあとに、群れの中が変わっていくということについても彼は、はっきりと語っています。

これは、29節の言葉にかかっていることですが、教会から聖霊の働きが消えて、結果として、荒廃してしまい、もはや正しい教えを受け入れなくなった状態の中で、曲がったことやひねくれたことを言いやすい状況になり、選民(弟子の歩みをしている人)までも、悪い教えに引きずり込んでいくということを、ここでは言われています。

キリストの弟子として歩んでいるから大丈夫などと、高をくくっていると、大どんでん返しをくらってしまうということを心に留めておきたいと思います。

なぜかというと、このように御言葉は語っているからです。

 

参照 マタイ24:24

にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

参照 マルコ13:22

にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。

今でも、このような働きは行われていますが、不法の人があらわれ、獣の国が正体をあらわした時に、ますますこういったことがキリスト教界を席巻し、日常的なものとなっていくと思いますので、見事に騙されないように気をつけていきたいと思います。

 

偉そうな言い方で恐縮ではありますが・・・

この文章を読まれている皆さん、今がどのような時代で、キリスト教界がこれからどんな方向に行くか、正しく理解されていらっしゃいますか?

本日の箇所は、パウロが初代教会の弟子として歩んでいる人々に向けて発した言葉ではありますが、新約の終わりを生き、これから艱難時代を迎えようとしている私たちがその時になって、ありとあらゆる混乱を招いたり、慌てふためいたりすることのないように、前もって語ってくださっている事柄であるということを正しくとらえてください。

はじめに、聖書は弟子にしか該当しない箇所があると申し上げましたが、もし、群集の歩みにとどまるなら、最後まで御言葉の奥義に精通することはありません。

このことは明らかで真実です。

なぜかというと、イエス様御自身が、「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」とか、「イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。」と言われています。

私たち人ではなく、主御自身が、弟子と群集とを、はっきりと区分しておられるのです。

このことをどのようにとらえますか?

そのままで良いと思われる方には、あえておすすめしませんが、御言葉の奥義に通じていったほうが良いと思われませんか。

イエス様の時代、御言葉の奥義を理解するかどうかが、後の世において天の御国を受け継ぐか否かの区分をもたらすものでした。

そして、このことは、新約の終末の終わりにも、そのまま当てはまるものだと思われます。

「新約の神は愛のお方だから、そんなことはない!」と言われるかも知れませんが、同じ神様が旧約だろうと新約だろうと公正にお一人一人を扱われると考えるのが正しいのではないかと私自身はそのように思っております。

ですから、旧約時代の終わり、つまり、イエス様をはじめ、ペテロやパウロのように正しい人を死に追いやることが、新約の終わりを生きる私たちに再現することを真面目に考えるなら、弟子として歩み、奥義を学んでいく必要があると思います。

最近、礼拝の中で「奥義の管理者」ということをⅠコリントの手紙から学びをしましたが、奥義を知るか否かによって、死後の結末が大きく変わるということを教えられました。

私も、そのことには、同調です。

なぜかと言うと、弟子の歩みをするようになってから、このことは、たびたび御霊に感じていたことだからです。

かつての日、イエス様を十字架につけたのは、奥義を悟らなかったパリサイ人や祭司長や律法学者をはじめとする、彼らに煽動された群衆でした。

そして、奥義を悟らずにイエス・キリストをメシヤと悟れずに十字架殺しに加担した旧約の民は一人残らず、裁かれてしまいました。

そのように考えていくと、新約の終わりに、正しい人を死に至らせる人は、御言葉の奥義、つまりたとえの意味合いについて理解しなかった人々である可能性が十分にあり得ると考えるのが正しいのではないでしょうか。

本日の箇所に書かれている群れを荒らし回るとかいろいろな曲がったことを語るのは、そういう人たちのことを言われているのではないかと思います。

繰り返しになりますが、ありとあらゆる曲がった教えはこれから更にキリスト教界に広がっていきます。

ですから、そのようなことを想定して、今日の箇所で言われているように、自分自身の歩みと教会全体のことに、ますます配慮していきたいと思います。

そういったことに陥ることが無いように、具体的にどうしたら良いのかと言うと、自分自身、それから、聖徒、信徒が正しく歩めるように、ひたすら忍耐を持ってとりなしていくことです。

