聖書箇所 出エジプト記12:13

 

12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

 

「血を塗る」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

以前、「血」について多少なりともお話させていただいたと思います。そしてレムナントキリスト教会の礼拝のメッセージにおいても、時々「血」について話をさせていただくことがあります。今回のタイトルは、少しギョッとしてしまうかも知れません。このことをそのまま文字通りに考えると、とんでも無いことだと誰もがきっと思いますよね?それこそ体の一部を傷つけて、そこから流れた血液を塗るなんて、キリスト教はおかしな宗教だと、思いますよね?けれども度々話をしていますように、聖書の大半のことばは、「たとえ」としても書かれていますので、そのことも見ながらこのところから神さまがこうかなぁ?と語っていることについて話をさせていただきたいと思います。

 

「血」はたしかに私たちの体内を流れる血液のことも一面言われています。しかしそれのみではなく、聖書において、「血」は「霊的」なことも言われています。そして霊的なことで知っていただきたいことがあります。まず、霊の種類について、です。この世の中では、幽霊とかお岩さんとか、そういうことが言われているかも知れません。もしかするとそういうこともあるのかも知れませんが、しかし聖書の視点において霊はざっくりと二種類になります。聖霊と呼ばれる神の霊と、悪霊と呼ばれるサタンの霊です。そして私たちは、どちらかの霊を受けて生活をしたり、クリスチャンの歩みをしたり、教会の働きを担ったりしています。そうです。繰り返しますが、聖霊or悪霊のいずれかの霊によって、私たちは生きるものなのです。

 

では、冒頭のみことばを見ていきましょう。このことは、主がモーセを通して語られたことですが、ここでの「血」は、どちらの血について言われているでしょうか?「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわい(KJV:疫病)は起こらない(KJV:無効にする)。」のことばが、そのヒントや答えとなります。もし、血があるなら、滅びのわざわいは起こらない、ということを言われていますので、ここでの「血」は、「聖霊」のことを言われていることがお分かりになると思います。つまり、「聖霊」があるなら、「滅びのわざわい(KJV:疫病)は起こらない(KJV:無効にする)」とありますように、災いから逃れる、英語訳で言うなら、疫病は無効となる、ということを言われているのです。これは裏返すなら、神さまの前に、「聖霊」が見当らない、というときに、疫病がそのまま有効となる、ということを言われているのです。では、どこに血(聖霊)が見つからない場合にそうなるの?と言うと、「家々」ということばがその答えとなります。このこともレムナントキリスト教会で繰り返し語っていることではありますが、「家」は「教会」のたとえです。さらに、「家」は「宮」とも表現されています。そのことに関して、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊のであり、」(Ⅰコリント人への手紙6章19節)という風にありますので、「家」とか「宮」は、個々のクリスチャンのことをも言われているのではないかと思います。それから、「疫病」とは、9章でも少し見ましたが、霊的な災いのことを指します。ですからこのことばを通して言わんとしていることは、教会やクリスチャンにおいて、聖霊を受けているなら、わざわい(疫病)から守られますよ、しかし、そうではないのなら、疫病が送られますよ、ということではないかと思うのです。

 

このようなことを言うと、「ちょっと、待って!クリスチャンは皆聖霊を受けているでしょう?言っていることがおかしいのでは?」と思う方もいらっしゃるかと思います。たしかにクリスチャンはそうです。ノンクリスチャンからクリスチャンに新生した時点で、心の内側に聖霊さまをお迎えするのはたしかだと思います。そういう意味では、クリスチャンは皆、聖霊を持っている、という風に言えると思います。たしかにそうなのですが・・・しかしそうだからと言って、全ての教会や全てのクリスチャンに聖霊さまがずっと住んでいてくださるのか?と言うと、それはどうも違うようです。何を根拠に?と思われるでしょう。「わたしがエジプトの地を打つとき、」のことばが、一面そのことを語っているのでは?と思います。前々から語っていますように、聖書、特に旧約聖書において「イスラエルの民」と「エジプトの民」ということばが比較的使われているのにお気付きかと思いますが・・・前にもチラッと説明させていただきましたように、両者共にクリスチャンであります。イスラエルの民は神の御心の中心を行うクリスチャンのことを言われています。一方、エジプトの民は、この世に着いたクリスチャンのことを言われています。そして残念ながら、エジプトの民のように、この世に着いた歩みをしてしまうときに、だんだんと聖霊さまが離れて行ってしまうのでは?と思います。まさに、「エジプトの地を打つ」ということばがそのことを説明していませんでしょうか?そうなんです。エジプトの民のように、この世に着いてしまうときに、聖霊さまが住んでいない、もしくは不在、と見なされてしまって、神さまによって打たれて、そして疫病の災いに入ってしまうのです。ゆえに、タイトルにも掲げましたように、「血」を塗ること、つまりいつも聖霊さまが内住していることがとても大事なのであります。ちなみに、「血」について、イエスさまはこのように言われました。

 

参照 ヨハネの福音書6:54

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

 

ここにも「血」ということばが出てきます。そして「わたしの血」(イエスさまの血、すなわち聖霊)を飲む人は、「永遠のいのち」を持つ、ということを言われています。つまりここでも、聖霊を受けることが大事だ、ということを言われていることがお分かりになると思います。しかもそういう人が「永遠のいのち」を得る、天の御国を受け継ぐ、と言われているのです。このことは裏返すなら、クリスチャンであっても、しかし聖霊ではない別の霊、悪魔とかサタンとか悪霊を受けてしまったまま生涯を終わらせてしまう場合に、永遠の命は保障されない可能性がある、ということを言われているのでは?と思いますが、いかがでしょうか?ですから、教会においてもそうですし、個々においてのクリスチャンに関しても、「血を塗る」つまり、聖霊をお受けして生涯歩みをしていくことは、とてもとても大事なことなのでは?と思います。もっと簡単に言えば、生涯にわたって聖霊だけを受け続けていく歩み、さらに分かりやすく言うなら、聖霊の臨在の中をひたすら歩み続けていくことに御心があるのだと思います。そうするなら、疫病、すなわち霊的な災いが過ぎ越されたり、守られたりする、ということを今回の箇所では語っているのでは?と思います。そしてそのことを本当に実践するのなら、永遠の命が約束されるのです。

 

今回のポイントをまとめます。

 

今までも繰り返し語らせていただいたかと思いますが、「血」、すなわち「霊的な事柄」はとても大事なことです。私たちが思っている以上に、どんな霊を受けて歩むか?ということは、極端なことを言えば、永遠の命を左右する事柄とも思えますので、ぜひ、聖霊を求めていきたいと思います。そして聖霊の臨在の中を歩んでいきたいと思います。また、世の終わりは、ノアの洪水が再現することをレムナントキリスト教会では理解しています。それはH2O、つまり水によるものではなく、「霊(悪霊)の洪水」だと解釈しています。世の終わりというのは、悪霊が解放されることが許される時代ですので、くれぐれもそのような悪い霊に巻き込まれてしまうことがないように気を付けていきたいと思います。万が一にも、聖霊さま以外の別の霊で生涯を終わらせてしまう場合に、永遠の命をミスしてしまう可能性がありますので・・・そしてそれはクリスチャンにとってあまりにも悲劇的な結末となってしまいますので、そのことは何が何でも避けていきたいと思います。よろしければ、このようなこともご理解いただけると幸いに思います。