聖書箇所 使徒の働き22:22

 

22:22人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」と言った。

 

突然この箇所だけを読むと分かりづらいかも知れませんので、その前の流れについて少し話をしながら、本日の箇所を学んでいきたいと思います。

前章を読むと分かるのですが、この時パウロは捕えられたのですが千人隊長お願いして人々に弁明することが許されました。

22章の1節から読んでいただけると分かるのですが、パウロは人々の立場に立って聖書に基づいて一生懸命真理を語りました。

自分の生い立ちをはじめ、彼が以前この道(天の御国に通じる狭い道)を歩んでいる人々を迫害して牢に投じて死にまで至らせたこと、しかし突然天からのまばゆい光を受けて主からの声を聞いたこと、そして啓示が開かれたこと、その後キリストの証人になったことについて、論理立てて筋道を立てて順を追って話をしていました。

しかし、今日の箇所に書かれているように話の途中で人々から反論され、罵倒されてしまいました。

 

以前、礼拝のメッセージでこの箇所を学んだときに、真理を語る際に、両極端な反応があるということについて教えられました。

実は、このことは、今の時代にも通じることなのです。

受け入れる人、そうでない人、そして、どちらかと言えば、この時の人々のように受け入れない人のほうが圧倒的なのではないかと思います。

なぜ、そのようなことが言えるのか?と、言いますと、レムナントキリスト教会においても、御言葉に基づいて真理を語る働きをさせていだだいているのですが、残念ながらほとんどの人たちからあしらわれてしまい、時には妨害までされてしまうことのほうが多いからです。

 

ところで、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」の言葉ですが、どこかで聞いたことはありせんか?

イエス様が十字架にかけられる前に言われた時の言葉を思い出しませんでしょうか。

 

参照

19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」

 

今更言うまでもありませんが、イエス様は神様の御子です。

ですから、真理を語ることにおいてのプロです。

パウロも神様に召された伝道者としての素晴らしい器かも知れませんが、当然のことながらイエス様には及びません。

しかし、イエス様は神様です。

ですので、それこそ行く会堂行く会堂で完璧な福音を語っておられたはずです。

でも、そのイエス様ですら、この時のパウロと同様に人々から理解されずに十字架につけられて殺されたわけですから、ある意味、パウロがこのような目に遭ったことは、真理を正しく語る器としてのあるべき姿なのではないかという風に理解できると思います。

 

さて、言うまでもなくパウロの証言に反対したり口汚く罵ったりした人々は神様を信じる人々、いわば、新約で言うクリスチャンと呼ばれている人たちのことです。

なぜ、真理を正しく語るパウロに対して、このような態度を取ったのでしょうか。

それは、彼らが嘘・偽りを信じ、神の前に偽善的な歩みをしていたために真理を正しく理解できなかったからです。

彼らが信じていたこととのギャップがあまりにも大きく、真理とかけ離れたものであったので、正しく真理を受け入れることが出来ませんでした。

更に言うなら、神の民が変質していたという風にも言えます。

何を言っているのかというと、受けている霊が異なっていたのです。

人は、何らかの霊の影響を受けています。

ですから、クリスチャンも当然、何かの霊の影響を受けて歩みをしているわけです。

そして、どんな霊を受けるか、あるいはどのような霊に引っ張られるかによって、この世においての歩み方が変わってきます。

そして、このことは、後の日における結果に大いなる影響をもたらします。

クリスチャンだったら、誰しもが聖霊を受けていると、そのように考える人も多いと思います。

しかし、この時、パウロを迫害した人々は、聖霊を受けていたと思われますか?

少なくとも、私は、そのようには思いません。

もし、聖霊を受けているのなら、このような言動や行動を起こすことはありえないからです。

つまり、クリスチャンと言っても、皆が皆、聖霊を受けているわけでなく、反対にサタンの霊を受けている人がいるということを正しく御理解ください。

聖霊を受けるなら真理を理解しますが、聖霊以外の別の霊を受けているなら、いくらクリスチャンと称してもいつになっても真理を理解することはありません。

もっと言うなら、クリスチャンになって、何年、何十年と経て、毎週礼拝に行き、メッセージを聞き、奉仕をし、聖書を読み、祈っていたとしてもです。

重ねて申し上げるようで恐縮ですが、残念ながら、聖霊以外の霊では、真理について何も理解出来ないのです。

それは、神とサタンは何一つ共存することはないことと同じことであります。

 

