聖書箇所 出エジプト記11:10

 

11:10 モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくな(KJV:堅い)にされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。

 

「心をかたくなにされてしまうときに」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

上記箇所において、モーセとアロンがパロの前であらゆる不思議を行ったことを言われています。「不思議」とは、私の想像では恐らく神さまのみわざのことを言われていると思います。けれども、そのような神さまの偉大なるわざを目の当たりにしながらも、パロの心はかたくなでした。

 

今回は、「かたくな」ということばを通して、神さまがこのようなことを言われているのでは?ということについてお話ししたいと思います。

 

さて、ここでひとつ理解しなければいけないことがあります。「主はパロの心をかたくなにされ」とありますように、心がかたくなになってしまうのは、神によってそうなってしまう、ということです。これはどういうことなのか?と言うと、ひとつは、皆無かどうかは分かりませんが、自分で意識してかたくなになる人はほとんどいない、ということではないかと思います。また、もうひとつとして、私たちの目には見えない神さまによってかたくなにされてしまうので、気付かない間に、知らない間に、いつの間にかかたくなっているので、かたくなにされてしまった当人は、ほぼ何も気付かない、まさか自分がかたくなだなんてことは夢にも思わない、ということを言われているのでは?と思います。ここに登場するパロ王がまさにそうではないでしょうか?神さまは明らかにイスラエル人をエジプトから出て行かせるようにアロンやモーセを通して示しておられたのですが、しかしパロ王は、アロンやモーセが間違えていて自分こそが正しいと、つまりイスラエル人を出て行かせずに留めておくことは正しいことだと、どこまでも思い込んでいたのです。そしてそのような思いは、すなわちかたくなな心は神さまから来たものだったのです。また、「かたくな」ということばが他の箇所にもありますので、よろしければ参考までに紹介しておきますね。

 

参照 ローマ人への手紙2:5

2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

 

それで、「かたくな」ということですが、この世はともかく、少なくとも聖書では良いことを語っておりません。また、そのことは永遠の命に大いに影響するのでは?と思いましたので、そのことを少し見てみたいと思います。その前にどういうタイプの人が神さまによってかたくなになってしまうのか?を見てみましょう。

 

参照 使徒の働き7:51

7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

 

「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。」と書かれています。つまり、「かたくな」と「心と耳に割礼を受けていない」ということは、密接な関係にあることが分かります。「割礼」とは、肉体の一部を切り取ることも一面言われていますが、しかし「心と耳」とありますように、霊的な事柄のことをも言われています。そして、「肉を切り離す」という意味があります。「肉」とは、「罪」のことを言われていますが、それと同時に「生まれつきのもの」という意味合いもあります。そして残念ながら、「肉」すなわち「生まれつきのもの」は、「聖霊に逆らっている」とありますように、聖霊と共存は出来ません。

 

私たちがノンクリスチャンからクリスチャンに新生することは非常に尊いことではあるのですが、しかしながら、御霊によってではなく、元々の生まれつきの性質で信仰の歩みをしてしまうときに、特別意識はしなくとも、「かたくな」になってしまう可能性があるのです。正確に言うなら、神さまによってかたくなにされてしまう可能性があるのです。ここで知っていただきたいことがひとつあります。それはクリスチャンの歩みは一様ではなく、二つのパターンがある、ということです。御霊によって歩むか?それとも肉(生まれつきの性質)に従って歩むか?です。そして両者共に、クリスチャン生活は成り立つ、というのも一面の事実です。また、それは一見では分からない、あるいは人前では区別しづらい、ということも言えるでしょう。けれども神さまの前には赤裸々でありまして、また、個々におけるクリスチャンの歩みに応じて対応をなされるのでは?と思います。

 

どんな風に?と言うと、肉、すなわち生まれつきのままに歩むクリスチャンに対しては、心をかたくなにされてしまわれるのではないかと思います。そうです。「主はパロの心をかたくなにされ」とある通りであります。ただし、いきなりそうはなさらないと思います。それこそパロに対してもそうであったように、アロンやモーセのように心と耳とに割礼を受けている神の民、すなわち御霊によって歩むクリスチャンを通して神さまはあらゆるわざをなし、そのことを、割礼を受けていないクリスチャンの前でも行うのです。あるいはお知らせするのです。なぜ、そうするのか?と言うと、そのようなことを通して肉によって歩んでいるクリスチャンを悔い改めへと導き、御霊によって歩みができるようにするためなのです。絶対にそうだ!とは断定はできませんが、今回の箇所で、「ふしぎをみな行った」ということをも言われていますので、恐らくそうなのでは?ということが言えると思います。ですから、神さまは人の心をかたくなにして、それで全て終わり、というのではなく、それと同時に悔い改めのチャンスも与えておられる、という面も正しくとらえておきましょう。そういった意味合いでも、神さまは愛に富み、憐れみ深く情け深く慈しみ豊かなお方である、ということが言えると思います。

