聖書箇所 使徒の働き27:9,10

 

27:9 かなりの日数が経過しており、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して、

27:10 「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます。」と言った。

 

本日も御言葉に沿ってみていきたいと思います。

 

メッセージの前に。

27章からメッセージさせていただくために何度か繰り返し読んだのですが、なかなか、啓示が開かれませんでした。(単に読みが甘いだけなのかも知れませんが)

しかし、何となく、こんなことを語っているのかなぁと、最近ようやく主の語りかけをわずかではありますが、私なりにとらえさせていただいたことについてメッセージをさせていただきたいと思います。

そして、上記の箇所が導かれました。

日本語だけだと、少し分かりづらいので、英語訳を参照してみることにします。

 

27:9 Now when much time had been spent, and sailing was now dangerous because the Fast was already over, Paul advised them,

27:10 saying, "Men, I perceive that this voyage will end with disaster and much loss, not only of the cargo and ship, but also our lives."

 

以前から申し上げているように私は英語が苦手なのですが、直訳させていただきますと、こんな風に読み取れます。

9

「船の中で長い時間を過ごしていました。

しかし、航海は危ないものとなりました。

すでに断食が終わっていたので、パウロは人々に忠告をしました。」

10

「皆さん、この航海が災害によって終わりになり、積荷と船だけでなく私たちの命を失うことに私は気づいています。」

良いかどうか分かりませんが、概ねこのような訳になります。

 

ちなみに27章ではパウロが百人隊長や囚人や働き人と共に航海をしたことについて書かれています。

9節、10節は、そのさなかにパウロが人々に警告を与えている箇所です。

皆さんもよく御存知のように「船」は、航海に欠かせないものです。

しかし聖書は、たとえが使われている書物ですので、ここで言われている「船」とは何を指すのかにについてぜひ、学びをしていただきたいと思います。

「船」は教会を指します。

ですから「航海が危ない」とは、教会が危なくなるということを言われています。

何を言っているのかというと・・・次に書かれている「断食」についても、たとえを理解されると分かりやすいかも知れません。

「断食」というと、私たちが単純に食物を絶つということをイメージしますよね。

ちなみに聖書で言う「食物」とは「御言葉」や「教理」に通じます。

また、聖書の注釈を読むと「断食」について「贖いの日」と書いてあります。

断食と贖いが何か関係しているようです。

つまり、ここで言われている「断食」とは正しい教えを受けないこと、ゆえに教会での贖いが危なくなるということを9節では語っているのではないかと思います。

もっと分かりやすく言うなら、教会から聖霊の働きが消えていくという風な意味合いにも取れるのではないでしょうか。

それに続くかのように10節のことが書かれています。

「航海が災害によって終わりになる」と。

なぜ、そんな風になってしまうのでしょうか?このことが一体何を言われているかお分かりになりますでしょうか?

27章を最後まで読むと分かるのですが、パウロたちが乗っていた船は、最後は破損しました。

ただ、繰り返すようですが、ここでもたとえの意味合いを理解しなければ何を言っているのかさっぱり分からないと思います。

「航海」とは教会の働きのことを言われているのではないかと思います。

教会の主な働きは、伝道、つまりメッセージや御言葉に関することです。

つまり、「航海が災害によって終わる」とは、教会の働き、すなわち教理が敵の手によって破壊されるということを言われているのではないかと思います。

理由なくして、教会が崩壊することはありません。

これは、パウロの時だけでなく、今の時代にも当てはまることですので、よく覚えていてください。

それは、クリスチャンが御言葉を後ろに投げ捨ててしまっていることのゆえのことなのです。

毎週毎に語れる教会でのほとんどのメッセージは、教会や信者の霊的な建て上げどころか、そのメッセージを聞けば聞くほど、霊的な荒廃を招くものばかりなのです。

とても辛辣な言い方で恐縮ではありますが、今のキリスト教界の現状はそういう感じではないでしょうか。

このメッセージを読まれている皆様はクリスチャンと名前が付き、一度救われてしまえば皆天国へ入れるとか携挙があるのだから艱難時代はクリスチャンには全く関係が無いとか神は愛のお方だから決して裁かれることはない、裁きは未信者だけだと、礼拝や聖会や各集会においてそのようなメッセージを聞かれたことはないでしょうか。

