聖書箇所 使徒の働き26:12-18

 

26:12 このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、

26:13 その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。

26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

26:15 私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

26:16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。

26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

ここでパウロはイエス・キリストによって回心したことについて王たちの前で弁明しています。

この箇所を通して私たちが学ばなければいけないことがいくつかあります。

それは今まで何度かメッセージで書いていることですが、クリスチャンと呼ばわれている人が必ずしも天の御国を相続するわけではないということです。

また、18節の「彼らの目を開いて~」とありますように、霊的な目が開かれることがとても大切だということです。

この点に沿って話をしていきたいと思います。

 

この章をはじめから読むと分かるのですがパウロは、もともとは厳格なパリサイ派に従ってクリスチャン生活を送っていた人でした。

クリスチャンなんだから、何も問題なんてないじゃない?と、おっしゃるかも知れません。

以前の私も、ここの箇所を読んだ時に、今ひとつピンとこないことが書いてあるなぁと思っていました。

クリスチャンは皆天国へ行けるのに、なぜ、パウロはわざわざ回心させられる必要があったのかと・・・

でも、今は、弟子として歩んでいく中で、その意味合いについて少しずつ分かるようになっていきましたので話をさせていただきます。

14,15節を読んでみると分かるように以前パウロはイエス・キリストを迫害していました。

神様を信じて厳格なパリサイ派としてクリスチャンとして歩んでいたパウロがイエス様を迫害していたのです。

今の新約時代を生きている人々の中でイエス様を迫害するクリスチャンは果たしているでしょうか?

恐らく、ほぼ、皆無だと思います。

でも、パウロの時代、ナザレのイエス=異端者だったのです。

私たちの救い主が異端呼ばわりですよ。

びっくりではないでしょうか。

だとしても、このことは実際に起きたことです。

まさに、当時の宗教に熱心なパリサイ人や律法学者がイエス・キリストを迫害して十字架につけたことがそのことを証しているのではないでしょうか。

十字架につけて殺した人たちは天の御国を受け継いだでしょうか?

それは、ありえないことです。

聖書を読んで理解できることですがイエス・キリストを十字架につけた人々は一人残らず皆裁かれてしまいました。

ですから、この時点ではパウロも天の御国の後継者とは神様から見なされていなかったことがお分かりになるかと思います。

クリスチャンと名が付いていても、どんなに厳格な派に属して歩み働きをしていたとしても、神様の前に正しくないならば、天の御国を受け継げないタイプのクリスチャンがいるということを、どうか御理解ください。

そしてパウロは天からの光を受けてイエス・キリストが救い主であるという風に方向を変えました。

今まで迫害していたイエス・キリストを主として崇めるようになったのです。

このことはパウロにとって天地がひっくり返るような事柄でした。

17節に語りかけがあります。

「この民と異邦人との中からあなたを救い出し彼らのところに遣わす」と書かれている部分に注目してください。

このところから真の意味合いでパウロが救われていなかったことが理解できます。

また、この表現からパウロだけでなく、この民、つまりクリスチャンの大半も救われていなかったことが理解出来ます。

このことから、「神の民(クリスチャン)と言われている人々がまともに救われていないから、あなた(パウロ)を私()は選び、神の民と神を知らない人々(異邦人)に私()があなた(パウロ)に開く啓示を語らせるためにあなた(パウロ)を遣わす」と、この箇所についてそのように私は読み取りました。

続いて18節にも少し驚くことが書かれています。

「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ・・・」とありますように実は多くのクリスチャンが暗やみの中にいるという風に理解できます。

それまでのパウロもそうであったように、この時代の多くの神の民は暗やみの中を歩んでいました。

なぜ暗やみを歩んでいたのか?

「彼らの目を開いて」と言われているように、目が開かれていなかったからです。

何を言っているかお分かりでしょうか。

空が見える、あそこに鳥が飛んでいるとか、そういうことを言っているのではないことは分かりますよね。

聖書で言われている「見える」とは霊的に見えること、すなわち啓示を理解しているということです。

もっと優しい言葉で言うなら聖書の御言葉を正しく読み取るという意味合いです。

このことに関連して証と言いますか、私自身が感じたことについて少し話をさせていただきます。

私自身、弟子として歩みをするまで「霊的に見える」ということに関して今ひとつピンと来るものがありませんでした。

しかし弟子として歩みをしていく中で、霊的に見えるかどうかというのはクリスチャンの死活問題にかかわってくる、もっというなら永遠の命を左右すべくとても大切な事柄であるということを理解しました。

「何を大げさな!」と、おっしゃるかも知れませんが、最近Ⅰコリント人への手紙の中で学んだことですが、奥義(啓示)を正しく悟るかどうかによってイエス様の時代の人たちは後の世における区分をもたらされたということを理解しました。

このことを旧約の時代の人たちだけだという風にとらえたいかも知れませんが、旧約と同じ神様が新約の私たちに対しても全く同じことをされると考えるのが正しいのではないかと思います。

だとすると、神様によって霊的な目を開いていただく必要があるのではないかと思いました。

そのようなことをきっかけに、私自身、日々、主を恐れ、へりくだって「啓示を正しく理解できますように、正しく御心を行うことができますように」という風にわずかでもお祈りをするようになり、このことは、今ではとても良い習慣となっています。

 

