聖書箇所 出エジプト記20:4

 

20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 

「『聖書』で言われている『偶像崇拝』とは?」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

冒頭のみことばにおいて、「偶像を造ってはならない。」ということが書かれています。そして今回は、ノンクリスチャン向けへのステップメールで紹介させていただきました「偶像崇拝の罪」について、掲載させていただきたいと思います。以下、その内容となります。

 

◇◇なぜ、聖書には「偶像礼拝の罪」について繰り返し書かれているのでしょうか?◇◇

 

著者もそうでしたが・・・クリスチャンになったのでしたら、釈迦や地蔵や仏壇に手を合わせたり、神社や寺に行くという習慣からすっかり離れていらっしゃるかと思います。もし、万一、そのようなことをされておられるのでしたら、それらの事柄からは、きれいさっぱり縁を切っていきましょう。

 

ところでクリスチャンは、唯一の神さまを崇めています。この世の神さまを知らないノンクリスチャンのように、他の神々を拝んでいるはずはないのです。ですから、「偶像礼拝」なんてことばを聞いても、おおよそ自分たちとは無縁である、と思っているクリスチャンは多いのでは?と思います。以前の著者もそうでした。初詣に行かないのだから、仏壇を拝まないのだから、自分に何の関係があるのか?と思っていました。けれども聖書を何度か読んでいくうちに分かってきたことなのですが、聖書には「偶像礼拝」を禁じている事柄に関して繰り返し書かれています。たとえば申命記に書かれているかの有名なモーセの律法の一番はじめにはこのように書かれています。

 

〔聖書箇所〕申命記5:7-10

5:7 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

5:8 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

5:9 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

5:10 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 

8節の「偶像を造ってはならない」ということばに目を留めてください。クリスチャンになって、石の像を造って拝むなんていう人は、ゼロと言わないまでも、ほぼ皆無だと思います。それから今までお話していなかったかも知れませんが、聖書は、「たとえの書」とも言われていまして、そのままストレートに理解するところもあるのですが、しかし記述の大半には「たとえ」が使われているのです。ですから、この「偶像」ということばに関しても、そういう視点で理解していきたいと思うのです。単に、ノンクリスチャンが拝んでいるような偶像、すなわち物理的に石や木で作られたもののことも言われているかも知れませんが、でも、基本的に聖書はクリスチャンが読むものです。ですので、それのみを考えてしまうと片落ちになります。要するに、聖書に書かれている多くのことばは、目に見えるものだけではなく、霊的な事柄に関しても言われていると、そんな風に考えていただけましたら理解しやすいのかも知れません。話は元に戻りますが、では、神さまはクリスチャンに対してなぜ、このようなことを言われたのでしょうか?「偶像を造ってはならない」と。それは、「偶像」とは、神さま以外の存在、つまり神さまがお造りになった「人」を崇拝する、ということをも言っているのです。

 

たとえば、ローマ・カトリック教会では「聖書」のことばよりも、神父やリーダーの言うことが正しいという教えがあるそうですが、もし、聖書が言っていることばと神父やリーダーが言っていることが食い違っていることがあるとしますよね。その場合、聖書のことばを正しいとすべきなのですが、でも、聖書のことばを無視して、神父やリーダーの言っているほうを優先するなら、それは神さまの前に「偶像礼拝」と見なされてしまうのです。一例を挙げるなら、聖書には「火の池(地獄)のさばき」に関してハッキリと書かれているのですが、あろうことかローマ・カトリック教会の神父やリーダーは、「地獄は無い。」ということをおっしゃっているそうです。これは聖書に書かれていない教えです。それにも拘わらず、神父やリーダーのおっしゃっていることを盲信するならば、それは「偶像礼拝」なのです。たとえ釈迦や地蔵や仏壇を拝まなくても、神さまの前には、「偶像礼拝の罪」という風に見なされてしまうのです。

 

また、「偶像礼拝」に関して、聖書は「従い」ということに関してもかなり厳しいことが言われています。その箇所も見てみたいと思います。

 

〔聖書箇所〕Ⅰサムエル記15:22,23

15:22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

 

ここにハッキリと「従わないことは偶像礼拝の罪」と書かれています。もし、私たちが神さまの声に従わないなら、それも「偶像礼拝の罪」という風に神さまの前に見なされてしまうのです。神さまは、聖書のことばやお祈りやメッセージや預言、あるいは人を通してありとあらゆることを語られます。場合によっては、ノンクリスチャンを通しても語る時もあります。つまり何らかの方法で、神さまの語りかけを個々におけるクリスチャンは受けるわけですが・・・それにも拘わらず、その声に従わないのなら、「偶像礼拝の罪」を犯すことになるのです。分かりやすく言うなら、神さまのお考えよりも、自分自身の都合をどこまでも優先して、神さまの声に従わないということです。神さまの思いではなく、どこまでも自分の思いに固執してしまうことです。自分をどこまでも正しいとすることです。そしてこのことは、この世のことばで言うなら、「頑固」な人のことを指します。いくら神さまに言われても、いつになっても従わないなら、「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」と書かれていますように、神さまから忌み嫌われ、退けられてしまうのです。ですので、本当に本当に、要注意です。

 

たしかにクリスチャンになって、お祈りをしたり、聖書を読んだり、神さまの働きをしたりするのですが、でも、それよりも何よりも、神さまの声に従うことが非常に大事だ、ということを、聖書のこのようなことばからご理解いただけるのではないかと思います。もし、本当に神さまに退けられてしまったら、しかもそのままの状態でこの世の生涯を終えてしまうなら、天国に入ることは恐らく厳しいと思われます。ですから、神さまがこんな風に語っているかな?なんていう風に思われたときには、すぐさま、神さまの声に従っていくようにしていきたいと思います。どんなに小さなことであっても、頑なにならずにすぐに従っていくという習慣を身に付けていくように心がけていきたいと思います。それこそ、「頑な」が命取りになって、クリスチャンと言えど、永遠の命をミスするなんていうことは、絶対に避けていきたいですよねっ!!

 

今回は、2つのことを通して「偶像礼拝」について学びをしましたが、ご理解いただけましたでしょうか?クリスチャンになったら、もうまったく関係が無いなんていう風に思いがちなのですが、「偶像礼拝」は私たちクリスチャンの案外身近なところにあるのでは?と思いますので、くれぐれも気を付けていきたいと思います。聖書をはじめとして、神さまが言われることのすべてに聞き従って、「偶像礼拝の罪」から守られていきたいと思います。また、神さま(イエスさま)への従いの中で、ありとあらゆることからお守りいただけますので、そのことを信じて実践していきたいと思います。

 

最後に・・・たしかに神さまは愛のお方ではありますが・・・しかし、申命記の5章9節に書かれていますように、「ねたむ神」でもありますので、他の神々を拝んで神さまの妬みを引き起こして、それによって怒りを買うことのないように、くれぐれも気を付けていきたいと思います。ぜひ、いつも神さま(イエスさま)だけを崇めていきたいと思います。

 

いかがでしょうか?聖書で言われている「偶像崇拝」に関して、多少なりともご理解いただけましたでしょうか?よろしければ、このようなことも心に留めておいてくださると幸いに思います。今回も大切なことを語ってくださった神さまに心から感謝致します。