人間的には耳障りや聞き心地が良いので、これらの教えに異を唱える人や疑問を抱く人は非常に少ないと思います。

しかし、このようなものは人目には全く問題が無くとも、残念ながら、どれもこれも神様の御怒りを引き起こすものばかりです。

まさに、御言葉を投げ捨てている教えと言っても過言では無いのです。

もし、これを読まれているあなたさまが、今までそのことを知らなかったのでしたら、ぜひ、これを機に、悔い改めていかれることをおすすめいたします。

つまり、教会やクリスチャンの背信のゆえに、正しい教理が敵の手に奪われてしまい、おかしな教理に教会が席巻されていき、たとえ、教会が目に見える建物としては何ら変わりが無いようにみえても、霊的な事柄が変質してしまうということを10節では言われているのです。

もはや聖霊ではなく、悪霊の働きが繁盛していくので、教会の働きやお一人一人の信仰が崩壊していくということを語っているのではないかと思います。

ですからパウロは前もって「私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶ」とそのように警告されたのだと思います。

今の時代にも、パウロの時のように警告を語るという働きがあります。

当レムナントキリスト教会でも、そのような働きの一端を担っております。

しかし、残念なことに真の意味合いで耳を傾ける人はあまり多くはいません。

また、聖書が一貫して言われていることですが、教会やクリスチャンは時代と共に滅びへと向かっていきます。

このことは聖書の基本です。

分かりやすく言うなら、時が経てば経つほど、ありとあらゆるおかしな教理によってキリスト教界やクリスチャンが侵食されていくということです。

多くのクリスチャンがあたかも永遠の命を得るのは余裕だ!クリスチャンになって洗礼も受けて礼拝にも行っているんだから何も心配無い!と、そのように思われておられるかも知れませんが、実際にはどうでしょうか?

私自身、時代が流れていき、時を経れば経るほど、永遠の命を得るのは非常に困難なことなのでは?と、いう風に御霊に痛切に感じています。

なぜかというと、さきほど申し上げたように、時代と共に教会は荒廃へと向かっていくことを聖書では明らかに語っているからです。

ここに書かれているように「危害と大きな損失」が教会だけでなく、信徒のお一人一人に及んでしまったらどうなってしまうでしょうか。

聖書では、このようなことをさらっと書いていますが、もしも、このことが実現してしまったら、死後、約束の地(天の御国)を受け継ぐのは難しいと思います。

そして、パウロがあえて、このように語ったことは、新約の私たちへの警告であるということをぜひ、御理解いただきたいと思います。

繰り返します。

教会が正しく歩まない時に、崩壊を招くということをぜひ覚えていてください。

具体的には聖書を曲解したり、おかしな教えを盲信したりして、神様の言われていることに背いてばかりいるときに、そのような深刻な事態を招いてしまいますので気をつけていきたいと思います。

また、先日、礼拝の中で、「船」にたとえられている「教会」に関しての学びをしたときにこのようなことを教えていただきました。

「教会」は、御言葉の食事をする場所であるということ。

そして、どこの教会に行き、どんな食事をするか?それによって、祝福に満ちたクリスチャン生活を送るのか?はたまた、トラブル続きのクリスチャン生活を送ってしまうのか?その結果、死後、どちら(天の御国or)に行くのか?しかも、それらのことは個々におけるクリスチャンの判断や自己責任であるということについて、とても大切な学びをさせていただきました。

