聖書箇所 出エジプト記13:21,22

 

13:21 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

13:22 昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

 

「『雲の柱、火の柱』ということばを通して語っていること」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

冒頭のみことばもそうですが、他にも聖書の中で、「雲」とか「火」とか「柱」ということばが割と出てきます。これらのことばは、一見すると信仰生活とは直接関係が無いように思えます。なぜなら現実に、雲や火で出来た柱なんていうものは存在しないからです。けれども繰り返し語っていますように、聖書のことばはそのまま文字通りに理解する一方で、たとえの意味合いを見ながら理解するということがあります。今回の箇所も、そのようなことに視点を置きながら、神さまがこういうことを言われているのでは?ということについて話をさせていただきたいと思います。

 

こちらの箇所は、そのまま文字通りに理解するなら、主は、昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中にいて、彼らの神の民の前を進まれたと、そのように読めます。賢い皆様は何となく、意味を理解されていらっしゃると思います。私個人は、神さまが先立って私たちクリスチャン一人一人を導いておられると、そのように理解しました。もちろん、それもそうだと思います。個々のクリスチャンの歩みを見えない神さま、すなわち聖霊さまが実際に導いていることは、とても素晴らしいことだと・・・しかもそれはたしかなことだと思います。しかし今回は、それだけではなく、「雲」「火」「柱」の三つのことばを通して神さまがこんな風にも語っているかなぁ、と思いましたので、そのこともお話させていただきたいと思います。

 

まず、「雲」「火」「柱」について、少し説明させていただきたいと思います。

 

「雲」について

 

参照 使徒の働き1:7

1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

 

この箇所は、イエスさまが復活後に昇天された時のことです。その時に、イエスさまは「雲」に包まれて、天に上げられました。つまり、「雲」とは、霊的な事柄を示し、ここでは「主の臨在」を指すたとえであると理解出来ると思います。また、出エジプト記において、「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に」とあり、主の導きについて言われていますので、このことも「主の臨在」のことを言われていると思います。

 

「火」について

 

参照 マタイの福音書3:11

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

 

ここでは、「聖霊と火のバプテスマ」について書かれています。「聖霊のバプテスマ」は、聖霊を受けることや聖霊が下ることを言われています。それと同時に、「火のバプテスマ」ということも言われています。そのことについては、以下の箇所が説明しているかと思いますので、参考までに見てましょう。

 

参照 Ⅰペテロの手紙1:7,4:12

1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、

 

ここで、「試練」ということばに掛けて、「火」ということばが出てきます。「火」は霊的なことも言われていますが、それと同時に、「信仰の試練」ということをも言われています。具体的には、キリストの名のゆえに受ける苦しみのことではないかと思います。

 

「柱」について

 

参照 ガラテヤ人への手紙2:9,ヨハネの黙示録3:12

2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。

3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

 

ここで、「柱」ということばが出てきます。そして、「柱」とは、ある種のクリスチャンのたとえではないかと思います。そのことが上記みことばにあり、「柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ」とか「勝利を得る者を、わたしの神の聖書の柱としよう」とありますように、つまり、ヤコブやペテロやヨハネのように勝利者として歩みをしているクリスチャンのことを「柱」という風に呼んでいるのでは?と思います。ちなみに「勝利者」とは、あらゆる罪から解放されているクリスチャンのことではないかと思います。

 

これらのことを念頭に置いて、再び冒頭のみことばを見てみたいのですが・・・ひとつは「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。」とありますように、イエスさま御自身が私たちの先頭に立ってあらゆることを導いておられることはたしかなのではありますが、けれどもたとえの意味合いを通して、もうひとつのことが言えるのでは?と思います。たとえの意味合いとして見ていくのなら、「雲の柱」とか「火の柱」というのは、いずれも主の臨在の中を歩むクリスチャンのことを言われていると思います。「火」は、先ほど「信仰の試練」とか「イエス・キリストの名のゆえに苦難を受けている」ことだという風に述べましたが、ペテロやヤコブやヨハネの歩みがまさにそうだったのでは?と思います。彼らはキリストと苦難をも共にしたクリスチャンでした。そしてそのことも、まさしく勝利者としての歩みや主の臨在の中の歩みに通じるのではないかと思います。

 

これらのことを通してこういうことが言えるのでは?と思います。たしかに主ご自身が私たちの歩みを導かれるのではありますが、しかし、どういう方法で導くのか?と言うと、ペテロやヤコブやヨハネのように、勝利者として聖霊の臨在の中を歩んでいるクリスチャンを通しても、そのことをなさるのではないかと思います。「雲の柱や火の柱の中にいる」ということばは、そのようなことをも言われているのでは?と思います。また、「途上」ということばですが、KJV訳では、“the way”とあります。これは、何のことを言われているのかと言うと・・・マタイの福音書にもあるのですが、「いのちに至る道」のことではないかと思います。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く」とあるのですが、ここでも同じ the way”ということばが使われています。

 

ゆえに、言わんとしていることは、「いのちに至る道」ということに関して、主は、勝利者として聖霊の臨在の中を歩んでいるクリスチャンを通して導かれる、ということなのでは?と思います。今の時代に、肉体を持ったイエスさまは地上におられません。その代わりに聖霊さまはいらっしゃるのではありますが、いかんせん目に見えるお方ではありません。そうすると、いくらイエスさまや聖霊さまが立派なお方であったとしても、具体的にどんな風にしていけばよく分かりませんよね?もちろん、イエスさまのことや聖霊さまのことは聖書には書かれていますので、その通りにやっていけば、それもありなのかも知れませんが・・・

 

ではありましても、今回のことばを通して、神さまは私たちにひとつのヒントを与えておられるように思います。それは、勝利者として聖霊の臨在の中を歩むクリスチャンを通して、どんな風に歩めば天の御国に入れるのかが、分かるのでは?ということです。聖霊の臨在の中を歩む=イエスさまのような歩みなので・・・ゆえに、もし、聖霊の臨在の中を歩むクリスチャン、勝利者としての歩みをしているクリスチャンをお手本にして歩んでいくのなら、永遠のいのちに至る道を楽々歩んでいけるのでは?と思います。そして神さまは聖霊の臨在の中を歩んでいるクリスチャン、勝利者としての歩みをしているクリスチャンを通して、永遠のいのちへの道を示してくださる、そのようなことをも今回の箇所では語っているのでは?と思います。そして実際に私たちがそのことを行っていくのなら、それはそのまま実現していくのでは?と思います。よろしければ、このようなことについてもご理解いただけると幸いに思います。