聖書箇所 出エジプト記8:28

 

8:28 パロは言った。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」

 

「エジプト化した教会から出る」というテーマで、みことばに沿って見ていきたいと思います。

 

最近、出エジプト記5章から「公の教会を出て、地下教会(荒野)へ」というテーマで話をさせていただいきましたが、そのことに関連して今年の2月の土曜日の集会で、エレミヤ牧師が今回の8章28節のことも含めて大事なことをメッセージされていましたので、今回はそのことを紹介させていただきたいと思います。

 

以下、エレミヤ牧師によるメッセージです。

 

終末は、「出エジプト」と関連します。それに関して、まず、黙示録を見てみたいと思います。

 

[聖書箇所]ヨハネの黙示録11:8

11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

「ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」とは、「同性愛を公認する教会」のことです。そして、「エジプトと呼ばれる大きな都」とは、「この世に着いた教会」のことを言われています。つまり黙示録には、「出エジプト」に関連したことが出てきます。引き続き、黙示録を見ていきましょう。

 

[聖書箇所]ヨハネの黙示録15:3

15:3 彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。

 

ここに出てくる「モーセ」は、出エジプト記のモーセのことを言われています。そして終末は、出エジプトの再現の時でもあります。更に黙示録を見ていきましょう。

 

[聖書箇所]ヨハネの黙示録16:24

16:2 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。

16:3 第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。

16:4 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。

 

「悪性のはれもの」ということばは、出エジプト記にも出てきます。水が血に変わることもそうです。たしかに黙示録は難解の書であります。しかし旧約聖書を読むと理解出来ます。何百節にもわたって旧約聖書のことが出てくるからです。ゆえにきちんと旧約聖書を読むなら理解出来ます。それでは世の終わりに、「出エジプト」が再現することを、「旧約聖書」(出エジプト記)を通して、見ていきましょう。

 

[聖書箇所]出エジプト記5:3

5:3 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」

 

この時に神さまがモーセに言ったことは、「イスラエルはエジプトに留まった状態で礼拝はできない。すなわちエジプトを出ないと、『神の御心』を満たすことができない。」ということです。

 

ここでのポイントとしては、そういう時代になったら、「出エジプト」が必須だということです。

 

「三日」とは、「三日目のミレニアム」に通じます。今がまさしくその時です。ですから「出エジプト」の預言は、今の時代を言っている可能性があります。つまりそういう時代になったら「出エジプト」をしないと、疫病や飢きんに見舞われてしまいます。はたまたそれは「永遠の命」に関する可能性があります。

 

ここで主が言われている事柄としては、私たちがこの地に住み続けていくときに、入るべき地に入っていけない可能性がある、ということです。

 

更に見ていきましょう。

 

[聖書箇所]出エジプト記6:8

6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」

 

ここでのポイントは、エジプトにイスラエルが住み続けているときに、アブラハム、イサクに語った約束の地に入れない、ということです。つまりこの世に着いた教会に最後まで留まり続けていたら、約束の地に入れない可能性がある、ということです。

 

それに関連して・・・たとえばヤコブがエジプトにいるヨセフに会いに行った時に、「死後、エジプトに葬らないでくれ!」と言いました。そしてヨセフもそう言いました。それでモーセがヨセフの遺骸をエジプトから持って行きました。つまり、「死体を葬る=人が死後、どこへ行くのか?」ということなので、大事なのは死後、どこへ行くのか?ということです。せっかくですので、その箇所に関連するみことばを見てみたいと思います。

 

[聖書箇所]マタイの福音書16:26

16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 

もし、「約束の地」に葬られないなら、「約束の命」を得られません。つまりエジプトに葬られるなら、入るべき御国に入れない可能性があります。それに関連して、ヘブル人への手紙を見てみましょう。

 

[聖書箇所]へブル人への手紙11:24,25

11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、

11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 

モーセは、「はかない罪の楽しみ」よりも、苦しむほうを選びました。「エジプト=『罪』の中に生きるクリスチャン生活」のことです。そして3つ目のミレニアムの時、すなわち世の終わりは、教会はこの世の事柄を受けていきます。そうです。「はかない罪の楽しみ」を受けるようになり、結果として入るべき所に入れない可能性があるのです。

 

[聖書箇所]出エジプト記6:5

6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。

 

エジプトに住んでいるイスラエル人(クリスチャン)は、奴隷(罪の奴隷)です。エジプト化した教会にどうしても留まっていたい、というときに、「奴隷」の地位から解放されることができません。そしてそれは「天の家」を受け継がない可能性があります。エジプト化した教会に留まるかどうかは、「永遠の命」を左右する可能性があります。

 

ちなみにエジプト化した教会とは、カウンセリングを導入していたり、同性愛を迎合するような教会のことです。こういう所に留まっているときに、いくら「神の命によって生きています!永遠の命を持っています!」と言っても、それは名目だけになってしまいます。黙示録のサルデス(プロテスタント)の教会がまさに「死」(罪)の中に生きているという風に神さまからは見なされています。そして多くのプロテスタントのクリスチャンの「名」が、「いのちの書」から消されています。

