聖書箇所 使徒の働き23:6-8

 

23:6 しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」

23:7 彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。

23:8 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。

 

本日も御言葉に沿ってみていきます。

 

その前に、パウロがなぜ引き渡されてしまったのか、そしてこの時はどんな時代であったのかについて簡単に説明させていただきます。

22章の後半から23節のはじめのほうを読むと理解できるのですが、この時パウロは議会に引き渡されました。

議会に引き渡されることは人間的に考えると嫌なことかも知れませんがパウロ自身はかえってそのことをキリストのことを証する良い機会としてとらえて「死者の復活」について話をしました。

ちなみにパウロがキリストの救いについての宣教に携わるようになってから一貫して言えることですが、彼はいつも聖書に基づいて論じていました。

聖書に基づいて正しい教えを語っていたのですが残念ながら当時のほとんどのユダヤ人(今で言うクリスチャン)からは全く受けは良くありませんでした。

それこそ聞く人々の立場に立って論理立てて順を追って筋道を立てて説明をしながら語っていました。

パウロは一人でも多くのクリスチャンに理解してもらえるように分かりやすく一生懸命語っていたのですが、どこの会堂(新約で言う教会)に行っても罵倒されたり迫害されたり牢に入れられたりしてしまいました。

それは当時の神の民が悪いほうへと変質してしまい、御言葉を曲解した教理を彼らが受け入れていたために正しい教えを理解することも受け入れることも出来なかったからです。

ですから、反対に聖書に基づいて正しく論じているパウロが異端者やカルト者に見えてしまい、そのように扱ってしまったのです。

 

順にみていきます。

 

23:6 しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」

パウロはパリサイ人でした。

22章を読むと分かるのですが先祖(モーセ)の律法について厳格な教育を受けて神様に対して熱心に仕えていました。

今の時代も熱心に神様に仕えているクリスチャンはとても多いと思います。

しかし・・・その熱心さが神様の前に正しければ良いのですが必ずしもそうとは言えないのです。

と、言うのは神の民と称しながらも、かつてパウロが行ったことは、この道(命に至る狭い道)を迫害して男も女も縛って牢に投じて死にまで至らせてしまったからです。

ところが突然天からまばゆい光に照らされて主からの語りかけを受けてパウロの目からうろこのようなものが取れました。

つまり神様からの啓示が開かれたのです。

それからパウロは回心してありとあらゆるところで6節に書かれているように「死者の復活」について宣べ伝えていたのです。

今の時代を生きる私たちにとってキリストが復活したことは当たり前のように理解していますが当時の人々にとっては受け入れられないことだったのです。

さて、「死者の復活」ということについて皆さんはどのように理解されているでしょうか。

少なくとも以前の私はこんな風に思っていました。

キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださって3日目によみがえった、そしてそのことを信じるなら救われて私たちクリスチャンも、たとえ死んでもキリストと同じように復活をする、そのように考えていました。

もちろん、それも間違えではありません。

しかし、その程度にしか「死者の復活」についてとらえていないのなら聖書の読み込みが今ひとつ浅い・・・もしくは、神様が本来伝えようとしていることをほとんど理解していないということになってしまいます。

厳しい言い方に聞こえてしまうかも知れませんが本当です。

また、その程度にしか理解されていないのでしたらクリスチャンの本来の歩みが成されていないということにもなってしまいます。

偉そうな言い方で恐縮ではありますが、これを読まれているあなたさまが、かつての私のように理解されているのでしたら、真の意味合いの「死者の復活」についてぜひご一緒に学んでみませんか?!

パウロが宣べ伝えていた「死者の復活」は、とっても大切なことだからです。

「死者の復活」とは、死んでからそのことを体験するだけでなく、この地上で生かされている間にも経験するものなのです。

しかもクリスチャンが時々ではなく毎日の生活の中で度々体験すべき非常に貴重なものなのです。

キリストが私たちのために死んでよみがえってくださったのはそのためなのです。

もし、私たちが後の世においてよみがえるだけだとしたら・・・この地上での信仰生活はあまりにも空しく何の望みも無いように思わないでしょうか?

