聖書箇所 出エジプト記16:2,7,8

 

16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。

16:7 朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」

16:8 モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」

 

「つぶやいてしまうときに」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

この世において、こと、神さまを知らないノンクリスチャンにおいて、不平やつぶやきが出てしまう、というのは日常茶飯事だと思います。けれども今回の箇所を通して、イエスさまを信じて神さまを知っているクリスチャン(イスラエル人の会衆)であっても、不平やつぶやきを言ってしまうことがある、ということを語っています。「イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた」と書かれている通りであります。しかし、これは神さまの前に、大いに問題である、ということを言われております。8節で、「あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」とモーセがキッパリおっしゃっているからです。そうなんです。私たちがどんな小さなことであっても・・・しかし不平とかつぶやきが口から出てしまうときに、それは人に対して言っているようで、でも、実際には神さまに対して言っていることだという風に見なされてしまうのです。むろん生きているとあらゆる場面に遭遇しますし、それが必ずしも都合の良いことばかりだけではなく、また、場合によっては、理不尽に思えるようなこともありますよね?しかしだからと言って、つぶやいたり、不平や不満を口から出して良いのか?と言うと、そうは語ってはおりません。つい、出てしまいがちかも知れませんが、それはやめましょう!ということをこちらの箇所では語っているように思えます。そして万一、私たちが口からそういったものを発してしまう場合に、また、そのことを悔い改めないというときに、どうなってしまうのか?について書かれている箇所がありますので、よろしければ見てみましょう。

 

参照 Ⅰコリント人への手紙10:10,11

10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。

10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

 

 

「彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。」とありますが、「彼ら」とは、旧約時代にモーセに率いられたイスラエル人の会衆のことです。ここでの「つぶやいた」とは、まさに、冒頭のみことばの2節の「モーセとアロンにつぶやいた」ことを言われています。そして、「彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」とありますように、彼らはつぶやいたために、滅ぼされてしまいました。同じコリント人へのはじめのほうにも、そのことが書かれています。

 

参照 Ⅰコリント人への手紙10:16

10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。

10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、

10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、

10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

 

少し順に見ていきたいと思います。

 

10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。

10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、

10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、

10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

 

ここでは、私たちクリスチャンのことについて書かれています。「モーセにつくバプテスマを受け」とありますように、洗礼を受けてクリスチャンとして新生したことを言われています。そして、「みな同じ御霊の食べ物を食べ」とか「みな同じ御霊の飲み物を飲み」とあります。これらはたとえで書かれています。「御霊の食べ物」とは、「みことばのパン」のことを指します。「御霊の飲み物」とは、「彼らについて来た御霊の岩から飲んだ」とか「その岩とはキリストです。」とありますように、「聖霊の働き」のことを言われています。

 

10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

 

今、見ましたように、私たちクリスチャンは御霊の食べ物、すなわちみことばのパンを食べ、そして御霊の飲み物である聖霊の働きを受ける者であります。むろんこのことは、非常に尊いことであります。ノンクリスチャンでは味わうことの出来ない、クリスチャンならではの特権だと言えるからです。そうです。聖書のみことばを読み、学び、祈り等を通して聖霊の働きに触れることはとても尊いことであり、非常に感謝なことではあるのですが・・・しかし、「彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」ということが一面言われております。

 

その理由が、先ほど見ましたⅠコリント人への手紙10章10節のみことばにつながるようにして書かれています。もう一度見ます。「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」とありますように、つぶやいてしまったために、滅ぼされてしまったのです。そんなんです。たとえクリスチャンであっても、しかしつぶやいてしまうときに、私たちは滅ぼされてしまうのです。それこそみことばを読み、学び、はたまた聖霊の力に触れていたとしても、つぶやいてしまうなら、そしてそのことを悔い改めることなくクリスチャン生涯を終えてしまう、という場合にこのことばは成就してしまうのでは?と思います。「滅び」なので、もしかすると天の御国に失敗してしまう、ということでしょうか?クリスチャンでありながらも永遠の命をゲット出来ない、とそのようなことを言われているのでは?と思うのですがいかがでしょうか?残念なことに、かつてモーセに率いられた荒野の民の上にこのことは実現してしまいました。そしてこのことは、かつてのイスラエルの民だけではなく、ひょっとすると新約時代を生きる私たちの上にも成就していくのでは?と思われるのです。そのようなことが次節に書かれていると思われるのです。

 

10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

 