参照 Ⅱコリント6:15

6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

 

そして、恐ろしいことに聖霊を受けていないなら、間違えて人を殺してしまうのです。

イエス様の十字架殺しに加担したのは、神を礼拝している言いながらも実際はサタンを父としていた人たちです。

皆様も御存知のように、パリサイ人、祭司長、律法学者をはじめとする大勢の群集でした。

パウロを迫害している人たちも、そういった類の人々です。

このことは、当時のイエス様やパウロの時で終わるなら良いのですが、新約の終わりを生きる私たちにも近い将来同じことが再現すると思われます。

まさに、今の新約の世の終わりのキリスト教界は、旧約の終わりの時のように多くの神の民が変質し、真理が曲げられているからです。

ですから、今の時代も正しく御言葉に基づいて話をする人は、ほとんどの人たちから相手にされません。

私自身もそうですし、教会の働きもそんな風に扱われているからです。

今は相手にされていないとか多少の批難や妨害される程度で済まされていますが、これから背教が本格的になり、反キリストが擁立していく時に、イエス様やこの時のパウロのように、鮮明な形で正しく真理を語る人々に、迫害や罵倒されるということが起こり、はたまた訴訟沙汰にまで持ち込まれ、あわや殉教に追い込まれていくのではないかと思います。

そして、迫害する人たち、つまり、悪しき霊の影響を受けている人々の目には、反対に聖霊を受けている正しい人が異端やカルトに見えてしまうのです。

たとえば、今、キリスト教界で言われている艱難前携挙説について間違えていることを御言葉から説明しても、そのことを盲信している人たちから言わせると、そんなことに異を唱えるほうがおかしいくらいに思われてしまうのです。

つまり、御言葉に書かれていない嘘・偽りを盲信している人にとっては、自分達が信じていることに間違いは無いことにどこまでも確信を持ち続け、反対にそのようなことを言う人たちを排斥することこそ正しいと、そんな風に思っているということを正しく御理解ください。

正しい人に悪口を言ったり、異端扱いしたりしていることを、悪いことどころか、むしろ、神の前に良いことをしているくらいに思っているのです。

本日の御言葉箇所は、まさしくそのことを証しているのではないかと思います

どうか、このことを正しく御理解ください。

ですから、今の時代もそうですが、これからは、真理を正しく語っていくときに必ずしも受け入れるわけではないということを覚えていてください。

それどころか、真理を正しく語り、堅く立ち続けていけばいくほど、反対に口汚く罵られていくと考えるのが正しいのです。

しかし、クリスチャンの本来のあるべき姿や模範はイエス様やペテロやパウロです。

状況はどうであれ、どこまでも正しく真理を解き明かすことです。

このポイントについては、正しく理解していてください。

そうでないと、正しく語っているのになぜ理解されないのか?とか、もしかすると自分はおかしなことを言っているのでは?と、混乱を招いてしまうからです。

反対があったり、反論があったり、人々からは相手にされなかったりと、ある意味そんなことを想定して語っていく覚悟が必要です。

極端な言い方をしてしまうなら、理解されなくて当然と考えていても良いかもしれません。

もちろん、すべての人が理解しないわけではありません。

しかし、きちんと真理を見ている人は、今の時代、稀であるということをどうか御理解ください。

ただ、ある意味、そのようなことは、この時のパウロのように迫害を契機に福音が伝わっていくことに通じることも覚えていてください。

と、いうのは、もし、私たちが正しく御言葉を語ったがゆえに捕らえられたときには、クリスチャンや異邦人の前で弁明をするチャンスとも言えるからです。

そのことを通して、真理を見る人が起こされることについて、聖書で前もって預言されて箇所がありますので参考までに見てみておいてください。

 

参照 マルコ13:9-11

13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。

13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません

13:11 彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

 