 

ではあるのですが・・・神さまのみわざを見ながらも、しかしいつまでも悔い改めずに、かたくな心のままに歩み、それで生涯を終えてしまう場合にどうなるのか?についても見てみましょう。

 

参照 ローマ人への手紙2:58

2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

2:6 神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

2:7 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

2:8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

 

5節では、「御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」とあります。そうなんです。かたくなになって悔い改めないというときに、神さまに対して怒りを積み上げることになってしまうのです。「さばき」とは、この世でもそうかも知れませんが、もしかすると後の世における「さばきの座」のことをも言われているのではないか?と思います。ヘブル人の手紙には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とありますように、私たちは誰一人として神のさばきを逃れることはできません。そしてその時に神さまの怒りが積み上がったままの状態のままでさばきの座に立った場合に、8節「怒りと憤りを下されるのです」のことばが、そのまま成就してしまうのではないか?と思われます。これってどうでしょうか?天の御国に入れるでしょうか?私個人はかなり厳しいのでは?と思いますが、いかがでしょうか?ゆえに、いつまでも心をかたくなにしていたり、悔い改めないのは、神さまの前には全く御心が無いのでは?と思うのですがどうでしょうか?もし、何かお心あたりがありましたら、直ちに悔い改めていきたいと思います。そしてかたくなな思いから解放されていきたいと思います。

 

では、さいごに神さまにかたくなにさせられないためにはどうしたら良いか?について少し話をして終わりにしたいと思います。このことに関しては、先ほどの使徒の働きからヒントを得ることができます。「心と耳とに割礼を受ける」ことがその答えだと思います。つまり、生まれつきの性質ではなく、御霊によって歩むことではないかと思います。そうしていくなら、かたくなな心にならないように神さまから守りが与えられていくのだと思います。しかしそうではあっても、時として罪を犯してしまうこともあるかと思いますが、その時にはすぐに悔い改めていきたいと思います。そうするなら、かたくなにされることはないと思います。そう、ポイントとしては、絶えず御霊によって歩んでいくことではないかと思います。

 

ちなみに創世記には、「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」ということが書かれています。このことは割礼を受けていない、すなわち肉が切り取られていない、もっと言うなら、生まれつきのままで歩み続けていき、それで生涯を終えてしまう場合に、「その民から断ち切られなければならない」ということばがそのまま成就してしまうことを言っていると思います。これは恐らく、クリスチャンであっても、無割礼のままですと、クリスチャンと見なされないので天の御国に入れない、ということを言われているのではないかと思いますので、ぜひ、心と耳とに割礼を受けていきたいと思います。そうしていくときに、心が神によってかたくなにされることもなく、生涯にわたって全うしていくなら天の御国が約束されていくと思われますので、そうかも知れないなぁ、なんて思われた方には、ぜひおすすめいたします。よろしければこのようなこともご理解いただけると、幸いに思います。

 

※余談ではありますが・・・

数ヶ月前に、エレミヤ牧師が「契約を守る」ということに関連して礼拝の中でメッセージをされていました。音声メッセージを拝聴されている方は、すでにご存知かと思いますが、「割礼」に関して、とても大事なポイントを語っておられましたので、よろしければ紹介しておきます。もしかすると、こちらのコーナーでも掲載させていただいたかと思いますが、何度読み返しても、大事だなぁと私個人は思っていますので、リピートになってしまうかもしれませんが、御心を感じましたらお読みください。以下は、エレミヤ牧師によるメッセージです。

 

〔聖書箇所〕詩篇105:10,11

105:10 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。

105:11 そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」

 

