聖書箇所 出エジプト記7:20

 

7:20 モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。

 

「『水が血に変わる』とは?」というテーマで、みことばに沿ってみていきたいと思います。

 

かつて、「血」について少し話をしたことがあったと思いますが、今回も「血」ということばが出てきますので、再度説明させていただきたいと思います。たしかに私たちの体内にも「血」が流れています。また、「水」ということばも出てきますが、私たちの体の大半は「水」で形成されているということを以前耳にしたことがあります。このことは肉体の話ではありますが・・・聖書の中で、じつは度々「血」とか「水」ということばが出てきます。これらはいずれも「霊的」なことに通じます。もっと言ってしまえば、聖霊と悪霊を描写するものであります。そしてこの度は、「水はことごとく血に変わった」ということに着眼してお話させていただきたいと思います。

 

まず、「ナイルの水」とありますが、ちなみにこの箇所はKJV訳ですと、「水」とだけ書かれています。そしてここでの「水」は「聖霊」を指します。また、「血に変わった」ということが言われていますが、ここでの「血」は、「悪い霊」のことを言っています。つまり聖霊の働きが悪霊の働きに変わった、ということを言っているのです。同じようなことが黙示録にもありますので、参考までに見てみましょう。

 

参照 ヨハネの黙示録16:3,4

16:3 第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。

16:4 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。

 

ここでは、「海」とか「川」とか「水の源」ということばが出てきます。これらはいずれも「聖霊」のことを言われています。しかし、それらが「血になった」ということが言われています。このことは先ほどの「水が血に変わった」ということと同じことを言われております。つまり聖霊の働きが悪霊の働きに変わったということを、ここでも言われているのです。そしてその結末について書かれています。「海の中のいのちのあるものは、みな死んだ」と。「いのちのあるもの」とは、クリスチャンのことを言われております。主がアダムを創られたときのことですが、「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7とあるのですが、「いのちの息」とは、「聖霊」のことを言われています。クリスチャンとノンクリスチャンの大きな違いは「聖霊」によって生きるかどうかですので、先ほどの「いのちのあるもの」とは、クリスチャンだという風にご理解いただけるかと思います。しかし、「みな死んだ」とありますように、クリスチャンが死んでしまったということを言われております。もしかするとこのことは肉体のことも言われているのかもしれませんが・・・しかし、これは恐らくこういうことではないかと思うのです。つまり聖霊の働きが悪霊の働きに変わったことによって、クリスチャンの霊的な命が無くなってしまった、ということをも言われていると思います。分かりやすく言えば、クリスチャンから聖霊の働きが消えてしまった、ということです。また、このことに関しては、出エジプト記においても、やはり同じようなことが書かれています。

 

参照 出エジプト記7:17,18

7:17 主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、

7:18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」

 

「水は血に変わり、」とあります。ここでも再度、聖霊の働きが悪霊の働きに変わったということを言われております。その結果、「ナイルの魚は死に」とあります。ちなみに「魚」は「クリスチャン」を指すたとえです。かつてイエスさまがペテロやヨハネやヤコブに、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイの福音書4:19と言われた通りであります。そうです。先ほどの黙示録と同じく、ここでもクリスチャンから聖霊の働きが無くなったために霊的に枯渇してしまう、死んでしまう、ということを言われているのです。

 

ですからここでの結論としては、「聖霊の働き」を決して絶やしてはいけない、ということです。ちなみにどんな状況になるとそんな風になってしまうか?のヒントがここにあるかなぁ、と思いましたので、少し話したいと思います。18節の「エジプト人」ということばがそうではないかな?と思います。前にも話しましたように、「エジプト」は「この世」のことを指します。ゆえに「エジプト人」とは、この世に着いたクリスチャンのことを言われています。つまり、こういうことではないかと思います。クリスチャンとして歩みをするのはとても尊いことではあるのですが、しかし、そうではあってもこの世に着いてしまう、というときに、内住している聖霊さまを悲しませることとなり、あわや聖霊さまが働かなくなってしまい、その代わりに悪霊が働くようになってしまうのだと思います。ゆえにもしも、この世に着いてしまっているかなぁ、なんて思うことがありましたら、そこからは離れていきたいと思います。そのままグーッとこの世のことに着いてしまうときに、「水」(聖霊)が「血」(悪霊)に変わってしまいますので、そしてそのままの状態でクリスチャン生涯を終えてしまうというときに、天の御国が保障されない可能性がありますので、気を付けていきたいと思います。そして黙示録には、この世に着いたクリスチャンに対して災いが来るということを語っていますので、参考までに紹介しておきます。

 

参照 ヨハネの黙示録8:13

8:13 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

 

ちなみに世の終わりには、聖霊が追い出されることを言われています。たとえばⅡテサロニケ人への手紙には聖霊さまが取り除かれることが書かれています。(Ⅱテサロニケ人への手紙2:7)また、黙示録ではラオデキヤの教会において、イエス・キリストを戸の外に追い出していること(ヨハネの黙示録3:20)が書かれています。これはまさしく、聖霊さまを追い出して、その代わりに悪霊を招いて歩んでいる教会やクリスチャンの型ではないかと思いますので、要注意であります。ですので、ぜひ聖霊さまを求めて歩んでいくことをクリスチャン生涯において全うしていきたいと思います。そして天の御国に入っていきたいと思います。よろしければこのようなこともご理解いただけると幸いに思います。