何を申し上げているのかと言うと、かつての私のように、自分は見えている、知っていると思われているクリスチャンが多いのです。

しかし現実、誤解の中を歩んでいるクリスチャンがキリスト教界を覆っています。

たとえば、キリストの再臨や終末に関してどれほどの人が正しく認識しているでしょうか。

かつての私もこのことに関して全く無知でありました。

キリストの再臨はすべてのクリスチャンにとって最高の時!ハッピーきわまりない時であると。

また、終末は、大リバイバルが起こる時、多くの未信者が救われる時、そして艱難の前に携挙があるのでクリスチャンにとっては良いことばかりだと。

確かにこれから異邦人向けへの救いに流れは変わりつつあるとは思います。

しかし、それと同時に神の家(クリスチャン)の裁きが始まるということについては何も考えていませんでした。

しかもキリストの再臨の時が背信の教会や背教のクリスチャンの裁きの時であるとは夢にも思っていませんでした。

いかがでしょうか。

この文章を読まれているあなたさまには全く心当たりは無いでしょうか。

このことはメッセージの中で何度か証をさせていただいているのですが、私の場合、ある時を境に、パウロほど劇的ではありませんが、エレミヤの部屋のホームページのメッセージを通して、また、弟子として歩みをしていく中で神様の憐れみによって霊的な覆いが少しずつ外されていきました。

うまく表現出来ませんが、メッセージを読んでいく中で、心の内側に、ある種の衝撃のようなものを覚えました。

それらのことをきっかけに、少しずつではありますが以前とは比較にならないほどに色々な啓示を理解できるようになりました。

クリスチャンが艱難時代を通ること、天の御国への道は本当に狭いこと、神様の御心を行うことは容易では無いこと、背信の教会やクリスチャンへの神様の御怒りが頂点に達していること等。

今、キリスト教界で盛んに強調されている艱難前携挙説や神様はどこまでも愛のお方だから誰も裁かれないという教理とは全くかけ離れていることばかりです。

しかし、聖書が語られていることのみが真実ですので、ぜひ御言葉を恐れていきたいと思います。

先に申し上げたように、誤解の中を歩んでいるクリスチャンが今の時代も溢れています。

神様がパウロに対してそのように言われたように、そういった方々に啓示の光を少しでも照らしていくのが、クリスチャンの本来の召命であることを正しく御理解いただきたいと思います。

ですから当レムナントキリスト教会では、主からの召しに背くことのないように神様から見せていただいたことや聞かせていただいたことについて、周囲のクリスチャンにお知らせしています。

このことは警告の働きとも言えることですので、人受けはあまり良いものではありませんが、預言者としての召しを忠実に行えるように教会では絶えず主に助けや力や知恵や方法や導き等を祈り求めています。

つまり、啓示を見たら正しく伝えていくことにポイントがあるのです。

分かりやすく言うと、霊的に見えるようになったら見えない人の手助けをしていく、そういった働きに御心があるのです。

人々から受け入れていただけるかどうかは別として、私のように助けられた人が一人でもおこされるための大切な働きです。

しかも、この働きを正しく担うことは、人の目にはともかく、神様の目から見てとても尊い働きと言えるのです。

キリスト教界では言われていないことですが、明らかにこれからキリスト教界は暗闇の勢力に覆われていきます。

このことを真剣にとらえるなら、今のうちに啓示を正しく理解していく必要があります。

なぜかと言うと、これから艱難時代に入った時に「その日悲惨なのは身重の女や乳飲み子を持つ女」と言われているからです。

御言葉は「堅い食物」や「乳」にもたとえられていますが、「身重の女や乳飲み子を持つ女」とは御言葉の乳、柔らかい食物しか食べられない教会や信者を指します。

つまり、「堅い食物」であるたとえの意味合いや御言葉の奥義に達していないゆえに艱難時代に何が起きているのかを全く理解できない、ゆえに艱難に耐えることができない、あるいは奥義を理解していないためにキリストを十字架につけたパリサイ人や律法学者のように、正しく御言葉につくクリスチャンを迫害して殺してしまう、そのようなことを悲惨だと言われているのです。

ぜひ、本日の箇所から、学びをしていただきたいと思います。

クリスチャンと言われる人であっても人前はともかく必ずしも神様の前に救われているわけでないこと。

つまり、天の御国の後継者になるわけではないということです。

パウロですら、天からの光を受けるまで、そのように見なされていなかったということを今一度正しく御理解ください。

また、霊的に見えるようになることをぜひ、祈り求めてください。

繰り返すようですが、奥義を悟るか啓示を正しく理解するか否かによって、神様の前に区分がもたらされ、天の御国を受け継ぐかどうかの大きな分かれ道になってしまうからです。

そして、啓示が開かれたのなら、ぜひ、そのことを周囲のクリスチャンたちに宣べ伝えていきたいと思います。

主の弟子として歩み、求めていく人にはこの時のパウロのように必ず開かれていきます。

このことを信じて、実践していくことによって、多くの義の実を結ばせていくようになります。

一見損のように感じることかも知れませんが、実践していくと明らかなのですが、祝福に祝福、恵みに恵みと、勝ち得て余りのあるような歩みに入っていかれますので、ぜひ、おすすめいたします。

そして、後の世において主からの朽ちることの無い勝利の栄冠や誉れを受けていきたいと思います。