このことばは、パウロが語ったことですが、「私たちへの戒めのためです。」ということを言われています。パウロはどの時代の使徒だったのか?と言うと、皆さまもご存知のように、初代教会の大伝道者でしたよね?つまり、私たち同じ新約時代を歩むクリスチャンでした。ゆえに、それはそのまま私たちにも当てはまることなのでは?と思うのです。そして、「戒めのため」とありますように、つまり、つぶやいてしまうときに、滅んでしまう可能性がありますよ~、永遠の命が危ないですよ~、ということを、新約時代を生きるクリスチャンに対しても警告として言われているのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?さらに、Ⅰコリント人への手紙10章の11節にはこのように書かれています。

 

10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

 

ここでも、彼らが滅ぼされてしまったことは、「戒めのため」とあります。細かい話で恐縮なのですが、ここでの「戒め」ということばは、KJV訳では、「訓戒」の他に、「警告」とも訳されています。つまり、かつてのイスラエル神の民のことは新約時代を生きる私たちクリスチャンへの警告として書かれている、という風に理解できますよね?しかも、そのことばに続いて、「それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。」とあります。「世の終わりに望んでいる私たちへの教訓」ということばに目を留めていただきたいのですが、パウロの時代に対してもそうだったのかも知れませんが、しかし、「世の終わり~」とありますように、特に世の終わりを生きるクリスチャンへの大事な警告だということを強調されているように思うのですが、いかがでしょうか?ちなみに世の終わりとは、今がまさにそういう時では?と私個人は理解しています。そうです。もし、このことばをそのまま文字通りに素直に理解するなら、世の終わりには、つぶやいたり、不平や不満を言ってしまったために永遠の命を失うクリスチャンが多く出ますよ~、ということを暗示しており、ゆえに、そうならないように気を付けていきましょう!ということを語られているのでは?と思います。

 

人間的には、たかがつぶやきを言ったくらいで、あるいはちょっと不平を鳴らしたくらいで随分厳しい扱いだなぁ、と思うかも知れませんが、いかんせん聖書にこのように書かれていますので、私たちはこういったことを軽視することなく、ぜひこのことにも恐れを持っていきたいと思います。また、かつての私もその一人でしたので何も偉そうなことは言えないのですが・・・旧約時代のことは過去のことであって、今の自分たちとはおおよそ関係が無いのでは?と思っているクリスチャンもいらっしゃるかも知れませんが、しかし、エレミヤ牧師が時々「旧約聖書を学ぶのは、未来への教訓のためにそうするのです。」とおっしゃっていますように、また、今回のみことばで「これらのことが彼らに起こったのは、私たちの戒めのため」とか「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓のため」ともありますように、旧約時代に起きた事柄というのは、今の新約時代、そして世の終わりを生きる私たちクリスチャンにも大いに関係があることですので・・・また、旧約時代も新約時代も同じ神さまが教会や私たちクリスチャンお一人一人を導いておられますので、旧約聖書に書かれている記述に関しましても、真摯に受け止めていきたいと思います。

 

また、余談ではありますが・・・「荒野で滅ぼされました」「荒野」ということばにも若干の語りかけを私個人は受けました。皆さまも御存知のように、「荒野」は、イエスさまが試みを受けられた場所です。また、イエスさまは「試みを経た石」(イザヤ書8章16節)とも言われておりまして、数々の試みに会われて、そんな中でもそれらのことをみごとにクリアして、天の御国に入り、神の右に着座されました。

 

そのようなことから・・・私たちも永遠の命を得る、天の御国に入る、というときに、イエスさまと同じようなパターンを踏んでいくのでは?と思います。すなわちイエスさまと同じように、「荒野」において、試みを受ける、が、しかし、最後まできちんと主に従って永遠の命を得る、というのが聖書で言われている標準なのでは?と思います。そして「荒野」とは、試みを受ける場所ですので、人間的には楽しい所でも、喜ばしい場所でもありません。しかし、イエスさまがそうであったように、私たちも御霊に導かれて自らの意志で荒野の歩みをあえて選んでいくなら、なおかつ不平や不満やつぶやきが出そうになってもそのあたりをこらえて、イエスさまと同じような歩みを生涯において全うしていくのなら、天の御国に入れるのでは?と思います。もし、そうかも知れないなぁ、なんて思いましたら、ぜひ、実践してみてください。今回も大事なことを語ってくださいました神さまに感謝と賛美をお捧げします!