私もこのことに共感しています。

参考までに、そのことに関連する証を少しさせていただきます。

私は約3年前にレムナントキリスト教会に導かれました。

つまり、以前通っていた教会を出て、レムナントキリスト教会で礼拝を捧げるようになりました。

教会の牧師や信徒の方々に特別不満があったわけではありませんでした。

しかし、離れなければならない理由が一つだけありました。

それは、食事、つまり、メッセージのことでした。

すべてが間違えているわけではありませんでした。

感銘を受ける教えも沢山ありました。

しかし、前にも同じようことを証したかも知れませんが、唯一、永遠の命に関するメッセージについては、御言葉とは正反対のものでした。

もちろん、聖書には様々な教えが書かれています。

しかも、どれもこれも、なおざりに出来ないものであることも確かです。

寛容な心になっていくことや憐れみ深く情け深い者になっていくことや隣人を愛することをはじめ、数々の素晴らしい教えについて書かれています。

ただ、そうではあっても、もし、永遠の命に至らないメッセージを受け続けるなら、後々になって裁かれてしまうのでそれだけは、何が何でも避けたいと思いました。

以前は、艱難前携挙説について何ら疑問を抱いていなかったのですが、エレミヤの部屋のホームページのメッセージを通して、真実を知り、正しく御言葉を学んでいかなければ、大変だ!と、思うようになり、主に祈るようになりました。

正直、教会を離れるのは人間的には嫌だったので、牧師が霊的に目覚めてくださればと思い、半年位、そのことで祈りました。

しかし、神様の御心は私がその教会を離れることでした。

教会を出る約2ヶ月前のことでした。

その日、いつものようにメッセージを聞いていたら、手がしびれてきました。

メッセージの内容は、携挙についてでした。

「私たちは、艱難が来る前に挙げられるんですよ。だから大丈夫です。」と、そんなことを聞いているうちに体に変調を覚えました。

礼拝後に、手のしびれは徐々にひいてきたのですが、私自身に内住している御霊が、そのメッセージに猛烈に反発していることが分かりました。

今にして思うと、「もう、この教会を出なさい」という主からのサインだったのだと思います。

それから2ヶ月も経たないうちに、レムナントキリスト教会に導かれました。

新しい教会なので、行く前までは多少なりとも不安がありましたが、実際に礼拝に出席させていただき、思い切って行ってみて良かったなぁと思いました。

そして、「ここで、学びや働きが出来たらなぁ」と思い、主の前にはっきりと決意をさせていただき、それから主の導きで今日も集わせていただいています。

教理から聖書を学ぶのではなく、聖書の御言葉から教理を学んでおられるエレミヤ牧師を通して、信仰のあり方についても学ぶことや教えられることが多々あり、とても感謝でした。

さきほど、メッセージの中で、どこの教会に行ってどんな食事をするのかが大切だということを語りましたが、どんな器から学びをするのか、つまり、メッセンジャーを選ぶことも、とても大事なことだと思います。

それによって、命に至るか否かが、大きく左右されてしまうからです。

また、私自身も、わずかながらも御言葉に関わる奉仕に携わっていますので、命に至るメッセージを執筆できるように祈り求め、実践していきたいと思います。

そうでないと、後の日において、最悪、裁かれてしまうからです。

 

今は、世の終わりです。

残念ながら多くの教会やクリスチャンは10節に書かれているような道を辿っていると思います。

意味の無い「航海」を続けているあまり、つまり、神様の御心でない歩みや働きのゆえに、破壊・崩壊へと向かっているのではないかと思います。

それは、自覚しようとそうでなかろうと、聖書の言われていることから外れているなら、残念ながらそのようなことが実現してしまいます。

ですから、10節で言われているような警告を受けたときには、ぜひ、素直に聞き入れていきたいと思います。

たとえ、周囲の教会やクリスチャンの言っていることとは違っていたとしても、聖書で言われていることを尊重していくときに、教会の働きや信仰が覆されることはありませんので、どこまでも主の言われていることにとどまっていきたいと思います。

これからは、警告を聞くかどうかによって、神様の前に大きな区分をもたらします。

パウロが人々に警告を発したのですが、しかし、結果としては聞き入れなかったためパウロたちが乗っていた船は危害や損失を被ってしまいました。

この時は船だけで済んだのですが、人々の命にも及ぶ可能性も往々にしてあり得ますので、くれぐれも気をつけていきたいと思います。

繰り返すようで恐縮ではありますが、特に今は、多くの嘘や偽りや不法がはびこっているので、永遠の命を得るのが難しい時代です。

ですから、今の時代にも、警告の働きがあるのです。

そして警告を聞いたときには、そのことをたわごとと思わずに、ぜひ、正しく御声に応答していきたいと思います。