聖書箇所 出エジプト記17:2

 

17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。

 

「不信仰に気を付ける」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

上記のこと、民(イスラエルの民)とモーセが争ったことは、旅の途中に起きた出来事でした。その前の節で、「イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。」(出エジプト記17:1とありますように、彼らはずっと旅を続けていました。2節を見る前に、「旅」ということばを若干見てみたいのですが・・・「旅」ということばは、このように使われています。

 

参照 詩篇119:19,ヘブル人への手紙11:13,Ⅰペテロの手紙2:11

119:19 私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

 

「旅」ということばに関連して、「旅人」ということばが使われています。そして、それらはいずれも、クリスチャン生涯における歩み方を意味します。具体的にどういう歩み方か?と言うと、まさに「旅人」ということばがヒントとなりますが、一般的に旅をする人は、行く先々の地に長い間は滞在しません。ですからその土地で家を建てたりすることもありません。帰るべき家があるからです。私たちクリスチャンも同じで・・・最終的に帰るべき場所は別にありますよね?「天の故郷」(天の御国)こそが、私たちの本来の居場所ですよね?ですから、私たちはこの地上においては、「一時的」だという概念で歩みをするのです。マイホームを建てるとか、建てないとかは別として、しかし私たちクリスチャンは、それこそ聖書のどこかにも書かれていましたが、しばらく現われて、それから消えてしまう霧に過ぎない存在である、この世でのことはほんの一瞬である、ということはひとつ認識しておきたいと思います。

 

そうです。私たちクリスチャンはこの地上においてはどこまでも「旅人」とか「寄留者」の立場であるのですが、しかし、それにも拘わらず、何か嫌なことが起きたり、不満が沸いてきたりしたときに、主を試みてしまうのです。そしてそれは、「良くない!」ということを冒頭のみことばでモーセは言われております。「あなたがたはなぜ私と争うのですか。」と。さらに続いて、「なぜ主を試みるのですか。」とも言われております。これらのことばは、何か不思議に思いませんか?モーセと争うことが、主を試みることと関連している、という風に私には思えます。ちなみに「聖書」はイエス・キリストを証する書とも言われております。そのように考えていくときに、もしかするとここに登場するモーセも、ひょっとするとイエス・キリストの型なのでは?と思うのですが、いかがでしょうか?つまり、言わんとしているのはこういうことだと思います。私たちが旅をしている途中、つまりクリスチャン生活の歩みの中でイエスさまと争ったり、場合によってはイエスさまを試みてしまうことがある、ということをかつての旧約時代のイスラエルの民を通して語られているのでは?と思います。具体的には、この時のイスラエルの民のように、水が不足しているときに、そういうことが起きてくるのでは?と思います。他の箇所でも、こういうことが言われているからです。参考までに紹介しておきます。

 

参照 出エジプト記15:2224,17:1,民数記20:2,3

15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった

15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。

15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

17:1 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった

20:2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。

20:3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

 

私の勘違いでなければですが・・・飲む水が無い時に、モーセ(イエス・キリストの型)とイスラエルの民が争ったり、あるいは民がつぶやいたり、モーセたちに逆らっていますよね?ちなみに「水」は、レムナントキリスト教会の礼拝の時にエレミヤ牧師が度々語っていることではありますが、「霊的」な事柄を示しています。そして上記23節の「マラの水」は、「苦くて飲むことができない」ということから、聖霊以外の別の霊のことを言われていると思います。ゆえに、民が「無い、無い」と言っていた「水」は、「聖霊」のことを言われていると思います。そうなんです。イスラエルの民は、荒野の旅路において、いわば「聖霊の働き」を求めていたと思われます。求めていた、ということは、彼らは恐らく霊的に枯渇していたのでしょう。彼らだけではなく、新約時代を生きる私たちクリスチャンも、霊的に渇きを覚えることは時としてあると思います。しかしだからと言って、そういう時に神さまを試みて良いのか?つぶやいたり、不平を言ったりしても構わないのか?と言うと、それはNGであります。そうしてしまうときに、主と争うことになったり、試みてしまうことになり、そしてそれは神さまの前にあわや「不信仰」と見なされてしまう可能性があるのです。そのことに関して、出エジプト記15章でも同じようなことに若干触れましたが、そして同じみことばになりますが、おさらいをかねて再度見てみたいと思います。

 

参照 へブル人への手紙3:712

3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

3:9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

3:10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

3:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

3:12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

 

