聖書箇所 出エジプト記15:26

 

15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 

「神さまの約束」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

こちらの箇所は、モーセがイスラエル人を率いて三日間の荒野の道のりを歩いていたときに、神さまが彼に語られたことばです。そしてはじめに結論を申し上げてしまうなら、このことばはモーセだけではなく、当時のイスラエルの民、さらに新約時代を生きる私たちクリスチャンに対しても言われたことであります。なぜか?と言うと、血統はともかく、私たちクリスチャンは皆、霊的には誰も彼もがアブラハムの子孫だからです。そういうことをひとつ念頭に置いて、神さまがこのようなことを語っているのでは?ということを、よろしければ共に見ていきたいと思います。

 

ここで神さまはモーセをはじめ、イスラエルの民、そして私たちクリスチャンにお勧めをしています。主の声にきちんと聞き従うこと、主が正しいと見られることを行うこと、また、主の命令に耳を傾けてそのおきてをことごとく守りなさい、ということを言われています。私の感覚ではありますが、「守るなら」という表現から、それは「このようにせよ!」といった何か押さえつけたり強制するような感じではなく、ここで主は静かにおすすめをされているように思います。英語では、“if”ということばが入っています。このことからも、「もし、これこれのことをするなら・・・」とそういうニュアンスで言われていることが分かりますよね?そして神さまは単に私たちにお勧めをするだけでは終わってはいません。「守るなら」のことばに続いて、「わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。」ということを言われています。

 

そうなんです。もし、私たちが神さまの言われたことに応じるのなら、エジプトに下されたような病気は何一つ受けることはないのです。ちなみにエジプトに下された病とはどんな病なのか?と言うと、「雹」とか「いなご」とかの災いでしたよね?「雹」は「水」に関係しますので、霊的な災いのことを言われています。クリスチャンでありながら、しかし聖霊以外の霊で歩みをしなければいけない、という災い、すなわち霊的な病の状態で歩む、ということです。具体的には霊的に正しく見たり、聞いたり、判断したりすることが出来ない、ということだと思います。また、「いなご」の災いについてですが、いなごは穀物を食べ尽くす生き物ですよね?そして聖書において穀物は、パンや麦、すなわちみことばのことを言われています。ですからいなごの災いとは、正しい教理にありつけない、ということではないかと思います。

 

そしてもし、神さまが言われたことに私たちが応じるのであれば、これらの災いや病気は及ぶことはないですよ~、ということを約束してくださるのです。このことは裏返して言うなら、もし、神さまの言われたことに応答しない、というときに、エジプトに下った災いや病気が下されてしまう、ということではないかと思います。そしてどちらが良いのか?と言うと、それは言うまでもなく、神さまがおっしゃったことにきちんと応じたり、従うことであります。何と言っても、霊的な病気やおかしな教理からお守りいただくことが出来るからです。エレミヤ牧師も度々礼拝メッセージの中で、「どのみことばも守っていく人に恵みや祝福があります。」ということをおっしゃっておりますが、冒頭のみことばはまさしくそういったことを言われていると思います。

 

そうです。たしかに神さまのおきてや定めを守ったり、神さまの声を聞いていく、というときに、病気が下されないことが一面書かれているのですが、しかし神さまはさらに特典を私たちにご用意くださっているのです。せっかくですので、よろしければそのことも見てみましょう。

 

参照 申命記4:1,30:16

4:1 今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。

30:16 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。

 

こちらの箇所でも、主の命令とおきてと定めを守るなら・・・ということが言われています。そうするときにどうなるのか?どんな特典があるのか?について言われています。ひとつは、「あなたがたは生き」とありますように、「生きる」ということを言われています。このことは恐らく、霊的に生きる、もっと言うなら、聖霊によって生きていく者となる、ということではないかと思います。そしてその後どうなるのか?と言うと、「主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる」とか「所有しようとしている地で、あなたを祝福される」とありますように、主から「地」が与えられることを約束されています。