ですから、迫害されたり捕らえられたりすることについて、マイナスのことばかりを考えていたら損なのです。

もちろん、人間的に嬉しいかというと、私自身もどちらかと言えばそうではなく、避けたいとは思ってしまいます。

でも、そんなことばかりを気にして、真理を語らないほうが安全だと引いてしまうことのないように気をつけていきたいと思います。

万が一、そのようなことに遭遇したのなら、それは真理を語る千載一遇のチャンスという風にとらえていきたいと思います。

しかも、11節に書かれているように語ることは示されますし、聖霊が私たちを通して話してくださるのですから、何も心配するに及ぶことはありません。

一番大切なことは、そのような窮地に立たされた時においても、真理に堅く立っていくかどうかです。

このポイントをぜひ、覚えていてください。

そして、日々の信仰の歩みや働きや訓練において、このことを今から少しずつでも体得していかれることをぜひ、おすすめいたします。

真理を正しく解き明かしたい!と、そのように思われていても、日ごろの訓練や働きや成すべき備えをしていないのなら、いくら聖霊が語って下さるといっても、それは無理だと思います。

今までのメッセージの中でも語らせていただいていますが、「弟子の歩み」に徹していくことをおすすめいたします。

自称、弟子ではなく、真の弟子を目指して歩み、働きを担っていくのなら、これから先、いかなることに直面しようとも主と共に勝利を取っていかれます。

このことは、私が実際に弟子として歩みをしていて、あらゆることを通して実証されているので、はっきりとこのように申し上げられるのです。

ただし、主の前に忠実に歩んでいくことが条件です。

いくら弟子と称していても、必要な訓練や働きを怠っていたり、御心を行わなかったり、主から示されていることを悔い改めていかないのなら実現はしません。

モーセのように、全家を通じて忠実に歩んでいくことによって神様の栄光や御業を目の当たりし、ひとつひとつの戦いに勝利をしていくようになります。

そのように歩んでいくなら、この時のパウロのように、人からあざけられたり困難な目に遭ったりしたとしても、そんなことにも打ち勝っていかれるようになります。

「地上から除いてしまえ!」、と、正しく真理を語る人へのこの言葉は、これからキリスト教界で実際に起きてくると思われますが、そんなときにもひっくり返されることの無いように、今から、キリストの弟子として忠実と誠実を尽くして歩み、そのようなことにも正しく対応していきたいと思います。

地上においては、あらゆる苦難や困難が多くとも、正しく真理に立っていく人が勝利を得ていかれますので、そのような歩みにますます徹していきたいと思います。

 

まだ、群集として歩んでいた頃、パウロは大変だったなぁ、それでも最後まで勇敢に戦っていた人物だなぁと、この箇所に関してどこまでも傍観者の立場でした。

しかし、2年以上前から弟子として歩むようになって、これは近未来に、はたまた自分の身に、いつ起こってもおかしくないことだという風に考えるようになりました。

と、いうのは、個人においても教会の働きにおいても、キリスト教界の教えや常識とは反対のことばかりを語っていくという、いわば剣の戦いの中に、常時置かれているからです。

特別、好き好んで、キリスト教界のことを重箱の隅で突付くのが働きではありません。

そうではなく、今のキリスト教界のほとんどの教えが、聖書の御言葉と真逆のことばかりが語られているゆえのことだからです。

たとえば、艱難前中携挙説、クリスチャンは裁かれない、神はどこまでも愛だから誰も地獄へは行かない、このような教理が平気でまかり通っていますが、残念ながら聖書のどこを探しても、そのような御言葉は見当たりません。

そういった誤りや間違えた終末論に確信を抱き、再臨について誤解しているクリスチャンが多いので、御言葉から単に正しい方向を示すに働きを成しているに過ぎないなのですが、多くの人に嫌がれてしまいます。

私個人では、この時のパウロのように、直接的に罵倒されたり悪口を言われたりしたことはありませんが、人づてにそのようなことを耳にしたり、警告をしても全く無視されてしまうということばかりです。

でも、どこまでも、御言葉だけに真理があることを私は信じていますので、たとえ人からは相手にされなかったり攻撃を受けたりするようなことがあっても、警告の働きに徹していきたいと思っています。

本日の箇所を通して、正しい教えには猛反発があることを理解させていただく中で、ますます真理に堅く付いていくことの大切さについても教えていただき、感謝でした。

真理を語っていくにしたがって、ますます人々からの冷ややかな視線を受けていくかも知れませんが、主に憐れみを求めて、最後まで忠実に仕えていかれたらと思います。