10節の「永遠の契約」ということばについて見てみたいと思います。一般的に「契約」とは、お互いの条件を全うして成り立つものです。たとえば家を借りるというときに、大家さんのほうで条件を出して、私たちがそれをのんで家賃を払うなら、家を貸してもらえます。また、アブラハムは、新約のクリスチャンの型でもあります。ゆえに「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」という祝福が私たちにもあります。ただし、「これを守りなさい!」というものがあります。

 

そして、11節では「祝福」について書かれています。「相続地」とは、「天の御国の約束」のことです。そして私たちはアブラハムの子孫なので、「契約(天の御国を相続する)」が結ばれていることになっています。しかし「契約」は守ってなんぼのものです。

 

「契約」に関して、たとえばこういう話を聞いたことがあります。ある人が無理な契約をしてしまって、一日か二日家賃を滞納したそうです。そうしたところ、管理人さんに鍵を取り替えられてしまい、家の中に入れなくなったそうです。それと同じように、私たちが契約を守らないと、「天の御国」に入れない可能性があるのです。それではどんな契約を守るべきなのか?について見ていきたいと思います。

 

〔聖書箇所〕創世記17:711,14

17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。

17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。

17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

 

少しずつ見ていきましょう。

 

17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

 

ここでも、「契約」ということばが出てきます。「そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる」とありますように、のちの新約のクリスチャンとも結んでいる、ということを言われています。

 

17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

 

このことは、天の都、天の約束の地を受ける、という契約について言われています。けれども「契約」は、ギブ&テイクなので、守らないと入るベき所に入れません。

 

17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。

 

ここでも、「契約」を守ることについて、繰り返し語られています。そしてアブラハムだけを見ずに、私たちとも結ばれたということを見ていきたいと思います。

 

17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。

 

「割礼」を受けることにポイントがあります。ちなみに「肉の割礼」というのがあり、それは男性の体の一部を切り取ることですが、しかし男女に関係無く、「心の割礼」というものがあります。

 

17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

 

「割礼」とは、クリスチャンとして、肉を切り取ることです。

 

17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

 

もし、「心の割礼」を受けないなら、「クリスチャン」として見なされないので、「約束」は「無効」となる、ということを言われています。ゆえに約束の地、すなわち天の御国に入るためには「心の割礼」を受けるか否かがポイントとなります。つまり私たちが唯一守らなければならないのは、「肉を切り取る」ことです。それに関して不完全ではダメです。クリスチャン生活をしていく中で、神が強調されているのは、自分の肉が切り取られていくか?ということです。

 

そうなんです。神が出している条件はたったひとつだけで、「肉」が切り取られているかどうか?ということです。クリスチャンであっても、ある人は割礼がきちんと行われません。しかし、それでは「天の御国」を受け継げない可能性があります。しかし「肉」が明確に切り取られるなら、楽々「天の御国」に入るでしょう。「天の御国」を相続するかどうかのポイント=「肉」が切り取られるかどうか?ということです。ゆえに「肉」に従ったクリスチャン生活は、「危ない」と言えます。

 

今回の要点をまとめます。約束の地に入るための契約は、たったひとつだけです。「割礼を守れ!」というのが、神が私たちに要求しているたったひとつの契約です。そしてこれはすべてのクリスチャンにかかわることです。しかも男女に関係無く、皆受けるべきものです。また、神が言われている「割礼」とは、「心の割礼」のことです。ゆえにここでの結論は、「心の割礼」を受けるなら、クリスチャンとして入るべき所に入る、という風に神さまから認められる、ということです。そして「心の割礼」とは、「肉を切り離す」ことです。また、「肉」はしつこく、なかなか切り取られないということも理解しましょう。それゆえに「心の割礼」は、ある意味、一生の課題とも言えます。そして唯一神さまが要求しているのが「心の割礼」だけです。けれどもとても大事な事柄で、神さまはこのことに非常にこだわりを持っておられるので、ゆえにこのことを心に留めていきたいと思います。たしかに、なかなか切り取られないのも事実ではありますが、しかし、その方向へ向かっていきたいと思います。そしてどんなに霊的なクリスチャンであっても、これは最後まで課題となります。そういう意味合いで、「心の割礼」は、生涯にわたって受け続けていくものなのかも知れません。また、聖霊によって歩んでいくのを妨害するのは、「肉」だということを正しく理解しておくのも大事なことです。

 

以上のことをエレミヤ牧師がメッセージされていました。よろしければ、「割礼」について、少しでも参考になりましたら幸いに思います。