 

主が与えようとされている「地」とは、どんな地なのか?と言うと、「乳と蜜の流れる地」のことではないかと思います。「乳」や「蜜」はみことばのたとえですが、その地というのは、みことばの恵みの溢れている場所なのでは?ということが想像出来ます。ただし、そこに入るためにも条件がありまして・・・それこそ冒頭のみことばや上記のみことばでも言われていますように、主の御声に聞き従って、主の命令とおきてと定めを守ることが条件となります。そのことを実践するなら、入れますよ~、ということを言われているのです。つまり守らない、聞き従わない、というときに、残念ながら入れない可能性がある、ということはとらえておきたいと思います。では、なぜ、そのようにしなければ入れないのでしょうか?そのことについてもよろしければ見てみましょう。

 

参照 出エジプト記3:8

3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

 

ここで先ほどお話しました「乳と蜜の流れる地」ということばが出てきます。そしてその地について、この節では説明しています。それはどんな地なのか?と言うと、誰一人いない無人の地ではなく、すでに人が住んでいる地である、ということです。「カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。」とある通りです。ちなみにこれらの人々というのは、主の御心の民ではありません。むしろ主の御心の中心を行うクリスチャンの歩みを妨害するタイプの人々であります。そしてそれらの人々のバックには、目には見えない敵の存在があります。新約聖書で、「空中の権威を持つ支配者」という風に言われています。

 

それらの存在、すなわち見えない敵と戦って、勝利をして、私たちはその地に入って行かなければいけないのです。そして敵に勝つためにはどうすれば良いのか?そのことが、冒頭のみことばや先ほど見た申命記に書かれているのです。主への服従&主のおきてと定めと命令を守ること、です。そのことに関して、すなわち主のおきてと定めと命令を守ることに関しては、敵がいるゆえに困難なことはたしかだと思います。しかし不信仰になることなく、きちんと主に従い通すなら、また、主のおきてと定めと命令を守り行っていくのなら、主が与えようとされている地、すなわち乳と蜜の流れる地に入ることが出来るのです。そして残念ながら一筋縄では行かないことかも知れません。なぜか?と言うと、「乳と蜜の流れる地に入る」というのは、「天の御国」に入ることにそのまま通じることだからです。それこそマタイの福音書において、天の御国に関して「命に至る門は小さく、その道は狭く、見出す者はまれ」と書かれていますよね?そのことに関して、エレミヤ牧師が言われていたのですが、命に至る門の前には見えない敵が立っている、ゆえにその道は狭い、ということなのですが、「カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる」ということばも、まさしく同じことを言われているのでは?と思います。

 

たしかにそうなのではありますが・・・ですが、入れる確率がゼロというわけではありません。主が言われた通りのことをそのまま行っていくのでしたら、必ず入れますので・・・もし、決意されているのでしたら・・・たとえはじめは思うように行かなくても、あるいは失敗の連続であったとしても、しかし主が約束されている地、乳と蜜の流れる地に入れるまで、決して諦めることなく、何度も、何十回も、何百回も、そのことが実現するまでひたすらチャレンジしていきたいと思います。そして実際に入ったのでしたら、そこから出ることのないようにしたいと思います。また、先ほど、「あなたがたに与えようとしておられる地」のことを「乳と蜜の流れる地」だという風に申し上げましたが、新約聖書では別の表現がされていて、「安息」とも言われています。何を根拠に申しているのか?と言いますと、ヘブル人への手紙に「安息」について言われているのですが、それと同時に、モーセや、かつてモーセに率いられた荒野のイスラエルの民のことも書かれているからです。そして主は、新約時代を生きる私たちクリスチャンに「安息」に入るようにお勧めしていますので、そのところも見てみたいと思います。

 