8節の「荒野での試みの日」とは、イスラエルの民の荒野の旅路のことを言われています。そして、私たち新約時代を生きるクリスチャンにおいても、このことは当てはまります。私たちも地上においては寄留者であり、旅人だからです。そして彼ら、イスラエルの民は主を試みたことを9節で言われています。このことはかつて、「飲む水(聖霊の働き)が無い」と、ぶつぶつ不平を言ったりつぶやいたりしましたことを言われているのでは?と思います。そしてここで、なぜ飲む水(聖霊の働き)が無かったのか?について理解することが出来ます。その答えが7,,10,12節に書かれています。「御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」とか「常に心が迷い」とか「悪い不信仰の心」と言われていますように、その要因となったのは、「不信仰」とか「不従順」のゆえのことなのです。

 

そうなんです。もし、私たちが不信仰になり、神さまの言われていることに応答しない、従わない、というときに、その代償と言ってはなんですが、「水」(聖霊の働き)が無くなってしまうのです。「御霊は無限に与えられる」ということが、ヨハネの手紙に書かれているのですが、しかしいかんせん、私たちが不信仰だったり、不従順だったりするときに、残念ながら聖霊の働きがストップしてしまうのです。ですから、「水が無い、無い」とぶつぶつ言うだけではダメなのです。聖霊の働きが枯渇しているかも知れない、なんて思われましたら、その時には不信仰になっていないかどうか、あるいは不従順になってはいないだろうか?と、内側をチェックする必要があるのでは?と思います。もちろん聖霊の働きを祈り求めていくことも大事ではありますが、しかし根っ子となる部分、要は根底の部分で変えるべき所、つまり悔い改めるべき所を変えていない、従うべき部分を従っていない、というときに、いくら神さまが全能であり、どんなに聖霊さまが素晴らしいお方ではありましても、私たちに対して思うように働くことが出来なくなり、結果として「水」(聖霊の働き)に渇いてしまう、という風になってしまうのだと思います。

 

今回のポイントをまとめます。意外に思われるかも知れませんが、「不信仰」や「不従順」が「水(聖霊の働き)」が無くなる原因である、ということは正しくとらえておきたいと思います。もし、私たちがあれも従わない、これも従わない、というときに、人さまの前はともかく、しかし神さまの前には「不信仰」と見なされてしまって、そしてあわや霊的に枯渇した状態に置かれてしまう可能性がありますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。たしかにみことばもそうですし、また、私たちの内側に語られる神さまの声というのは、時として厳しいなぁ、と感じることはあるかも知れませんが・・・しかし従うか否か?信仰によって歩むか、それとも不信仰になるか?によって、その結果は天地ほどの差をもたらしてしまう可能性がありますので、神さまの前にいつも正しく賢い選択を出来るように祈り求めて、実際に行っていきたいと思います。不信仰になることなく、信仰を持って神さまに従っていくときに、聖霊の働きは枯渇することはなく、霊的に潤った状態でいられますので、よろしければおすすめいたします。

 

そうそう、聖霊で潤った状態と言えば、イエスさまがまさしくそうでしたよね?「キリスト」ということばは、「油注がれた」という意味だそうです。そのように主は、常に聖霊の油に満ちていましたよね?そしてその秘訣は何だったのかなぁ?と改めて考えてみると・・・ふと、こういうみことばを思い出しませんでしょうか?「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、」ということがヘブル人の手紙に書かれているのですが・・・御子、つまり神さまでもあるお方(イエス・キリスト)が、「従順」を学ばれ、また、実際にそのような歩みに徹しておられましたので・・・ゆえに常時、聖霊の油で満ちておられたのでは?と思います。そして、「完全な者とされ」ともありますように、主は敵にみごとに勝利をして天の御国に入り、神の右に着座されました。ハレルヤ!それゆえに私たちも、どこまでも従順となり、絶えず聖霊の油で満たされている状態を目指していきたいと思います。そしてそのことをイエスさまのように生涯にわたって全うして、天の御国に入る者となっていきたいと思います。また、聖霊の油注ぎを保ち続けていくときに、もし、不満に思うこととかがあったとしても、いつしかそのことが喜びや感謝に変えられていくのでは?不平やつぶやきとも無縁の歩みも可能なのでは?とも思いますので、よろしければぜひ、おすすめいたします。ちなみにかつてモーセに率いられた多くの不信の歩みをしていたイスラエルの民の中で、ヨシュアとカレブだけは例外的に主に従い通して天の御国をゲットしたパターンですので、私たちも不信になることなく、イエスさまや彼らの足跡に倣ってひたすら主に従い続けていきたいと思います。いつも大切なポイントを語ってくださる神さまに感謝します。