回りくどい言い方になってしまいましたが具体的にはキリストと共に日々死ぬことを体験するのです。

何を言っているかというとすべてのことを十字架につけるのです。

すべてのこととは、「肉」いわば罪をつけるのです。

「罪」というと人を殺したり盗んだりとそんな風にとらえがちかも知れません。

確かにそれも罪ではあります。

しかし聖書で言われている罪とは良いものもそうでないものも生まれつきのものはすべて罪なのです。

生まれつきのものを聖書では「肉」と言います。

旧約聖書では度々「全焼のいけにえ」という言葉が出てきます。

「全焼のいけにえ」とは肉を焼くことです。

あなたがもともと素晴らしい才能や能力を持っていたとします。

しかし、どんなにうまくそれらのものを用いても残念ながら神様の前には受け入れられてもらえません。

どんなに素晴らしいものであっても、もともとの生まれつきのもの、人間的なものはすべて神様には全く価値がありません。

ですから、良いものもそうでないものもひっくるめて人間的なものはすべて全焼のいけにえによって焼き尽くされていかなければいけません。

全焼のいけにえとは単純にお祈りのことを指します。

お祈りをすることによって聖霊の力が働きます。

祈らなければ、そのまま何も変わることはありません。

しかし、働きをする前に祈ってしていくのなら、つまり全焼のいけにえを捧げていくのなら、聖霊の力だけに頼って働きをすることができます。

そしてそれは神様の前に尊く、受け入れられるものとなっていきます。

「死者」の「死」という言葉は「罪」と非常に密接な関係があります。

つまり、死者とは生まれながらの罪を持った私たちのことを言います。

しかし、そうではあっても生まれつきの良いもの、そうでないものも含めて、すべて十字架につけてキリストの力に頼っていく、生まれつきのどんなに良いものも神様に委ねてキリストだけの力によって生きていく、そのことを「死者の復活」、すなわち「よみがえりの信仰」というのです。

キリストは私たちを罪から解放する力があります。

どんなに弱く足りないと思っていてもそのこともキリストに委ねて頼っていくときに神様からの力が与えられて変えられていきます。

つまり、私たちの弱い部分や力の無い部分や人間的な部分を用いてくださりそのことを通して神様は御自身の御業や御栄光をあらわしてくださるのです。

もし、私たちがそのことを心から信じて実際に行っていくのなら必ず実態を目の当たりにしていくようになります。

ですから、私たちはどんなに些細なことであっても神様に祈り求めて神様からの力をいただいて成していきたいと思います。

そうしていくときに、度々、死者の復活を体験していくことになるのです。

パウロがここで言われている「死者の復活の望み」とは、そのような意味合いなのではないかと思います。

また、このことを日々体験していくこ人こそが聖書で言われているキリスト者、すなわちクリスチャンと言われる人なのではないかと思います。

そして、私たちが死者の復活の望みを体験していくことによって日々キリストの似姿へと栄光から栄光へと変えられていくのではないかと思います。

 

次を見ます。

23:7 彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。

23:8 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。

今更ではありますがパリサイ人とサドカイ人について少し話をしたいと思います。

パリサイ人は皆さんも御存知のように律法学者です。

今で言う、牧師、教師、指導者、そしてプロテスタントの信仰を持つ人々なのではないかと思います。

一方サドカイ人も、神を信じる人たちではありますが、今で言うカソリックの信者のことを指すのではないかと思います。

なぜかと言うと昨今カソリックのローマ法王は進化論を奨励し、キリストは復活をしていなかった等と言っているからです。

ここに書かれているようにパリサイ人は復活や御使いや霊についても信じていると書かれています。

にも、拘わらず7節を読むと分かるように両者の間に衝突が起こり、「死者の復活」についての議会は続きました。

両者共に聖書の言葉の意味合いを全く理解していなかったゆえにこのようなことが起こったのではないかと思います。

はじめに申し上げましたようにパウロは死者の復活についてもどこまでも聖書に基づいて論じていました。

しかし、彼らは聖書を曲解して信じていたためにパウロが言っていることが理解できず、ゆえに信じず、受け入れられず、その成れの果てとしてこのような事態を招いたのだと思います。

それもそのはずです。

これは新約の時代の私たちにも当てはまることです。

もし、私たちも聖書の御言葉を曲げてしまうならありとあらゆる混乱や混濁の中に巻き込まれてしまいます。

その一例を挙げるならクリスチャンは艱難を通らないという教えです。

聖書には「いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある」とはっきりと書かれているのですが、艱難前や艱難中にクリスチャンは挙げられるから艱難の前の備えの必要は全く無いということがキリスト教界では堂々と言われています。

艱難のための備えを怠らせるための敵の巧妙な罠にもかかわらず、ほとんどの人がこのことを盲信しています。

愚かにもかつての私も信じていましたが、ある時を機に神様の憐れみによってこのような嘘・偽りのとんでもない教理から目を覚まさせていただきました。

私たちはインターネットや礼拝、セミナー、出版を通して、そのような嘘・偽りのことについて聖書に基づいて説明しているのですが既にそのような教えが広がってしまっているために、この時のユダヤ人のようにクリスチャンがなかなか耳を貸そうとしてくれません。

真実と嘘・偽りが逆転しているにも拘わらず、皆が信じているから嘘であってもこっちが正しいと、そういうことになってしまうのです。

しかしこのことには全く御心がありません。

この時のパリサイ人やサドカイ人のように真理に向き合っていかないなら当人が自覚するか否かは別として、どんどん暗闇の中に入り込み、やがては全く真理が見えない状態になってしまいます。

