聖書箇所 出エジプト記3:9

 

3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。

 

「真のクリスチャンが圧迫を受ける時代に」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

いきなり、この節だけを読んでも、何のことを言っているのかよく分からないと思いますので、少し説明したいと思います。

 

1章から読んでいくと分かるのですが、イスラエル人はエジプトへ行きました。つまり、エジプト人のところに住んでいたのでした。ちなみに、イスラエル人とか、エジプト人とは、ある種のクリスチャンをあらわす型であります。イスラエル人とは、真に御心を行うクリスチャンのことで、エジプト人とは、この世に着いたクリスチャンを指します。ゆえに、「エジプト」は、「この世」をあらわすたとえでもあります。そして、イスラエル人は、エジプトにおいて、苦役で苦しめられていました。それゆえに、イスラエル人は助けを求めるために、神さまに叫びました。そのようなイスラエル人の姿をご覧になった神さまは、彼らをエジプトの手から救い出そうとしました。その流れの中で言われたことばが、上記みことばであります。

 

さて、ここでひとつ分かることがあります。「エジプトが彼らをしいたげている」とありますように、エジプト、すなわち、この世において、彼ら、イスラエル人、すなわち、真に御心を行うクリスチャンは、しいたげられる、ということです。ちなみに、「しいたげ」とか「しいたげている」の箇所は、KJV訳では、「圧制」とか「圧迫する」とあります。また、「圧制」ということばを国語辞典で調べたところ、「権力を持つ者が、その権力や暴力を使って、他人の言動を無理に押さえつけること」とあります。

 

ところで、皆さまは、教会がエジプト化する、つまり、教会がこの世的になっていく、なんていうことを耳にしたことはありませんでしょうか?日本ではまだ、あまりそういう風潮は無いかもしれませんが、しかし、アメリカにおいて、じつは、こういうことが徐々に実現しております。

 

たとえば、アメリカでは同性愛が合法化しており、そういうことが、教会内にも入ってきているそうです。また、キリストの名で祈らない教会においては、税金の優遇がされる、ということで、もうすでに、このことに同意している教会も、ポツポツと出ているそうです。これって、まさに、教会がこの世化している、と言えますよね?もちろん、このことは神さまの前にNGなのですが、しかし、それに留まらず、そういったことに異を唱えたり、あるいは、きちんとみことばに従うクリスチャンが、あろうことか、迫害されたり、逮捕されたり、投獄されたりと、困難な目に会っているのです。このことに関して、たとえば、路傍伝道をしていたり、公園で祈っていたり、家庭集会でメッセージを語っていたりする人が、逮捕されたそうです。また、同性愛は聖書のことばに反しているということを語った人々が逮捕され、投獄され、はたまた多額な罰金まで科せられた、とのことです。いかがでしょうか?こういうことは、それこそ、「圧制」とか「圧迫する」ということだと言えないでしょうか?

 

かつては、みことばに堅く着くクリスチャンは、良い意味合いで、「原理主義者」と呼ばれ、しかもこのことは、人々からも賞賛されることだったのですが、しかし、法律、つまり政治的権力等を下に、今の時代においては、正しくみことばを行うクリスチャンは、反対にカルトとか異端とか呼ばれ、それだけではなく、捕らえられたり、牢に入れられたり、お金を徴収されたり、とそのような目に会うのです。そうなんです。真にみことばに着くクリスチャンは、まさしく、圧制されたり、圧迫されたりするのです。

 

そしてこのことは、今は主にアメリカで起きていることではありますが、日本もそうですし、ゆくゆくは全世界に広がっていくであろう思われるのです。どんな風に?かは、具体的なことは、今は分かりませんが、しかし、すでにそういった兆候はあるようです。聞いたところによりますと、渋谷区では、「同性愛」を徐々に認める方向になりつつあるようです。それで、もし、そのことに異議を唱える企業やお店があったら、申し出るように、なんていう議案が上がっているようです。まだ、可決したわけではありませんが、しかし、もし、このことが通った場合に、「法を犯す者」として、訴えられる可能性はあると思います。特にクリスチャンはそういう可能性は大いにあると思います。でも、だからと言って、それを受け入れて良いか?圧迫されたから、圧制されたから、などとの理由で安易に受け入れてしまうときに、神さまから怒りを招いてしまう可能性が大いにありますので、しかも、それだけではなく、場合によってはこの世的なクリスチャンと見なされてしまって天の御国に入れなくなってしまう可能性もありますので、そのあたりは、正しく判断をして、対応していきたいと思います。

 

私の思い違いでなければですが・・・恐らく、終末は、政府や法律を下に、正しくみことばに着くクリスチャンが圧迫されたり、圧制されるような時なのでは?と思います。その究極が、艱難時代に反キリストを拝むかどうか?ということになると思います。その時に、反キリストを拝まない人は、黙示録に書かれていますように、首をはねられる可能性もあるのかもしれません。また、そこまではいかなくても、しかし、福音書に書かれていますように、苦しい目に会わせられるかもしれません。ではありましても、それはほんのひと時だけのことですので・・・艱難時代は3年半とか、7年とありますので・・・しかも永遠に比べたら、とても短いですので・・・なので、まかり間違えても、ほんの一時的なことで、反キリストを拝んでしまったり、獣のしるしを付けられてしまったり、みことばを捨ててしまったりして、永遠の命をミスすることのないようにしていきたいと思います。

 

出エジプト記に書かれていることは、遠い昔のことであり、今の私たちの歩みとは関連が無いように思われるかもしれませんが、しかし、レムナントキリスト教会の礼拝のメッセージとかでも繰り返し言われていますように、聖書に書かれているみことばの大半は、終末や艱難時代に向けて語られていますので、そういう意味合いでは、今回のみことばも、モーセの時だけではなく、終末においても成就していくのでは?と思われるのです。ですから、ぜひ、その日を見越して、備えをしていきたいと思います。もしかすると、クリスチャンは艱難時代を通らないで天国に挙げられます、なんていうことが言われているかもしれませんが、しかし、聖書ではかなりハッキリとクリスチャンが艱難時代を通ることが語られていますし、また、そのための備えも必須ですので・・・しかも、すでにそういう兆候がアメリカを起点に徐々に起きつつありますので、ぜひ、そのことを見据えて、歩みをしていきたいと思います。よろしければ、このようなこともご理解いただけると、幸いです。