聖書箇所 出エジプト記21:1

 

21:1 あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。

 

「神さまに、『善悪を判断する力』を求める」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

このことばは、神さまがモーセに言われたことで、さらにモーセからイスラエルの民に伝えられたものです。ちなみに、「定め」のところはKJV訳では、“judgments”(判断)ということばが使われていました。つまりここで、神さまは、ご自身の判断について説明しますよ~、ということを言われているのです。そしてそれ以降の節から何章かにわたって、そのことについて書かれています。「もし、これこれの場合は、こうしなさい。」「この時は、こうしなければいけない。」という風に、です。いずれのことも、すべて「神さまの判断」に基づいて言われている事柄です。

 

それで・・・今回は、「判断」ということばに沿って見ていきたいのですが・・・たった今、目には見えない神さまの判断についてチラッと話しましたが、私たちもありとあらゆる判断を日常において、あるいは信仰生活において行っていると思います。勿論それは良いことであります。しかし、そうではありましても・・・一歩、判断を見誤ってしまうと、悪い意味合いで思わぬ方向や予期しなかったような展開に進んでしまった~、なんていうことも往々にしてあるのでは?と思います。そしてこういったことが、場合によっては、はたまた極端なことを言ってしまうと・・・「永遠の区分」をもたらしてしまう可能性もあるのでは?と思います。

 

なぜ、そういうことを申し上げるのか?と言うと、かつてのパリサイ人や律法学者がまさにそうだったからです。彼らは、「自分たちには誤りは無い!自分たちこそ正当である!けれどもナザレのイエスは悪霊つき!だから我々において、天国行きは間違いが無い!」と確固たる自信を持っていました。しかしあろうことか、イエスさまから、「ゲヘナ行き」を宣告されましたよね?なぜでしょうか?モーセの座を占めていたパリサイ人たち、すなわち律法(みことば)に精通していた立場の人たちが、なぜそんな風に言われてしまったのでしょうか?その答えは簡単です。イエス・キリストを神の御子であることを理解しなかったからです。そうです。聖書の律法に詳しい彼らだったのですが・・・しかし、完全な判断ミスをしてしまったのです。その果てには、皆さまもご存知のように・・・イエスさまを訴えて、十字架に付けて殺してしまいましたよね?彼らの判断が間違えていたために、そのような結論を招いてしまい、あわや「永遠の命」を落としてしまったのです。ですので、たかが「判断」ではなく、されど「判断」だということをご理解いただけるかと思います。また、他にも、「判断」が大事である、ということについて、述べられている箇所がありますので、見てみたいと思います。

 

参照 Ⅰ列王記3:5-14

3:5 その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」

3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。

3:7 わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。

3:8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。

3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」

3:10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、

3:12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。

3:13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。

3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」

 

5節にありますように、主がソロモンに夢の中で現われました。そして、何が欲しいのか?ということをソロモンに尋ねました。それで彼は何と答えたか?と言うと・・・9節で善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」と言われていますように、「善悪を判断」することを神さまに願いました。そして10節にありますように、この願い事は、主の御心に叶ったものでした。ですので、その後、彼ソロモンに「判断する心」が与えられました。しかも、それだけではなく・・・13節にありますように、富と誉れも与えられることになりました。さらにまた、14節に「わたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」とも書かれていますように、長寿も約束されました。ですから、ここで理解出来ることは・・・もし、私たちもソロモンのように、「正しく判断する力」「善悪を判断する力」を神さまに願い求めていくときに、そしてなおかつ、「主の道」を正しく歩んでいくなら、同じようなことが約束されるのです。「富」とか「誉れ」とか「長寿」というのは、目に見えることなのか?つまり現世においてなのか?それとも後の世で受けるものなのか?そのあたりのことはハッキリとしたことは分からないのですが、いずれにしても、神さまの方法でこれらのものをいただけるのは、たしかだと思います。そして、もし、後の世において成就するのでしたら・・・「長寿」とは、恐らく「永遠の命」のことを言われていると思いますので、正しく「善悪を判断する」ことと、「永遠の命」というのは、じつに密接な関係があるのでは?ということを、これらの箇所においてもご理解いただけるのではないかと思います。

 

それでは具体的に、「善悪を判断する力」を求めていくときに、どんなメリットがあるのか?ということについて若干お話させていただきたいと思います。まず、何が神さまの御心なのか?そうでないのか?どのようなことを神さまはお喜びになるのか?お悲しみになるのか?あるいは、忌み嫌われるのか?ということを少しずつ知ることが出来るようになります。そのことを幾度か繰り返していくうちに、歩みの中でどんなことが大事なのか?何に力を入れていくべきなのか?ということも徐々に分かるようになっていきます。さらにそのことを繰り返して重ねていくうちに・・・「永遠の命」「天の御国への道や門」についてのポイントに関して、自ずと理解するようになっていきます。ただし、神さまがソロモンに語られましたように、「わたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩む」ということが条件となります。

 

こういったことから・・・そして、重ねて申し上げるようで恐縮ではありますが・・・神さまに「善悪を正しく判断する力」を求めて、なおかつ神さまの正しい判断に基づいて歩みをしていくことは、私たちが思っている以上に大事なことである、ということ、はたまた、神さまの御判断に基づいて歩むかどうか?ということは、ある意味、「永遠の命」を得るかどうか?ということにもつながっていくのでは?とも言えると思うのですが、いかがでしょうか?もし、そうかも知れない・・・なんて思いましたら、ぜひ、求めていきたいと思います。また、神さまのおきてと命令を守って、神さまの道を歩むことも言われておりますので・・・「善悪を正しく判断する力」を求めることにプラスして、聖書通読のほうも、しっかりと行っていきたいと思います。そして最後まできちんと従って、「永遠の命」を得て、「天の御国」を相続していきたいと思います。いつも大切なことを語ってくださる神さまに、栄光と誉れがありますように。