【聖書箇所】出エジプト記24:12

 

24:12 主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」

 

 

 

*おしえ(KJV訳):法律

 

 

 

「聖書の律法とは?」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

 

 

ここで、主(神さま、イエスさま)は、「彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」ということをモーセに言われました。そして、実際に神さまは、「石の板」をモーセに与えられました。ところで、エレミヤ牧師をはじめ、当教会におきまして、「石の板」とは、「聖書(旧約&新約)」だという風に理解しています。そのことに関して、それとなく言われている聖句がありますので、よろしければ、参考までに紹介しておきますね。

 

 

 

【聖書箇所】Ⅰ列王記8:9

 

8:9 箱の中には、二枚の石の板のほかには何もはいっていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。

 

 

 

ここでも、「石の板」ということが書かれています。そして、「二枚」ということばが入っていますが、このことは恐らく、「旧約」と「新約」のことを言われているのではないかなぁ、という風に当教会は捉えております。そして、なぜ、「石の板」が「聖書」のことを言われているのか?その根拠は何なのか?と言いますと・・・冒頭の聖句で、「わたし(神さま、イエスさま)のおしえと命令」ということが言われていまして、そして、聖書には神さまのあらゆる教え(法律、キリスト教用語:律法)や命令が書かれていますので、「石の板」とは、「聖書」のことではないかなぁ・・・と思うのです。しかも、主(神さま、イエスさま)が授けたものでありますので、とても大事なものである、ということも言えると思います。

 

 

 

さて、神さまの大事な教え(律法)や命令が記されている、ということから、聖書はとても素晴らしいものである、と言えます。そしてそれは、実際に私たちに守ってもらいたい、実践してもらいたい、という思いや意図をもって、神さまは私たちに「聖書」を与えてくださったのも事実だと思います。しかし、そうではありましても・・・このことはエレミヤ牧師をはじめ、他の多くの牧師やクリスチャンが言われていることではあるのですが、聖書のすべてのことばをパーフェクトに守れる人がいるのか?と言うと、残念ながらそれは皆無である、ということが結論であります。

 

 

 

たしかに聖書のことばは、どれもこれも素晴らしいものですし、基本的には守るべきではあるのですが・・・しかし、一面、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。」(ローマ人への手紙3章20節)ということが言われているのも事実でありまして・・・そんな風に申し上げてしまうと、律法は素晴らしいのになぜ?と矛盾を感じる方もいらっしゃると思います。

 

 

 

そのことに関してですが・・・このことは私の想像ですので当たっているかどうかは分かりませんが・・・私たちは生まれつきの罪(原罪)を持っているために、どんなに気を付けていても、どうしても「罪」を犯してしまいますよね?そうすると、その度に、「律法の違反者」だという風に神さまから見なされてしまう・・・ということになってしまいますよね?ゆえに、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。」とありますように、律法を行なうことでは、神さまの前に正しい、という風にならないのではないのかなぁ・・・と思うのです。絶対にそうです!と、断言は出来ませんが、恐らくそうなのではないかなぁ・・・と思います。

 

 

 

では、聖書は、何のためにあるのか?ということに関して・・・また、それが今回の本題でありますが、お話させていただきたいと思います。このことに関して、以前、エレミヤ牧師が礼拝の中で語られていましたメッセージが、そのことを分かりやすく説明されていらっしゃるかなぁ、と思いますので、紹介させていただきたいと思います。以下、エレミヤ牧師によるメッセージです。

 

 

 

【聖書箇所】ガラテヤ人への手紙3:17-19

 

3:17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。

 

3:18 なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。

 

3:19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。

 

 

 

19節「違反を示すためにつけ加えられたもので、」とありますように、律法は違反を示すために付け加えられたものです。細かい規定を完全に守って義とされると、そんな風に私たちは考えやすいかも知れません。しかしそうではなく、細かい規定を通して教えを守れないことや罪人であることを理解して、キリストの救いにあずかることが大事である、ということをここで言われています。つまり「律法」は、キリストに頼ることを体得するために与えられたものだという風にご理解いただきたいと思います。

 

 

 

【聖書箇所】ガラテヤ人への手紙3: 20

 

3:20 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。

 

 

 

「約束を賜わる神は唯一者です。」と書かれていますように、約束は神からなので、こちらに信頼性があります。

 

 

 

【聖書箇所】ガラテヤ人への手紙3:21

 

3:21 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。

 

 

 

旧約&新約のクリスチャンで、すべての律法を守って永遠のいのちを得た人は一人もいない、ということを言われています。そして、旧約時代だけでなく、新約時代にも律法はあります。けれども、律法では永遠のいのちを得られない、ということをここでは言われています。

 

 

 

【聖書箇所】ガラテヤ人への手紙3:22

 

3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

 

 

 

ここで言われていますように、聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。このことは、実際にそうだと思います。私たちは聖書を読めば読むほど正しくなると思いがちかも知れません。しかし、聖書のことばを守ろうとすればするほどダメになります。使徒であったパウロもそうでした。そのことに関して、ローマ人への手紙を見てみましょう。

 

 

 

参照 ローマ人への手紙7:20-25

 

7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

 

7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

 

7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

 

7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 

7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

 

 

上記箇所において、「『罪の力』から、誰も自分の力では脱出できないことを理解しなければ、天の御国に入れない」、ということを言われています。そのことに関して、マタイの福音書を見てみたいと思います。

 

 

 

参照 マタイの福音書19:16-23

 

19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 

19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

 

19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。

 

19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

 

19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

 

19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 

19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 

19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。

 

 

 

こちらの箇所で、「お金」について言われていますが・・・このことは、単に、金銭的なことだけを言われているわけではありません。聖書において、「お金」とは、「行い」のことも指します。そして、人間的には信じがたいことではありますが、しかし、これらの箇所で、「行いができる人は厄介」だということを、イエスさまは言われているのです。そうです。私たちはまず、自分の力では何も出来ないということを理解しなければダメなのです。そうしていくときに本格的な福音に入っていく、ということをここで言われております。

 

 

 

ガラテヤ人への手紙に戻って、もう少し、「律法」について見ていきたいと思います。

 

 

 

【聖書箇所】ガラテヤ人への手紙3:23-25

 

3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。

 

3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

 

3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

 

 

 

「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました~もはや養育係の下にはいません。」とありますように、律法とは過渡的なものである、ということを、ここで言われております。つまり、「律法」とは、自分の現状、力の無さを理解するものであって・・・その結果として、キリストを頼っていくことになる、ということを言われているのであります。すなわち、「律法」とは、私たちのありのままの姿を知るもの、そして、イエス・キリストを信じる信仰へと導くものである、という風に理解出来るのではないかと思います。

 

 

 

以上のことをエレミヤ牧師がメッセージされていたのですが、「聖書の律法」とは、どのようなものなのか?ということについて、多少なりともご理解いただけましたでしょうか?はじめに申し上げましたように・・・たしかに「聖書の律法」は、主(神さま、イエスさま)が、私たちに与えてくださったものですし、また、先ほどのマタイの福音書にも「もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」とありますように、基本的には守っていくべきではあるのですが・・・しかし、エレミヤ牧師がおっしゃっていましたように、私たちの現状の姿を知るものであり、イエス・キリストを信じる信仰へ導くためのものである、という一面があることを、ご理解いただけましたら幸いに思います。