 

[聖書箇所]出エジプト記6:1

6:1 それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」

 

いずれパロは、イスラエルを追い出さざるを得なくなります。このことは終末にも再現します。正しくクリスチャンが教会(エジプト化した教会)から追い出されます。そしてその日に備えて、レムナントキリスト教会はメッセージを語っています。

 

[聖書箇所]出エジプト記7:5

7:5 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」

 

このことも実現すると思われます。しかし反面、パロがことばを変えて妨害して出さないという面も見なければいけません。

 

公の教会を出て、自宅で集会することを留めるという働き(Ex:家庭集会でメッセージをしていた牧師が逮捕)が、アメリカではすでに起きています。そしていずれアメリカ以外の国でもこのようなことが来ます。しかしそうではあっても反面、神が「出エジプト」のことを語っているということもきちんと見たいと思います。そして両方は無理、ということは正しく理解しておきましょう。つまり人の前にも良い顔をして、神の前にも良い、ということは無い、ということです。

 

ポイントは、エジプト化した教会から出ないと、「罪」からの解放は無理!ということです。

 

[聖書箇所]出エジプト記7:17,18

7:17 主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、

7:18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」

 

エジプト化した教会のひとつの災いとして、悪霊のリバイバルが広がっていく、ということが挙げられます。それゆえに正しいクリスチャンはそこから出て行く必要があります。

 

[聖書箇所]出エジプト記7:14

7:14 主はモーセに仰せられた。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。

 

「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。」とありますように、何が何でもクリスチャンを出さない、という働きが、アメリカをはじめ出てきます。

 

その時のポイントは、地下教会を行うことです。仮庵の祭りを守ることです。ここでも、出エジプトすることに御心がある、ということを述べています。

 

[聖書箇所]出エジプト記8:28

8:28 パロは言った。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」

 

さて、ここは冒頭の聖書箇所の部分ですが・・・

 

ここでパロが、「遠くへ行ってはならない」と言っているように、「エジプト化した教会から離れるな!」ということを言われています。でも、神は、「三日の道のりの旅をして、エジプト化した教会離れて礼拝をしろ!」と言っています。そして神の言うことが正しく、つまりエジプト化した教会を離れることにポイントがあります。

 

[聖書箇所]出エジプト記9:36

9:3 見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。

9:4 しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」

9:5 また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行なう。」

9:6 主は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。

 

「疫病」(霊的な災い)で、「エジプトの家畜」はことごとく死にました。

 

これから神の前に、「霊の区分」が来ます。そしてエジプト化した教会は、「混乱」が起きます。反対にイスラエルとして正しく歩むなら、悪霊の真只中でも守られます。おかしなリバイバルから守られます。主の完全な守りがあるので大騒ぎする必要は無いのです。

 

[聖書箇所]出エジプト記12:15

12:15 あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。

 

出エジプトをするその日に、「種を入れないパン」(みことばのパンに余計なものを入れないもの)の祭り、過ぎ越しの祭りが行われました。

 

また、「種を入れたパン」とありますように、「パン種」に関連してのことを言われています。そしてこのことはこの世に着いた教会の災いについて語っています。たしかに全てのみことばは純粋です。でも、それに余計なものを混ぜてしまうことを言っています。一例を挙げるなら、「艱難前携挙説」がそうです。

 

出エジプトをしたら、「パン種の教え」を取り除くことです。なぜなら今の神学はあらゆる「パン種」が入っているからです。

 

[聖書箇所]出エジプト記12:22,23

12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。

12:23 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。

 

ここでのポイントは、「血(聖霊に関する、小羊の血)」を「かもい」と「門柱」に塗ることです。

 

エジプト化した教会では、「聖霊の働き」が軽視され、「悪霊の働き」が強調されています。しかし祈りの中で、聖霊に触れていくことが大事です。

 

このことは「初子が死ぬ」と関連するのですが、「初子が死ぬ」ことと、「イエスの贖い」とは関連があり、要は「贖い」が適用されない、ということを言われています。この世に着いた教会において、「贖い」が適用されないということを言われています。そしてこれは「永遠の命」に入らないということを言っています。

 

エジプト化した教会の災いのひとつに、「あるはずの救いが無い」というものがあります。「当然あるはずの救い」が、じつは抜けていたということになります。

 

以上のことから、この世化した教会からはいずれ出るということが正しい結論となります。両立はありません。この世化した教会から出る、という選択肢しかありません。それを選ばないときに、「奴隷」からの解放は無く、「約束の地」(天の御国)に入りません。ゆえに「三日の距離」を歩き、「荒野」での歩みをしていきたいと思います。

 

以上のことをエレミヤ牧師がメッセージされていたのですが、今回のポイントは、テーマにも掲げましたように、「エジプト化した教会から出る」ということです。このことは終末において大事なキーになるのでは?と私個人は思いましたので、紹介させていただきました。もし、そうかもしれない、なんて思われましたら、実践していきましょう。