参照 へブル人への手紙3:719,4:111

3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

3:9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

3:10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

3:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

3:12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

3:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

3:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。

3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

3:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

4:4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。

4:5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

4:6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、

4:7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。

4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

 

若干長いので、所々見ていきたいと思います。

 

3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

 

ここで主は、私たちがもし御声を聞いたのなら、心をかたくなにすることなく応答せよ!という風に言われています。このことは、冒頭のみことばや申命記のみことばと同じことを言われています。

 

3:9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

3:10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

3:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

 

けれどもここで、主は「安息にはいらせない」と言われました。なぜか?主を試み、しかも神さまのわざを見ながらも、心を迷わせて神さまの道を悟らなかったからです。ゆえに、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。さらにこのように言われました。

 

3:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

 

ここでも、安息に入れない理由について述べられています。「従おうとしなかった」とか「不信仰」のゆえのことだということを言われています。ですから神さまの御声に従わない、というときに、安息とか乳と蜜の流れる地、すなわち神さまが与えようとされている地に入れない、ということが理解出来ますよね?けれども、それで神さまが良し!とされているか?というとそうではないことが言われています。

 

4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。

 

たしかに不従順や不信仰だと入れないのではありますが、しかし、「神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、」とありますように、私たちクリスチャンが安息に入ることを神さまは望んでおられるのです。ただし、それには条件があって、それについてここでも述べられていまして、2節で言われていますように、「みことばが信仰によって結び付けられる」ことであります。もし、私たちがみことばと結び付いているのなら、そして信じるのなら、3節にありますように、安息に入ることが出来るのです。ゆえに私たちは何とかして、全力を尽くして、安息に入って行きたいと思います。そして安息に入れなかったら、どうなってしまうのか?

 

4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

 

「あの不従順の例にならって落後する者」とありますように、万が一、安息に入りそびれてしまった場合に、「落語」してしまうようですので、気を付けていきたいと思います。そしてこの「落語」ということばは、3章17節の「しかばねを荒野にさらした、あの人々」のことばに通じるのでは?と思います。「しかばね」とは、「死体」のことを言われています。そして「死」は、肉体の死のことも一面言われていますが、しかし霊的に死ぬとか、死後の滅びということをも言われていますので・・・そうするとあわや、永遠の命をミスしてしまう可能性がありますので、そのあたりはよくよく注意しておきたいと思います。

 

今回のポイントをまとめます。

 

神さまは旧約時代のイスラエルの民にも、そして私たち新約時代のクリスチャンにも、永遠の命を得るようにと、約束を与えられておられます。このことは素晴らしいことですし、感謝すべきことではあるのですが・・・しかしいかんせん、無条件とは語っておらず、神さまのほうで、「これこれのことをきちんと守るのなら・・・」と条件を出してきています。その条件とは、神さまの声に聞き従うこと、おきてと定めと命令を守ることです。そうするのなら、神さまが与えようとされている地を所有出来ますよ~、乳と蜜の流れる地に入れますよ~、安息に入ることが出来ますよ~、ということを言われているのです。そして私たちがこれらのことをきちんと守り行っていくのであれば、神さまのほうでも守ってくださり、与えてくださるのです。改めて考えてみると、素晴らしいことですよね?しかしもし、私たちが守らないのなら、それは保障されない、ということも反面言われておりますので・・・そのあたりはきちんと理解して、正しく選択をしていきたいと思います。

 

また、約束の地に入って行くのは至難のわざだという面についてもチラッとお話させていただきましたが、しかしアブラハムやイサクやヤコブもそうですし、イエスさまやペテロやヤコブやヨハネをはじめ、入っている人たちもおられますので、私たちにも十分チャンスはあるのです。そうです。ヘブル人への手紙4章11節にもありますように、力を尽くすなら可能ですので・・・ぜひ、私たちも彼らの足跡に倣ってその地に入って、天の御国を受け継ぐ者となっていきたいと思います。よろしければ、このようなポイントについてもご理解いただけると幸いに思います。