特に、弟子として歩んでいる人のことは、絶えず、とりなしていく必要があります。

なぜかと言うと、教会は、弟子の歩みをする人を土台に建てあげられていくものなので弟子として歩んでいる人が揺るぎの無いように、倒されることがないように、不動の者となっていかれるように、ますますとりなしていきたいと思います。

主御自身によって、土台が堅く据えられていくのなら、より分けられることなく、お一人一人はあらゆる揺るがしや困難にも打ち勝っていかれるようになります。

そして、このことは、群れの模範となる歩みとなり、そういった歩みに連なる人々も場合によっては起こされていく可能性もあるのではないかと思います。

また、敵が侵略して来ないために、このことに限らず、祈りの城壁を築いていくことにもポイントがあると思います。

変な教理に打ち勝つために、歩みや働きにおいて、ひとつひとつのことをきちんと、日々、主に憐れみを求めてお祈りしていきたいと思います。

キリスト教界が終末に関してどのように語っているかどうかはさておき、私たちに関しては、パウロが前もって、このように語ってくださったことを決して無にすることなく、主の召命に従い、神の前に正しく歩み、御国を相続するのにふさわしい者となっていきたいと思います。

 

上記御言葉に関して、今まで、深く心に留めたことは無かったのですが、この章を何度か繰り返し読んでいくうちに、主は私たちにとても大変なことを語っている!と、思い、この箇所に導かれ、メッセージをさせていただくことになりました。

先日、ある人からメールで預言のサイトを紹介していただきました。

もう、しばらく、その方とお会いしていないのですが、2年半ほど前、最後に電話で話をしたときに、「これからは、カソリックとプロテスタントがひとつになる」と言っていました。

その方は、エキメニュカルを奨励しているということでした。

私が、そのことについて、異を唱えると「その考えは暗い」と、言われてしまいました。

でも、聖書を読むと、エキメニュカルには全く御心が無いばかりか、カソリックとは分離しなさいとまで言われていることが理解できます。

その方は、度々、キリスト教に関するHPを一括送信で御紹介くださるのですが、正直、見るまでもないと思って大半のことは無視していました。

なぜかと言うと、アメリカ由来の教理に関するもの、いわば、神が忌み嫌うようなものばかりだったからです。

しかし、預言のサイトが送られてきたときに、私はその方にはっきりとメールで言いました。

実は、それも、アメリカのまがいものなのでは?ということを御霊に感じましたので、警告をするチャンスだと思い、獣の国がアメリカであることや多くのクリスチャンが主の再臨について誤解をしていることや、預言に関しては多くの偽預言者が出てきているので要吟味であることや、アメリカ由来の嘘・偽りの教えを盲信するならば裁きの対象になる可能性があることについて、御言葉を通して説明させていただきました。

その方にとっては、余計なお世話と思われたかも知れませんが、放置したままでは、いけない!と、思いましたので、御霊に示されるままに語らせていただきました。

そのことについて、特に反応はありませんでしたが、今の時代を正しく悟っていただきたい、艱難時代の備えをしていただきたい、霊的に真理を見ていただきたいという思いでさせていただきました。

その方が警告を正しく受けて、真理を見るか否かは、私には全く責任がありませんが、この時のパウロのように、語るべきときには、はっきりと語るのが、教会や私自身に示されている召命ですので、そのことに従わせていただきました。

この時のパウロのように、主は、私たちが危険や罠から免れていかれるように、前もって、使徒や教師や預言者を通して語られます。

また、最近、「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ。」という箴言の御言葉の語りかけを神様から受けました。

やはり、これから、背教を迎えるにあたって多くの人が信仰を捨てて、とんでもない方向にいく兄弟姉妹が続出する、しかも、それは弟子の歩みをしている人も該当するのでは?ということを主が前もって教えて下さったように思いました。

しかし、そうではあっても、主が示してくださったこと、語ってくださったことをますます語っていきたいと思いました。

今日の御言葉にあるように、自分自身と教会の人々のことをとりなしながらも、最後まで、主の召命に従って歩み、働きを担っていかれたらなぁと思いました。

本日も大切なことを語ってくださった主の御名がますます崇められますように、主に栄光を帰し、感謝します。