それだけで済むのならいいのですが、そういう人たちは、パウロの時代と同様に、それこそ正しく御言葉を語る人に難癖を付けたり罵倒したり迫害したり・・・多少大げさに聞こえるかも知れませんが、恐らく艱難時代には訴訟沙汰に持ち込んで最後は死にまで至らせていくと思われます。

しかし、そのような結末は、明らかに「死」であることを御理解ください。

まかり間違っても天の御国を受け継ぐことは無いと思います。

本日の箇所に登場するパリサイ人やサドカイ人のことを決して他人事のように思わないでください。

御言葉を正しく理解しないなら、彼らの轍を踏むことは明らかです。

当時は「死者の復活」についての議論がなされていました。

しかし、今はどうでしょうか。

キリスト教界において何も議論が無いと思われますか?

だとしたら、あまりにも御言葉を楽観視していると言えます。

厳しい言い方ではありますが、それこそ盲目の歩みをされているのではないでしょうか。

新約の終わりには、少なくとも、終末・再臨についての議論がこれからなされていくと考えるのが正しいのです。

なぜかと言うとさっきも話しましたように艱難前携挙説、艱難を通らないという教え、まず、このことを受け入れている時点で聖書の御言葉から大きくズレているからです。

このことは終末・再臨についての正しい理解にいつになっても至ることはありません。

片方では艱難を通る、もう一方では通らないと・・・背教が本格的になっていくと、こういったことからまず議論が始まり、ありとあらゆる教理についての論争に次ぐ論争となり、次から次へと剣(教理)の戦いに入っていくと考えるのが妥当ではないでしょうか。

終末、再臨のことをはじめ、御言葉はどのようなことを語っているのか?これからどんな時代の入っていくのか?そのようなことに絶えず目を注いで真剣に向き合っていくことにポイントがあります。

私たちには何事も無いように見えても、この時のパリサイ人やサドカイ人のように教理に倒されている人たちがこれから更に増えていくと思います。

どちらかと言うと真理を正しく見ている人のほうが少ない、と、言いますか、稀なのです。

しかし、真理を正しく理解しないときに、正しい人を訴えたり間違えて人を殺したりしてしまうことになります。

このことは後の世において神の御怒りの裁きを招いてしまいますのでくれぐれも気をつけていきたいと思います。

ですから、どうか、一にも二にも、御言葉に正しく立ち返っていかれることをおすすめいたします。

人間的な思いや考えや固定観念、これらのものをすべて十字架につけていくときに、真理を見出すことが可能になります。

主の前に心をへりくだらせて「神様、真理とは何ですか?教えてください」とお願いしていくときに、少しずつでも見えていくようになるのではないでしょうか。

このようなことにおいても、死者のよみがえり、キリストの復活の力をぜひ、利用されてみてはいかがでしょうか。

そして、わずかでも真理を見せていただいたのでしたら、パウロのように他の人々も見えるような手助けをしていきたいと思います。

 

レムナントキリスト教会に行くようになり弟子の歩みに入ってから自分の弱さや足りなさというものを更に自覚するようになりました。

しかし礼拝のメッセージや弟子訓練のおすすめを通して主イエス・キリストの復活の力に頼っていくことの大切さについて学ばせていただき、祈りと御言葉が信仰のありとあらゆる土台になっていくことを理解しました。

祈りを通して弱いところが強められ、しかも、それがキリストの力によって変えられていくということを信じて少しずつでも実践するようになりました。

私は人前で何かをするということがとても苦手です。

また、文章を書くことも苦手です。

学生時代、作文や感想文や論文のことを考えるだけで憂鬱でした。

ですから、こんな風にメッセージを執筆しているというのは私にとって、いまだに夢のような事です。

しかも、もともと、とても内向的な性格なので人と接することをはじめ、人の前で話すことにも、とても抵抗を感じるほうです。

でも、そんな私が今では時折、礼拝やセミナーで、証もさせていただいています。

本来の自分のことを照らし合わせると、どれもこれもが全く考えられないことなのですが「全焼のいけにえ」、お祈りによって完全ではありませんが少しずつ変えられてきつつあります。

まだまだ変えられなければならない部分は山ほどありますが、一つずつ主に委ねていかれたらなぁと、そしてこれから主が私のことをさらにどんな風に変えてくださるのかを楽しみにお祈りする毎日です。

そして、本日のメッセージを通して、日々、死者の復活の力を体験して、このことの大切さについて自分自身が改めて教えられて感謝でした。

このような大いなる恵みにあずかることができました者として、一人でも多くの人にこのことを伝えていかれたらなぁと、そんな風に思っています。

どんなに力が無い、不足が多いと思っていても、私たちが神様に心から委ねて助けを求めていくときに神様はそのことも益として用いてくださるお方なのでますます復活の力により頼んでいくことは大切なのではないかと思いました。

本日もとても大切なことを教えてくださった主に栄光がありますように。